今回は趣向を変えて書いてみる。
長くて読みにくいので、そのうち書き直すかもしれない。
2014年の8月に高岡市の万葉線で私鉄全線完乗を果たして、JRの未踏区間も残すところは鶴見線の安善から大川の間、いわゆる大川支線の1.0kmだけになっていた。これに乗ってしまえば、僕は日本に現在ある鉄道路線のすべてに乗ったことになる。
せっかちな僕のことであるから、普段であれば「じゃあやっつけちゃいますか」という感じであっさりと乗ってしまうが、この大川支線だけはそうはいかなかった。
話は同年1月にさかのぼる。
友人のNo氏とSa氏、それに僕の3人で呑んでいるとき、ふと僕の全線完乗が近いという話になった。なにぶん酒席でのこと、もはや詳細な記憶が定かではないのだが、その席で「僕が鉄道全線完乗を達成する瞬間を、人様に見届けてもらう」という趣旨の集いをやるという話を自分からぶち上げた。
本来ならば、こういう集いは有志が設けてくれるものであるが、僕はどうしたことか、自分でやると決めてしまった。自分のことなのに「泣いちゃうかもね」などと言った覚えもあり、自作自演、自画自賛にも程があると我ながらあきれるが、ともあれ集いを実施する方向で進めることとした。
その予定日は10月12日。体育の日を伴う3連休の中日である。1月時点で未踏のまま残っている路線を踏破するスケジュールや予備日などを踏まえ、かつ、10月14日の鉄道の日に近いということで、この日にしたのであった。幸い、酔いに任せて企画した集いにもかかわらず、募集をかけたところ、数名の人が足を運んでくれることになった。個人的には1日も早く大川支線に乗りたくてうずうずしていたが、人様に日時を指定してピンポイントで来てもらう以上、勝手に予定を前倒しなどできないわけである。
というような経緯があって、8月の私鉄完乗から2か月余りの間、大川支線は「温存」されることになった。その間、僕はZa氏と西武ドームまで野球を観に行って、その際に西武狭山線で私鉄完乗の「2周目」を始めてみたり、No氏、Su氏とともに、秋田にMo氏を訪ねる旅をして秋田内陸縦貫鉄道に乗りつつ大釜温泉や田沢湖を巡るなどして、その日を待った。
温存といっても、大川支線は僕の中で「ここを最後の一線にしよう」と決めていた路線である。僕が小さい頃、大川支線には戦前製の古い電車が走っていた。いつかその古い電車に乗ってみたいと思っていたが、僕が中学生ぐらいのときに古い電車は引退してしまった。大川支線に乗る動機が失われた僕は、大川支線を「いつでも乗れる近くて短い路線」ということでしばらく放置していた。そして完乗への意志の芽生えとともに、せっかく残っているならば、最後は大川支線にしようと思い立って、僕は大川支線を放置ではなく温存することにした。
最後の路線は、もっと風情のある路線や長大な路線でもいいのだが、風情のある路線は概して関東から遠く、長大な路線は乗るだけで疲弊する。であれば、やはりこういうときは「近くて短い路線」にしたいというのもあった。距離1.0km、時間にしてわずか数分に過ぎない最後の旅路の中で、僕は何を思うか。そういう体験もしてみたかった。
10月12日、午前11時。
今日は鶴見線大川支線に乗る日であるが、僕は拙宅から鶴見とは逆方向の、高崎駅のホームに立っていた。
前日夜、念のため乗り残しがないか確認していたところ、群馬を走る吾妻線の岩島から長野原草津口までの11.5kmが、ダム建設に伴う線路つけかえのため、9月に新線扱いとなっていた。ちょうど僕が秋田で温泉に浸かっていた頃に、吾妻線の線路は僕の知らないうちに生まれ変わっていたのである。これを確認せずに鶴見線に乗っていたらぬか喜びになるところだったと肝を冷やしたが、幸いにして鶴見線の大川行きは、休日ダイヤだと朝1本と夕方2本の3本しかなく、乗る予定の列車は夕方2本目、つまり最終列車にしてあったので、吾妻線をやっつける時間を確保できた。
