志布志の駅前で僕を乗せたタクシーは、駅を背にして走り出した。
いつも列車にばかり乗っている人間が、盲腸線の終着駅を背にして、線路のない方向に進む。ともすれば、何かやってはいけないことをしているというか、いささかの心細そさと後ろめたさの両方とを感じる。このまま進んでいいのだろうかと不安にもなる。
だが、今日はそれらが許されるように旅程を組んである。いつもは何かをしようと思っても許されない旅程が多いので、たまには許される旅程を組んでおいた。
タクシーはしばらく走ると倉庫街に入り、そのうちに少し開けた場所で停まり、僕を降ろす。
目の前には6階建てぐらいの白いビルが建っていて、そのどてっぱらには太陽のマークが描いてある。これはビルではない。船である。それも、これから僕が大阪南港まで世話になる「さんふらわあ さつま」である。婦人を相手にビル呼ばわりとは、いささか礼を失している気がしなくもない。
17時の出航である。まずは乗船手続きを行う。乗船場に立ち寄り、用紙に名前などを書きつけて窓口に出すと、要領よく乗船券が出てくる。
10分ぐらい待っていただろうか。「どうぞご乗船ください」との案内があって船内に通された。タラップを渡って船に乗り込み、乗船券に記載された部屋のドアを開ける。今回はファーストシングルという、一人部屋の洋室を奮発した。船といえば雑魚寝であるが、せっかくの船旅であるので、ひとりで旅を振り返りながら静かに過ごしたいと考えた。
部屋にはベッドがひとつとテレビ。壁に目をやると、四角い窓が設えてある。トイレと風呂がないことを除けば、ビジネスホテルの部屋と変わりない。初めての個室の船旅に、僕の期待は高まる。
出港の少し前に、トップデッキに出てみる。
暮れつつある志布志の街を背景にして、トレーラーが次々に船の横っ腹にあいた穴から乗り込んでいく様子を眺める。ふと見上げると、船の煙突からたなびく排気煙が、あたりに少しく重油の匂いを漂わせながら空へと昇っている。
ああ、船の旅だ。
煙を見上げながら、僕はうれしくなった。
ほんの少し前まで、ひたすらに仕事に追いかけられて、何だかよく分からないうちに過ぎてしまう日々の中に、僕はいた。あまりにも忙しすぎて、時間を要する船の旅をするなど、夢のまた夢であった。船は、僕にとって自由の象徴であった。
その僕が、いよいよ海原に繰り出す。自由への船出である。船の煙は、僕が思い出したくない、もっとも繁忙で、かつ何も得るものがなかった、ついこの前までの日々を笑うかのように、もくもくと空へ立ち昇っている。僕はトレーラーの群れを見つつ、たまに煙を見上げては、しばし恍惚とした。
甲板に立っている係の人たちの動きが、にわかにせわしくなってきた。出港である。もやいが巻き取られ、汽笛が鳴って、船のはらわたに座っているエンジンがごろごろと唸り始めると、船は志布志の港を静かに離れた。
船という乗り物は、動くまでは楽しみであるが、動いてしまうと存外に退屈する。海は景色が変わらない。元よりゆっくり動く乗り物であるから、スピード感にも乏しい。外が見えない夜行便であればなおさらである。
極論として、船は乗ってしまうと、飯と風呂と船内探索しか楽しみがない。ブッフェ形式の夕食を摂り、大風呂で身体を洗い、窓際に立って「息子」に大海原を見せたあと、波打つ湯船に「あぁ」と唸りながら身体を沈め、湯上がりにいろいろな菓子や記念グッズを取り揃えた売店を覗いたら、あとはもうすることがない。
現在地は四国は足摺岬のはるか沖で、スマホの電波は入らない。あまりにすることがないから、あてがわれた自室に戻る。テレビはBSであれば映るので点けてみると、ちょうど八代亜紀の舟唄が流れてきて、「船で舟唄か」と思わず変な笑いが出てしまった。
舟唄を聴きながら、ベッドに横になり、ぼんやりとこれからをどうするか考える。船は退屈であるが、何かを考えるにはちょうどよい時間を与えてくれる。
