2016年8月9日火曜日

2014年 冒険の書 その9(北陸その2) #2

【2日目】8/24(日)
 すべては残り0.1kmのために。

 0755時起床。
 起床後、テレビをつけると不意に「新婚さんいらっしゃい」が始まって、その不意打ちにSAN値を削られつつ出発の準備をする。朝っぱらから観る番組ではない。T氏は「ドラゴンボールがやっていないじゃないか!」と不満げである。

アイエシンコンサンイラッシャイアイエナンデ!!

 空は雨模様だったが、出かける頃には曇りになっていた。
 0930時にT氏とともに宿を出発。その足でJR富山駅の北側にある富山ライトレールの乗り場へ向かう。

 今日は、この富山ライトレールの終点、岩瀬浜から、バスで富山地鉄射水線の廃線跡をなぞりつつ、途中、連絡船を使って富山新港を渡り、対岸の万葉線という電車に乗るスケジュールとなっている。

 富山ライトレールには、奇しくも3年前の2011年5月3日にT氏と乗りにきていたので、再びT氏とこの路線に乗るのは、何だか不思議な感じがする。僕の私鉄全線完乗の日に、再びT氏とこの路線に乗る日が来るとは思いもしなかった。

富山ライトレール

 軽快な雰囲気の白い車両は富山駅前を出ると、しばらく道路上を走ったのち、普通の電車のように専用の線路に入って、あとは岩瀬浜の駅まで淡々と走る。車窓は住宅地で、これといって見どころはない。いったん終点の岩瀬浜に行ったものの、バスの接続が悪いので、途中の競輪場前駅まで戻る。

競輪場前駅へ

 僕は賭け事をしない性質だが、ギャンブル場の雑然としたあの独特の雰囲気は嫌いではないので、旅先ではその地域のギャンブル場に足を運ぶようにしている。賭けをしなくても馬や自転車を見ているのは楽しいもので、旅先で暇をつぶすにはギャンブル場に行くのが一番である。それに、もしかしたら、ギャンブル場の周りでいい飲み屋やうまい飯にありつけるかもしれないという期待もある。ギャンブラーはグルメで酒飲みが多い。

 競輪場前で降りると、目の前に富山競輪場があった。今日は日曜日、当然レースもある。
 とはいえ僕は先に述べたように賭け事をしないので、競輪場の中を散策するに留める。走路を見たり、車券売り場で予想屋さんの口上をそれとなく聞いてみたり、売店や食堂を覗いてみたり。
 どこのギャンブル場でも、僕は煮込みとかもつ煮を探す。今はなき花月園競輪場で食べた煮込みがうまかったのが忘れられず、行く先々のギャンブル場で煮込みを探しては食べ、酒があれば少し呑むということをしている。この富山競輪場には、もつうどんがあったが、今回はあまり時間がなかったので食べずにそのまま出てきた。そういえば、僕が場内をぶらぶらしている間にT氏は車券を買ったそうだが、結果は芳しくなかったようだ。

富山競輪場の走路 練習走行が見れた
やってきた岩瀬浜行き

 富山ライトレールで再び岩瀬浜に戻る。ここからはバスである。バスといってもマイクロバスだが。
 バスの車内ではなぜか軍歌が。よく聞くと、ラジオから流れてきたものだったが、いまどき軍歌を流すラジオなんてあるのかと驚かされる。
 バスは国道415号線で神通川を渡って、海沿いの集落を縫うように走ってゆく。途中、廃止となった富山地鉄射水線の廃線跡らしき遊歩道をちらちら横目で見ながら、30分ほどで堀岡発着所という小さな渡船乗り場に到着。

 バスを降りるとすぐに、舳先に「海竜」と書かれた、白とオレンジのツートンで塗り分けられた船がやってくる。これは県営の渡し船で、運賃は無料。タダで乗れるのは、この船に道路の代替という面があるからだろう。

渡船乗り場

 そもそも射水線が廃止になった理由も、この富山新港の開削がある。放生津と呼ばれていたこの一帯はもともと陸続きだったが、港を作ることによって道路と鉄道が分断されてしまった。よって、この渡し船は、それら陸上交通手段の代替という役割もある。

 フェリーというには少し小さいが、渡り板がついていて自転車や原付も運んでくれる。

渡し船 船名は「海竜」

小さいながらもブリッジには風格が

 富山新港を横切る、10分間の船旅である。右の頭上には新湊大橋という巨大な橋が見える。先ほどのバスに乗っていれば、船を使わずともこの橋を越えていくが、バスよりも船のほうが、この先の万葉線の駅へのアクセスがよいので船を選択した。

橋があるのに船で行くアマノジャク

 渡り船を降りて、万葉線の越ノ潟の駅前にたどり着いた時の感覚は身震いに近いものがあった。長年の念願であった鉄道全線完乗、その中の「私鉄・第三セクター・公営」という括り、平たく言えばJRではない路線の全線に、いよいよ乗るんだと。心がぞわぞわするのを感じる。