吾妻線は草津温泉や万座温泉への足として、上野から直通の特急が走っているが、どちらかというと地味かつ単調でつまらない路線という記憶があった。前に吾妻線全線に乗ったのはいつだったか記憶が定かではないが、終点の大前まで長椅子の電車に揺られて、風景もろくすっぽ見えずに、えらく退屈した覚えがある。その大前も、谷のどんづまりにあって、これ以上線路が進めないようなうら寂しいところだった。だが、今日はそこまで行かず、手前で引き返す。
かぼちゃ色の古い電車は、渋川で上越線と別れて、モータをうんうんと唸らせて吾妻川が削った谷を登ってゆく。車窓は、たまに見える吾妻川の流れがまぶしいが、他は青々とした山が続くだけの単調な路線である。あと1か月遅ければ紅葉がさぞきれいなことだろう。10月半ばに乗ってしまうのはもったいない路線かもしれない。
高崎から1時間ほど電車に揺られ、岩島を過ぎるといよいよ未乗区間である。線路は左に折れて吾妻川を渡る。その先に長いトンネルがあって、それを抜けると川原湯温泉。線路をつけかえる前はこのトンネルの外、吾妻渓谷と呼ばれる谷を走っていて、ここには日本一短い鉄道トンネルと呼ばれた樽沢トンネル、全長7.2メートルなどというものもあり、鉄道図鑑や百科事典に載るなどして吾妻線の名物であったが、これもすでに過去のものになってしまった。
川原湯温泉からもまたトンネルで、それを抜けて吾妻川の深いV字谷を真っ白なコンクリート橋で渡ると長野原草津口である。あっさりと未乗区間は終わった。
駅舎は線路付け替えに合わせて新築にしたと見えて真新しい。みどりの窓口で上野行きの特急草津の指定券を買ってから、再開発真っ最中でコンビニひとつない駅前で時間を潰す。先ほど電車で渡った吾妻川の谷を覗きにいくと、ひすい色の水が眼下20メートルぐらいのところを流れていて思わず足がすくむ。駅前に戻ると、ちょうど草津温泉からのバスが4台もつらなってやってきて、そのどれもが車内に詰め込んだ老若男女を吐き出している。草津温泉には鉄道こそ来ていないが、代わりにJRバスの「駅」があって、そこからバスと通しでJRの乗車券を買えるという。そんなことを聞くと、鉄道だけでなくJRバスも乗ってみたいなと思う。
帰路は上野まで特急草津32号に乗る。進行方向右側の席。群馬や埼玉で、常磐線の特急ひたちのお古に揺られるのは変な気分だ。JRの車両のやりくりはよくわからない。
沈みかけた太陽を受けて光る線路をぼんやり眺めるうちに、ふと、今までの旅路のことをいろいろと思い出す。27,000km余りの道のりの中には、車窓がきれいだったりSL列車に乗ってみたりと楽しかった路線もあれば、混んでいたり長かったり夜行で眠れなかったりと、乗るのがつらい路線もあった。あるいは僕が乗った後、廃線になってしまった路線もある。27,000kmは物理的に長かったと思うとともに、物心ついた時から30年以上かけて乗ってきて、永かったとも思う。
車内に居合わせた赤ちゃんが突然泣く。母親は泣きやむように一生懸命にあやす。いつもならどうしたものかと気になるが、今日はその泣き声すらも気にならない。あるいは、通り過ぎる駅の端っこに、カメラを構えた同業者たちがたくさんいる。いつもなら何か珍しい列車でも来るのかと気になるが、これも気にならない。
僕はただただ、今までたどった旅路の数々をかみしめて、横をずっと流れている線路を眺めているだけだった。
物思いにふけっていると、特急電車は荒川を渡って都内へ入っていた。上野で京浜東北線に乗り換えて鶴見に向かうわけだが、乗車券は通しで買わずに上野で一度切った。それは、長野原草津口で大川までのきっぷを買うのが恥ずかしかったのと、最後の旅は僕のてつおた趣味のルーツである上野から始めたいと思ったからである。