考えることは、この旅のこれからではなく、人生のこれからである。ゆったりと揺れる巨船の中で、人生を思う時間。なかなかに得がたい貴重なひとときである。
僕は、好き勝手に電車に乗りたくて会社を辞めたが、貯金と時間は有限である。特に貯金はある程度蓄えてあるが、ずっとこの生活をしているわけにもいかない。今すぐ働きたいとは思わないが、いつかまた働かねばならない。そのいつかは、できるだけ先にしたいものの、どこかで踏ん切りをつけなければならない日が来るだろう。
舟唄は終わった。テレビを消して、今後のあれそれのなんだかんだを、頭の中でないまぜにして、もやもやと考えているうちに、僕は眠りに落ちていた。
目が覚めると、4月11日、月曜日の午前3時であった。
ベッドから降り、部屋唯一の舷窓に張り付いて外を見るが、夜の海は一面の暗闇で、遠くに船の灯りが見えるだけで他は何も見えない。眼下には、舳先がけだてた白波が、船の灯りに照らされて後ろに流れていくのがかろうじて見える。寝台車であれば通過する駅がどこかを見定めて、現在地の見当をつけることができるが、船はそうはいかない。
傍らにあるテレビの電源を入れる。これは沖に出ると地上波の電波は入らず、ザーザーのノイズ画面を視聴者に楽しませてくれる代物であるが、その代わり、しかるべきチャンネルに合わせると、船の現在地を教えてくれる。テレビに映し出された地図の中で、船のマーカーは室戸岬を回って紀伊水道に入るところにいた。
僕が寝る前にこの画面を見たとき、船は足摺岬の南にいた。それから数時間経ったが、まだ室戸岬の沖である。これでは一晩かけて高知県を横断したようなもので、船の鈍足ぶりに、ある種の好感をもって驚かされる。そもそも先を急ぐ旅ではない。
5時間ぐらい寝ただろうか。船はたえず揺れているので、ぐっすり眠れるかと期待していたが、どうも違うらしい。船旅の興奮もあってか、もう目が冴えて仕方がない。便所に行き、顔を洗ったら、ベッドに再び大の字になって、今度はこの旅の今後について思案する。
理論としては、何らの仕事も義務もない今の僕は、ただちに自宅へ帰る必要はなく、この船が大阪港に着岸したら、引き続き旅を続けてもよいことになる。その一方で、寝る前にもやもや考えていた今後についてを思うと、拙宅の郵便受けに離職票が刺さっているかを確かめに、一度帰りたくもある。小心者の僕は今後についてを憂い、後者を選んだ。
朝7時40分、大阪港のかもめターミナルに降り立つ。
振り返ると、「さんふらわあ さつま」は白い巨体を岸壁に横付けして休んでいる。船腹の穴からは、志布志で見たのとは逆に、無限と思われるようなおびただしい台数のトラックやトレーラーが降りてくる。僕はそれを見ながら大阪市営の路線バスを待った。
バスは、東京でいえば新木場のような雰囲気の港湾道路を東へ進むが、近くに自分が知っているランドマークが何もないので、自分がいったいどこを走っているのかわからなくなる。見知らぬ土地のバスは船と同じで、自分の居場所を不明確にする。そのうちに倉庫街を抜けてマンションや家が立ち並ぶ道を走るようになり、右手に大阪市営地下鉄の緑木車両工場を見つけてようやく合点がいった。
こういうときは電車乗りでよかったと思う。
僕はバスを住吉公園で降りた。月曜の朝、公園には犬の散歩をする人や、ゲートボールに興じるお年寄りのほかに人影は少ない。閑散としているが、桜が見事である。誰にも邪魔をされない花見をすべく、桜を眺められる池のほとりで少し足を止める。
公園を抜け、南海電車の住吉公園駅の高架をくぐると、左手に今度は「驛園公吉住」と書かれた平屋の建物が現れる。こちらは阪堺電車のの住吉公園駅である。正確にいうと、駅で「あった」というべきである。この駅は、天王寺から南下してくる阪堺電車上町(かみまち)線の終点であったが、3か月ほど前の2016年1月に廃止になってしまい、ここに電車が来ることはもうない。