最後の旅路のはじまり

越ノ潟にやってきた電車

 とはいえ時間はすでに昼。僕もT氏も腹が減ったので、2つ目の東新湊で途中下車をして、近くの「新湊きっときと市場」で昼食を取る。市場は観光客で大変な混雑で、海鮮物なのにしばらく待たされて閉口した。

 東新湊に戻り、簡素な駅を眺めながら電車を待つ。次の電車の終点まで行けば、いよいよ私鉄・第三セクター・公営の鉄軌道全線に乗車したことになる。電車を待つ間、僕の心ははやるばかりで、半分はうわの空だった。

東新湊駅を出ていく電車 後ろは日本高周波鋼業の工場

草生した万葉線の線路

 しかし、なぜこの万葉線、正確に記述すると万葉線株式会社の新湊港線4.9kmと高岡軌道線8.0km、合わせて12.9kmのうち、0.1kmだけが未乗のまま残っているのかというと、少々説明が長くなる。

 僕が万葉線に初めて乗ったのは2008年1月4日。あの日は今日とは逆ルートで、高岡駅前から越ノ潟までの道のりを辿った。あの日確かに僕は新湊港線と高岡軌道線合わせて12.8kmに乗っている。何となれば、T氏に聞くのもいいだろう。実はあの日も僕はT氏と北陸に来ていた。ここまで来ると何か因縁めいたものを感じる。

 ここで「おや」と思われた方は鋭い。
 僕は先ほど「新湊港線4.9kmと高岡軌道線8.0km、合わせて12.9km」と述べたが、2008年の僕の乗車記録は「12.8km」である。ここまで来ればお察しのとおりで、つまり、これは僕が0.1kmを残したり自己の記録を改ざんしたりしているのではなく、線路のほうが勝手に延びたのである。高岡駅前の改修工事に伴い、2014年3月29日、万葉線の線路が0.1km延びた。

 乗りつぶしが趣味の僕ではあるが、さすがに自宅から陸路で400kmも離れた富山県に、たった0.1kmだけ乗り残しを作るほど酔狂ではない。しかし、線路ができてしまったとあらば乗らざるを得ない。僕が通ったことがない線路は、100メートルどころか、たとえ1メートルでも残したくない。乗れる線路には全部乗ってみたい。これはもう僕の本能のひとつになっている。

 腹ごしらえをした僕らを乗せた電車は、ゆっくりと街中を抜け、遠く白川郷から流れてくる庄川を鉄橋で渡る。その風景を見ながら、私鉄完乗というひとつの区切りが一歩一歩近づいてくるのを、僕はひたひたと実感していたが、もうひとつ、僕のほうにひたひたとやってくるものがあった。

 尿意だ。

 この大事な頃合いに及んで尿意とは、出かける前にさんざんトイレを促されていながらもぐずぐずして、乗り物に乗った途端にそれを催す小学生のようで恥ずかしさがあるが、こればかりは逆らえない。
 万葉線のうち、高岡軌道線は完全に路面電車である。走っていてもそんなにスピードは出せない。道路の信号に引っかかれば電車はそこで歩みを止める。そのたびに、僕の中で、完乗までのカウントダウンと、膀胱のカウントダウンが真っ向から激突する。T氏は「もう少しだから我慢してくれ」というが、僕とて未乗区間を冷や汗をかきながら通ったり、完乗達成の次の瞬間には余韻に浸る間もなく内股歩きでトイレに駆け込むなどはしたくはない。

 僕はいち早い私鉄完乗達成よりも、人間の尊厳を取った。
 人間、命と尊厳あっての物種である。

 「せっかくだから高岡の駅で僕を出迎えたい」というT氏を車内に残し、市民病院前という電停で電車を飛び降りて、トイレを貸してくれそうなところを探す。

 だが、何もない。

 病院があるのだから、コンビニの一つぐらいあるだろうと思って降りたのだが、それすらない。そもそも市民病院が見当たらない。市民病院というのだから、それなりに大きな病院なのだろうが、電停からはそれらしきものが見えない。青ざめてスマホの地図を見ると、駅から住宅地を突っ切って200mぐらい歩いたところに市民病院がある。200mはもう「病院前」ではないだろう、電停ひとつぐらいあるじゃないかと、心中呪詛を唱えながら、僕は冷や汗を垂らしながら病院まで歩いていき、見舞い客用のトイレを拝借。事なきを得て、再び電停から電車に乗り込む。

ラストランナー

 僕を乗せた電車は、もったいぶったように路面区間をのろのろと走り、片原町という十字路で左折する。ここまで来れば、高岡駅まであと600mほど。末広町という電停で残り500m。そのまま高岡駅前に躍り出て、線路が駅舎に向かってカーブするあたりから、僕の未乗私鉄最後の100mだ。昔この路線に乗ったときは、このカーブがなくて、線路はそのまま駅前に突っ込んでいた。