16時25分。特急は、上野駅のいわゆる低いホームに着いた。線路の終端のところに立って、低いホームに横付けされた我が特急草津と、高いホームに停まっている常磐線の快速電車を眺めていると、昔を思い出した。
ここは僕が小さい頃、祖父に連れられてよく電車を見に来ていたところだ。あの頃は長野へ行く特急「あさま」や山形行きの「つばさ」、それに会津若松行きの「あいづ」、夜になれば北へ向かうブルートレインがたくさん停まっていたが、今は特急ひたちと草津だけで、もうブルートレインはない。常磐線の快速電車も、エメラルド1色の古い電車から銀色の新型に変わった。
上野の券売機で550円区間の切符を買って京浜東北線に乗る。車内は3連休の中日とあって、用務客よりも行楽客や旅行者のほうが多いように見受けられる。
秋葉原で座れたので、あとは椅子に身を預けて鶴見まで行く。上野から鶴見までは40分ほどかかるので、必然、完乗を前にしていろいろと思い、考えることになった。東京駅の発車メロディを聞いた時には、ふと鉄道学校時代にこの駅で実習をしたことを思い出して、20年近く前の記憶がありありとよみがえった。新幹線の改札口できっぷ切りをしたことはもちろん、休憩室の鍵の暗証番号まで思い出した。
あるいは、この混雑した10両編成の電車に乗っている人の中で、いったいどれだけの人が鉄道全線に乗ったことがあるのだろうと、ふと考える。あるいは、僕のようにリーチの人はいるのだろうか、などとも考える。いるのかもしれないが、いない確率のほうが高いのだろうなと勝手に結論を出す。
そういえば、完乗を果たした人というのは、僕の周りにはいない。鉄道学校の同級生たちなら、誰かがやりとげているかもしれないが、彼らとはもう付き合いがない。完乗を果たす直前の気分、あるいは果たした後の気分とはいかなるものなのかを聞く相手がいなかったのだが、今思うにそれは幸いだったのかもしれない。
完乗は、人にどうこう言われたり聞いたりするものではなく、自分が自分のためにやると決めた、ひとりぼっちの約束なのである。
鶴見駅17時20分着。
鶴見線はもともと私鉄だったので、京浜東北線とは改札が独立していて、乗り換えるのも連絡改札口を通らなければならない。
その連絡改札に向かうと、すでに臨席を約してくれた友人たちが集まっていた。乗るべき列車は17時45分発の大川行き。これが本日の大川行き最終電車である。いつもは何気なく乗る通勤電車が、今日はどうにも敷居が高い。
心臓がばくばくして息苦しい。意を決して、銀色の3両編成に乗り込む。
車内には僕らのほかに、大川へ行くと思われる祖父と孫らしきコンビ、それに買い物客などが数名。日曜夜。臨海工業地帯の末端へ行く通勤客は誰もいない。
定刻17時45分、電車はどこの駅でも流れるような平凡な発車メロディを一通り聞き終えると、ドアを閉めてじわりと動き始める。総持寺を横目に見てから東海道線をまたぐと、淡々と国道、鶴見小野、弁天橋と停まっては買い物客を降ろしてゆく。
弁天橋には電車の車庫があるので目を凝らすが、真っ暗であまり見えない。
途中、友人のT氏から、大川駅の場内信号機が黄色に灯っている写真がツイッターで送られてくる。この黄色が赤に変わる頃には、僕は完乗を果たしているのかと思うと、胸の鼓動が高まる。
17時53分、鶴見線本線と大川支線の分岐駅である安善駅を発車。客はすでに僕らと件のコンビしかいない。
しばらく本線を走ると、電車はがたごとと分岐点を渡って右に急カーブを切る。車輪がきしむ。いよいよだと思って身構えてみたが、電車はスピードを上げることもなく、電気を使うのももったいといった風に、じらすように走る。