かくいう僕も5年ほど前に1度だけこの駅を使ったことがある。その時はこの駅が廃止になるとは。よもや思いもしなかった。この駅を使っていた客は、すぐ近くの住吉鳥居前という電停から電車に乗り降りすることになる。
「驛園公吉住」に併設された宝くじ売り場の横から奥を覗くと、工事現場でよく見かけるオレンジ色のフェンスが通せんぼしていた。
今度は阪堺電車阪堺線の線路が敷かれた広い道路を横断する。道路の反対側が住吉大社である。道路を渡る前から大きな鳥居と、えらく反り返った橋が見える。大いに古いのであろうと、手元のスマートフォンから住吉大社のホームページを見ると、創建は「神功皇后摂政11年」とある。日本の神々を前にして西暦で表すのも野暮であるが、211年のことであるらしい。悠遠にもほどがある。
境内に足を踏み入れる。橋を渡って本殿に参拝する。住吉大社は航海の神様であるという。本来は船に乗る前に参るべき神であったが、順番が逆になってしまった。ひとまず志布志から大阪までの航海を無事終えたことへの感謝を捧げ、僕はこうべを垂れた。
時計を見ると9時である。朝のラッシュも終わったので、阪堺電車で天王寺に出ることにする。
ここ住吉は、上町線と阪堺線が合流するため、やたらと電車が往来する。その種類も新しい車と古い車、色も赤、青、白などいろいろな色の電車がひっきりなしにやって来て、見ていて飽きがこない。僕はまるで電車好きの子供のように、歩道にぼんやりたたずんで30分ぐらい電車を眺めていた。
いい加減に電車に乗ろうと電停に渡ってしばらく待っていると、『603』と書かれた青い電車がのそのそとやってきた。
ラッシュは終わっているが、客はそこそこ乗っていて、途中の駅からもちょっとずつ乗ってくる。そのうちに真っ黒な詰襟に学帽をかぶった小さな男の子が乗り込んできて、その格好が、昔読んだ本で見た山本五十六の軍服のようだと思っているうちに、今度は学者帽のような房の付いた帽子をかぶった女の子も乗ってくる。どちらも、どう見ても公立学校の制服ではない。車窓を見ていると下町の風情であるが、この辺りは子息を私立学校に通わせるお金持ちが住んでいるらしい。
603号車は広い道のど真ん中で停まった。天王寺駅前の電停である。目の前に巨大なビルが屹立している。これは「あべのハルカス」といい、高さは300メートルだという。高いところに登る趣味はないが、時間があるのでこれを機会に登ってみることにする。
えらく早いエレベータで60階まで一気に押し上げられる。展望台から四天王寺やら通天閣やら生駒山やら、四顧に視線を巡らせるが、どうしても線路が気になる。足元の天王寺駅に、模型のような列車たちがせわしなく出入りする様子を見て、「もっと乗りたい。早く乗りたい」と思う。今の僕は、好きなだけ電車に乗れるが、どこまでも際限なく肥大した列車旅の選択肢は、時に僕の足取りと意志を不明瞭にする。そのもっともな証拠は、今日これからの拙宅までの経路である。北陸回りもあれば、南紀を回る手もある。大和路を突っ切って三重に抜けるのもよい…。
大阪から埼玉までどうやって帰るかの選択肢が多すぎて、結局、自分では決めきれなかった。迷った挙句に、手元のスマートフォンのサイコロアプリに帰り道を問うと、近鉄のアーバンライナーで名古屋に出ろという。
これはこれでよいが、自由を標榜する割には無難な経路になってしまったことを、心のどこかで残念に思う自分がいる。であれば自分で決めればよいが、それができないのが情けない。選択肢の多さは人を惑わせる。
御堂筋線でなんばに行き、近鉄に乗り換えて二駅移動する。近鉄名古屋行きのアーバンライナーは難波が始発であるが、僕は近鉄のターミナルである大阪上本町駅を見てみたいと思ったからである。大阪上本町駅は地上と地下に分かれていて、アーバンライナーは地下を通るので、難波から乗ってしまうと地上のホームは見えないのである。