 心の中で、あと80m、60m、40m…とカウントしてゆく。40mのあたりで電車は高岡駅の電停のホームへ。やがて電車は高岡駅前の電停に静かに停まり、ドアが開いて他の乗客がどんどん降りてゆく。それをやり過ごし、僕は一番最後に、白いコンクリ板でできた電停にゆっくりと足をつける。

7470.4kmの向こう側に着いてしまった

 ホームでとびきりの笑顔とともに出迎えてくれたT氏と握手をして、僕の私鉄・第三セクター・公営鉄軌道全線、7470.4kmの旅路が終わった。

 私鉄全線7470.4km。
 僕は心の中でその数値とたどってきた旅路を、何度も何度も反芻した。

 JR全線19901.0kmに比べれば大した数値ではないように思われるが、私鉄とひとくくりにしても、近鉄や東武のような数百キロもの路線がある大手私鉄から、網の目のように走る大都市圏の地下鉄や路面電車、あるいは都会から遠く離れた地方私鉄の数々、赤字の国鉄線を転換した第三セクター路線、いわゆる並行在来線と呼ばれる元JR線たち、そして交通不便な山奥のケーブルカーまで、全国津々浦々に、いろいろな形態の路線がある。

 それらのすべてに乗るという行為は、特急などの速達列車や、乗り放題のきっぷが充実しているJR全線に乗るよりも、格段に時間とお金がかかる。それをやり遂げたときの喜びは、実はJRのそれよりも大きいのではと思う。

 もう、日本のどこにも、僕が乗っていない私鉄の路線がない。
 それは僕を、うれしいような、さみしいような、なんともいえない心持ちにさせた。旅の動機が失われた気がしたのも事実である。
 
 そんな浮足立った心の整理をすべく、僕は氷見線に乗って、雨晴海岸に行くことにした。
 氷見線は、僕がまだ小学生になる前に親父に連れられて乗った、僕が生まれて最初に「旅」をした路線だ。
 はじめて氷見線に乗ったのは1988年、まだ僕は幼稚園児だった。ロングシートの気動車に揺られながら、途中の「あまはらし」という不思議な駅に興味を持ったのを覚えている。帰りにその「あまはらし」で降りて、親父と砂浜で遊んだ記憶もある。
 大げさに言えば、人生をかけてきたひとつの大きな旅を終えて、僕は自分が旅人になった原点の場所を訪ねたくなったのだった。その「あまはらし」へ、26年ぶりの訪問である。

僕が乗った氷見線の列車 このキャラクターは誰?

 氷見線の気動車は、あの頃と同じようにガタゴトと高岡の街を抜けて、越中国分の先で富山湾沿いに躍り出る。海からちょこんと出た岩をかすめて、列車は雨晴駅へ。あの頃と変わらない、大きくて立派な木造駅舎が僕を出迎えてくれた。駅前からふらふら歩いて、踏切を渡って海に出る。

雨晴駅
海へと続く踏切
その踏切から雨晴駅構内を望む

 雨晴の砂浜で、やっぱりあの頃のように砂を手ですくってみる。かつてここで砂をつかんでからの26年の間に、僕はいろいろなところを旅してきた。日本中の鉄道全線に乗るという、手段と目的を違えた、いささかよこしまな趣味のおかげで、47都道府県すべてを巡り、鉄道ではほぼ行ってないところはないというところまで来た。日本に飽き足らず、台湾にも行った。

 しかし、手のひらに載せた砂の感触は26年前のあの時と変わらない。雨晴の海は、僕に対して、お前は一体何をしてきたんだ、何を見てきたんだという風でもある。日本の私鉄全線に乗ったぐらいでいい気になるなよと、僕を戒める感じもする。

海は26年前と変わらなかった

 思い返せば、景色というものには、心をほとんど配らずに旅をしてきたのも事実である。乗るのに夢中で、風景を見てこなかった。確かに乗ったはず、見たはず、聞いたはずのものたちが、僕の記憶の中にぼんやりと浮かんでいるだけで、これといって印象が深い景色というものは、実はないのではないか。

 僕は旅ではなく、単に移動をしてきただけなのではと思わされるひとときだった。自分がしてきたことが「旅」だと言っても、それを証明する術は僕にはない。旅をしているんだといううぬぼれだっただけかもしれない。

 2周目は風景を、光景を、情景をもっと観よう。

 そう思いながら、僕は雨晴をあとにして高岡に戻ると、手土産のほかに僕のために祝杯をしこたま抱えて待っていてくれたT氏とともに、長岡まで特急「北越」の人となった。

長岡にて

 さて、残るはJR線1.0km。
 これでいよいよすべてが終わる。

 いや、本当は1.0km乗れば、何もかもがすっきり終わるはずだった。


 【今回の実績解除記録】
 万葉線 高岡軌道線 旧高岡駅~高岡駅(0.1km) *駅移転による未乗区間。
 私鉄・第三セクター・公営線全線(7470.4km)

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