だが、車輪はがたんごとんと確実にレールを刻んでいる。線路は1本の長さがだいたい25メートルなので、車輪がひとつ鳴るたびに25メートル進んでいる計算になる。これをあと40回も聞けば僕が長年追いかけてきた目標は達成されてしまうはずなのだが、僕にはそれがすごくスローモーションに思われた。
車窓は休業日の夜に沈む工業地帯で、街灯以外には何も見えない。
やがて、電車は思い出したようにブレーキをかけ、大川駅に静かに停まった。ドアが開くと、コンクリートの冷たいホームが目の前に横たわっている。僕は仲間たちに先に降りるよう促してから、一瞬ためらいつつも、それを静かに踏んだ。
足の裏に感じる大川駅のホームの冷たさに、僕の先ほどまでの鼓動と高揚はすっかり冷却されて収まりつつあった。代わりに、27,371.4kmのすべてが終わってしまったのだという実感がふつふつと足から頭へと上ってくる。
電車は、感慨にふける僕と仲間を残し、例の祖父と孫だけを客として鶴見へと折り返してゆく。
電車が去った大川駅の、駅舎とも小屋ともつかぬ改札の外で、例の呑みの席にいたものの、別件で欠席すると言っていたNo氏が、大きな花束を持って僕を待っていた。聞けば、このサプライズのためにわざと欠席にしたという。
また、先日大船渡線や八戸線などに付き合わせてしまったA氏もサプライズで待っていたのには驚いた。紅一点のYuさんからは、小さな花を頂いた。僕のような独り者は花器など持っていないだろうからと、花を生ける小瓶も頂く。気遣いがありがたい。
8月のアルペンルートに同行してくれ、先ほどは場内信号機の写真を送ってくれたT氏もいる。あるいは、呑みの席にいたSa氏、僕のお酒の師匠Ya様、川崎在住のF氏、それから僕のこの一瞬のためにわざわざ浦安から来てくれたSu氏…。
みんな笑って僕を祝福してくれている。そんな友人たちの笑顔を見ているうちに、僕はこみあげるものをこらえきれなくなった。仲間への感謝の言葉とともにあふれ出す涙。
暗く沈む大川駅は笑い声にあふれていた。誰かが持参したワインの小瓶で軽く乾杯をして、駅前のバス停で川崎駅行きの路線バスを待つ。
山口百恵の「いい日旅立ち」に、「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」という一節がある。この歌を借りるとすると、僕にとっての「どこか」はこの大川駅だったということになる。
件の歌には、夕焼けだとか砂浜だとかススキだとか、旅情を掻き立てるアイテムが出てくるが、大川にはそんなものはない。あるのは工場と行き止まりの線路だけである。だが、それは僕が鶴見線を選んだゆえのことなのであるから特に気が咎めることもない。
むしろ、たった1.0kmでも僕にとっては最高の旅だった。電車に乗ってこんなに胸がドキドキしたのは初めてだし、何よりも僕を待つ誰かがいてくれた。
今日まで僕はずっと疑問だった。この27,000kmの果てに何があるのだろうかと。それを確かめるためにどこにでも鉄道に乗りにいった。
たまに仲間はいれども、たいがいは独りだった。訪ねる人は僕以外誰もいないローカル線の果て、人はたくさんいれども誰も知り合いのいない都会の駅…。物心両面で、僕はずっと独り旅をしてきた。
だけども、ずっと独りだった僕の27,000kmの旅には、最後の最後で待っている人たちがいたのだった。
やってきた路線バスの一番後ろのひな壇席で仲間に囲まれながら、僕はその事実に感謝した。
そして、旅を続けてきてよかったと、強く、強く思った。
【今回の実績解除記録】
JR東日本 吾妻線 岩島駅~長野原草津口駅(11.5km) *ダム建設による新線未乗区間。
JR東日本 鶴見線(大川支線) 安善駅~大川駅(1.0km)
JR東日本線 全線(7,340.4km)
国内鉄道全線(27,371.4km)
長くて読みにくいので、そのうち書き直すかもしれない。
2014年の8月に高岡市の万葉線で私鉄全線完乗を果たして、JRの未踏区間も残すところは鶴見線の安善から大川の間、いわゆる大川支線の1.0kmだけになっていた。これに乗ってしまえば、僕は日本に現在ある鉄道路線のすべてに乗ったことになる。
せっかちな僕のことであるから、普段であれば「じゃあやっつけちゃいますか」という感じであっさりと乗ってしまうが、この大川支線だけはそうはいかなかった。
話は同年1月にさかのぼる。
友人のNo氏とSa氏、それに僕の3人で呑んでいるとき、ふと僕の全線完乗が近いという話になった。なにぶん酒席でのこと、もはや詳細な記憶が定かではないのだが、その席で「僕が鉄道全線完乗を達成する瞬間を、人様に見届けてもらう」という趣旨の集いをやるという話を自分からぶち上げた。
本来ならば、こういう集いは有志が設けてくれるものであるが、僕はどうしたことか、自分でやると決めてしまった。自分のことなのに「泣いちゃうかもね」などと言った覚えもあり、自作自演、自画自賛にも程があると我ながらあきれるが、ともあれ集いを実施する方向で進めることとした。
その予定日は10月12日。体育の日を伴う3連休の中日である。1月時点で未踏のまま残っている路線を踏破するスケジュールや予備日などを踏まえ、かつ、10月14日の鉄道の日に近いということで、この日にしたのであった。幸い、酔いに任せて企画した集いにもかかわらず、募集をかけたところ、数名の人が足を運んでくれることになった。個人的には1日も早く大川支線に乗りたくてうずうずしていたが、人様に日時を指定してピンポイントで来てもらう以上、勝手に予定を前倒しなどできないわけである。
というような経緯があって、8月の私鉄完乗から2か月余りの間、大川支線は「温存」されることになった。その間、僕はZa氏と西武ドームまで野球を観に行って、その際に西武狭山線で私鉄完乗の「2周目」を始めてみたり、No氏、Su氏とともに、秋田にMo氏を訪ねる旅をして秋田内陸縦貫鉄道に乗りつつ大釜温泉や田沢湖を巡るなどして、その日を待った。
温存といっても、大川支線は僕の中で「ここを最後の一線にしよう」と決めていた路線である。僕が小さい頃、大川支線には戦前製の古い電車が走っていた。いつかその古い電車に乗ってみたいと思っていたが、僕が中学生ぐらいのときに古い電車は引退してしまった。大川支線に乗る動機が失われた僕は、大川支線を「いつでも乗れる近くて短い路線」ということでしばらく放置していた。そして完乗への意志の芽生えとともに、せっかく残っているならば、最後は大川支線にしようと思い立って、僕は大川支線を放置ではなく温存することにした。
最後の路線は、もっと風情のある路線や長大な路線でもいいのだが、風情のある路線は概して関東から遠く、長大な路線は乗るだけで疲弊する。であれば、やはりこういうときは「近くて短い路線」にしたいというのもあった。距離1.0km、時間にしてわずか数分に過ぎない最後の旅路の中で、僕は何を思うか。そういう体験もしてみたかった。
10月12日、午前11時。
今日は鶴見線大川支線に乗る日であるが、僕は拙宅から鶴見とは逆方向の、高崎駅のホームに立っていた。
前日夜、念のため乗り残しがないか確認していたところ、群馬を走る吾妻線の岩島から長野原草津口までの11.5kmが、ダム建設に伴う線路つけかえのため、9月に新線扱いとなっていた。ちょうど僕が秋田で温泉に浸かっていた頃に、吾妻線の線路は僕の知らないうちに生まれ変わっていたのである。これを確認せずに鶴見線に乗っていたらぬか喜びになるところだったと肝を冷やしたが、幸いにして鶴見線の大川行きは、休日ダイヤだと朝1本と夕方2本の3本しかなく、乗る予定の列車は夕方2本目、つまり最終列車にしてあったので、吾妻線をやっつける時間を確保できた。
吾妻線は草津温泉や万座温泉への足として、上野から直通の特急が走っているが、どちらかというと地味かつ単調でつまらない路線という記憶があった。前に吾妻線全線に乗ったのはいつだったか記憶が定かではないが、終点の大前まで長椅子の電車に揺られて、風景もろくすっぽ見えずに、えらく退屈した覚えがある。その大前も、谷のどんづまりにあって、これ以上線路が進めないようなうら寂しいところだった。だが、今日はそこまで行かず、手前で引き返す。
かぼちゃ色の古い電車は、渋川で上越線と別れて、モータをうんうんと唸らせて吾妻川が削った谷を登ってゆく。車窓は、たまに見える吾妻川の流れがまぶしいが、他は青々とした山が続くだけの単調な路線である。あと1か月遅ければ紅葉がさぞきれいなことだろう。10月半ばに乗ってしまうのはもったいない路線かもしれない。
高崎から1時間ほど電車に揺られ、岩島を過ぎるといよいよ未乗区間である。線路は左に折れて吾妻川を渡る。その先に長いトンネルがあって、それを抜けると川原湯温泉。線路をつけかえる前はこのトンネルの外、吾妻渓谷と呼ばれる谷を走っていて、ここには日本一短い鉄道トンネルと呼ばれた樽沢トンネル、全長7.2メートルなどというものもあり、鉄道図鑑や百科事典に載るなどして吾妻線の名物であったが、これもすでに過去のものになってしまった。
川原湯温泉からもまたトンネルで、それを抜けて吾妻川の深いV字谷を真っ白なコンクリート橋で渡ると長野原草津口である。あっさりと未乗区間は終わった。
駅舎は線路付け替えに合わせて新築にしたと見えて真新しい。みどりの窓口で上野行きの特急草津の指定券を買ってから、再開発真っ最中でコンビニひとつない駅前で時間を潰す。先ほど電車で渡った吾妻川の谷を覗きにいくと、ひすい色の水が眼下20メートルぐらいのところを流れていて思わず足がすくむ。駅前に戻ると、ちょうど草津温泉からのバスが4台もつらなってやってきて、そのどれもが車内に詰め込んだ老若男女を吐き出している。草津温泉には鉄道こそ来ていないが、代わりにJRバスの「駅」があって、そこからバスと通しでJRの乗車券を買えるという。そんなことを聞くと、鉄道だけでなくJRバスも乗ってみたいなと思う。
帰路は上野まで特急草津32号に乗る。進行方向右側の席。群馬や埼玉で、常磐線の特急ひたちのお古に揺られるのは変な気分だ。JRの車両のやりくりはよくわからない。
沈みかけた太陽を受けて光る線路をぼんやり眺めるうちに、ふと、今までの旅路のことをいろいろと思い出す。27,000km余りの道のりの中には、車窓がきれいだったりSL列車に乗ってみたりと楽しかった路線もあれば、混んでいたり長かったり夜行で眠れなかったりと、乗るのがつらい路線もあった。あるいは僕が乗った後、廃線になってしまった路線もある。27,000kmは物理的に長かったと思うとともに、物心ついた時から30年以上かけて乗ってきて、永かったとも思う。
車内に居合わせた赤ちゃんが突然泣く。母親は泣きやむように一生懸命にあやす。いつもならどうしたものかと気になるが、今日はその泣き声すらも気にならない。あるいは、通り過ぎる駅の端っこに、カメラを構えた同業者たちがたくさんいる。いつもなら何か珍しい列車でも来るのかと気になるが、これも気にならない。
僕はただただ、今までたどった旅路の数々をかみしめて、横をずっと流れている線路を眺めているだけだった。
物思いにふけっていると、特急電車は荒川を渡って都内へ入っていた。上野で京浜東北線に乗り換えて鶴見に向かうわけだが、乗車券は通しで買わずに上野で一度切った。それは、長野原草津口で大川までのきっぷを買うのが恥ずかしかったのと、最後の旅は僕のてつおた趣味のルーツである上野から始めたいと思ったからである。
16時25分。特急は、上野駅のいわゆる低いホームに着いた。線路の終端のところに立って、低いホームに横付けされた我が特急草津と、高いホームに停まっている常磐線の快速電車を眺めていると、昔を思い出した。
ここは僕が小さい頃、祖父に連れられてよく電車を見に来ていたところだ。あの頃は長野へ行く特急「あさま」や山形行きの「つばさ」、それに会津若松行きの「あいづ」、夜になれば北へ向かうブルートレインがたくさん停まっていたが、今は特急ひたちと草津だけで、もうブルートレインはない。常磐線の快速電車も、エメラルド1色の古い電車から銀色の新型に変わった。
上野の券売機で550円区間の切符を買って京浜東北線に乗る。車内は3連休の中日とあって、用務客よりも行楽客や旅行者のほうが多いように見受けられる。
秋葉原で座れたので、あとは椅子に身を預けて鶴見まで行く。上野から鶴見までは40分ほどかかるので、必然、完乗を前にしていろいろと思い、考えることになった。東京駅の発車メロディを聞いた時には、ふと鉄道学校時代にこの駅で実習をしたことを思い出して、20年近く前の記憶がありありとよみがえった。新幹線の改札口できっぷ切りをしたことはもちろん、休憩室の鍵の暗証番号まで思い出した。
あるいは、この混雑した10両編成の電車に乗っている人の中で、いったいどれだけの人が鉄道全線に乗ったことがあるのだろうと、ふと考える。あるいは、僕のようにリーチの人はいるのだろうか、などとも考える。いるのかもしれないが、いない確率のほうが高いのだろうなと勝手に結論を出す。
そういえば、完乗を果たした人というのは、僕の周りにはいない。鉄道学校の同級生たちなら、誰かがやりとげているかもしれないが、彼らとはもう付き合いがない。完乗を果たす直前の気分、あるいは果たした後の気分とはいかなるものなのかを聞く相手がいなかったのだが、今思うにそれは幸いだったのかもしれない。
完乗は、人にどうこう言われたり聞いたりするものではなく、自分が自分のためにやると決めた、ひとりぼっちの約束なのである。
鶴見駅17時20分着。
鶴見線はもともと私鉄だったので、京浜東北線とは改札が独立していて、乗り換えるのも連絡改札口を通らなければならない。
その連絡改札に向かうと、すでに臨席を約してくれた友人たちが集まっていた。乗るべき列車は17時45分発の大川行き。これが本日の大川行き最終電車である。いつもは何気なく乗る通勤電車が、今日はどうにも敷居が高い。
心臓がばくばくして息苦しい。意を決して、銀色の3両編成に乗り込む。
車内には僕らのほかに、大川へ行くと思われる祖父と孫らしきコンビ、それに買い物客などが数名。日曜夜。臨海工業地帯の末端へ行く通勤客は誰もいない。
定刻17時45分、電車はどこの駅でも流れるような平凡な発車メロディを一通り聞き終えると、ドアを閉めてじわりと動き始める。総持寺を横目に見てから東海道線をまたぐと、淡々と国道、鶴見小野、弁天橋と停まっては買い物客を降ろしてゆく。
弁天橋には電車の車庫があるので目を凝らすが、真っ暗であまり見えない。
途中、友人のT氏から、大川駅の場内信号機が黄色に灯っている写真がツイッターで送られてくる。この黄色が赤に変わる頃には、僕は完乗を果たしているのかと思うと、胸の鼓動が高まる。
17時53分、鶴見線本線と大川支線の分岐駅である安善駅を発車。客はすでに僕らと件のコンビしかいない。
しばらく本線を走ると、電車はがたごとと分岐点を渡って右に急カーブを切る。車輪がきしむ。いよいよだと思って身構えてみたが、電車はスピードを上げることもなく、電気を使うのももったいといった風に、じらすように走る。
だが、車輪はがたんごとんと確実にレールを刻んでいる。線路は1本の長さがだいたい25メートルなので、車輪がひとつ鳴るたびに25メートル進んでいる計算になる。これをあと40回も聞けば僕が長年追いかけてきた目標は達成されてしまうはずなのだが、僕にはそれがすごくスローモーションに思われた。
車窓は休業日の夜に沈む工業地帯で、街灯以外には何も見えない。
やがて、電車は思い出したようにブレーキをかけ、大川駅に静かに停まった。ドアが開くと、コンクリートの冷たいホームが目の前に横たわっている。僕は仲間たちに先に降りるよう促してから、一瞬ためらいつつも、それを静かに踏んだ。
足の裏に感じる大川駅のホームの冷たさに、僕の先ほどまでの鼓動と高揚はすっかり冷却されて収まりつつあった。代わりに、27,371.4kmのすべてが終わってしまったのだという実感がふつふつと足から頭へと上ってくる。
電車は、感慨にふける僕と仲間を残し、例の祖父と孫だけを客として鶴見へと折り返してゆく。
電車が去った大川駅の、駅舎とも小屋ともつかぬ改札の外で、例の呑みの席にいたものの、別件で欠席すると言っていたNo氏が、大きな花束を持って僕を待っていた。聞けば、このサプライズのためにわざと欠席にしたという。
また、先日大船渡線や八戸線などに付き合わせてしまったA氏もサプライズで待っていたのには驚いた。紅一点のYuさんからは、小さな花を頂いた。僕のような独り者は花器など持っていないだろうからと、花を生ける小瓶も頂く。気遣いがありがたい。
8月のアルペンルートに同行してくれ、先ほどは場内信号機の写真を送ってくれたT氏もいる。あるいは、呑みの席にいたSa氏、僕のお酒の師匠Ya様、川崎在住のF氏、それから僕のこの一瞬のためにわざわざ浦安から来てくれたSu氏…。
みんな笑って僕を祝福してくれている。そんな友人たちの笑顔を見ているうちに、僕はこみあげるものをこらえきれなくなった。仲間への感謝の言葉とともにあふれ出す涙。
暗く沈む大川駅は笑い声にあふれていた。誰かが持参したワインの小瓶で軽く乾杯をして、駅前のバス停で川崎駅行きの路線バスを待つ。
山口百恵の「いい日旅立ち」に、「日本のどこかに 私を待ってる人がいる」という一節がある。この歌を借りるとすると、僕にとっての「どこか」はこの大川駅だったということになる。
件の歌には、夕焼けだとか砂浜だとかススキだとか、旅情を掻き立てるアイテムが出てくるが、大川にはそんなものはない。あるのは工場と行き止まりの線路だけである。だが、それは僕が鶴見線を選んだゆえのことなのであるから特に気が咎めることもない。
むしろ、たった1.0kmでも僕にとっては最高の旅だった。電車に乗ってこんなに胸がドキドキしたのは初めてだし、何よりも僕を待つ誰かがいてくれた。
今日まで僕はずっと疑問だった。この27,000kmの果てに何があるのだろうかと。それを確かめるためにどこにでも鉄道に乗りにいった。
たまに仲間はいれども、たいがいは独りだった。訪ねる人は僕以外誰もいないローカル線の果て、人はたくさんいれども誰も知り合いのいない都会の駅…。物心両面で、僕はずっと独り旅をしてきた。
だけども、ずっと独りだった僕の27,000kmの旅には、最後の最後で待っている人たちがいたのだった。
やってきた路線バスの一番後ろのひな壇席で仲間に囲まれながら、僕はその事実に感謝した。
そして、旅を続けてきてよかったと、強く、強く思った。
【今回の実績解除記録】
JR東日本 吾妻線 岩島駅~長野原草津口駅(11.5km) *ダム建設による新線未乗区間。
JR東日本 鶴見線(大川支線) 安善駅~大川駅(1.0km)
JR東日本線 全線(7,340.4km)
国内鉄道全線(27,371.4km)
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