地上ホームに行くと、白とえんじの近鉄電車が鼻先を並べてこちらを見ている。天井からぶら下がった行先表示器には「名古屋」「宇治山田」「榛原」「名張」「河内国分」「高安」などといろいろな駅名が書いてあって目移りする。どれでもいいから乗りたいと思うが、僕は12時3分発のアーバンライナーに乗らねばならない。現在の時刻は11時15分、アーバンライナーの出発まで45分ぐらいある。
いったん改札を出る。駅の周りをぶらぶらしていると生國魂(いくくにたま)神社を見つけたので立ち寄ってみる。ちょうど入り口に「旅行安全」という看板が出ていたので、旅は終わりに近いが、帰るまでが旅であると念じて参拝する。
大阪上本町駅に戻り、今度は地下に降りてアーバンライナーを待つ。やってきた白い電車の椅子に座ったが最後、僕は船旅での寝不足と、朝から歩き回った疲労のせいで、津まで居眠りしていた。名古屋から新幹線で東京に戻り、埼玉の拙宅に着いたのは17時30分である。何をそんなに急ぐのかと思うような移動であるが、アーバンライナーでの居眠りからすると、相当に疲れているのは確かで、これは無理に旅をせずいったん帰って休むのが正解であると確信した。
帰宅してすぐさま郵便受けを覗いたが、離職票は刺さっていなかった。船の中では不安に思っていたくせをして、僕はまだ再就職の権利がないことになぜか安堵して、次の旅の計画を練り始めた。
いつも列車にばかり乗っている人間が、盲腸線の終着駅を背にして、線路のない方向に進む。ともすれば、何かやってはいけないことをしているというか、いささかの心細そさと後ろめたさの両方とを感じる。このまま進んでいいのだろうかと不安にもなる。
だが、今日はそれらが許されるように旅程を組んである。いつもは何かをしようと思っても許されない旅程が多いので、たまには許される旅程を組んでおいた。
タクシーはしばらく走ると倉庫街に入り、そのうちに少し開けた場所で停まり、僕を降ろす。
目の前には6階建てぐらいの白いビルが建っていて、そのどてっぱらには太陽のマークが描いてある。これはビルではない。船である。それも、これから僕が大阪南港まで世話になる「さんふらわあ さつま」である。婦人を相手にビル呼ばわりとは、いささか礼を失している気がしなくもない。
17時の出航である。まずは乗船手続きを行う。乗船場に立ち寄り、用紙に名前などを書きつけて窓口に出すと、要領よく乗船券が出てくる。
10分ぐらい待っていただろうか。「どうぞご乗船ください」との案内があって船内に通された。タラップを渡って船に乗り込み、乗船券に記載された部屋のドアを開ける。今回はファーストシングルという、一人部屋の洋室を奮発した。船といえば雑魚寝であるが、せっかくの船旅であるので、ひとりで旅を振り返りながら静かに過ごしたいと考えた。
部屋にはベッドがひとつとテレビ。壁に目をやると、四角い窓が設えてある。トイレと風呂がないことを除けば、ビジネスホテルの部屋と変わりない。初めての個室の船旅に、僕の期待は高まる。
出港の少し前に、トップデッキに出てみる。
暮れつつある志布志の街を背景にして、トレーラーが次々に船の横っ腹にあいた穴から乗り込んでいく様子を眺める。ふと見上げると、船の煙突からたなびく排気煙が、あたりに少しく重油の匂いを漂わせながら空へと昇っている。
ああ、船の旅だ。
煙を見上げながら、僕はうれしくなった。
ほんの少し前まで、ひたすらに仕事に追いかけられて、何だかよく分からないうちに過ぎてしまう日々の中に、僕はいた。あまりにも忙しすぎて、時間を要する船の旅をするなど、夢のまた夢であった。船は、僕にとって自由の象徴であった。
その僕が、いよいよ海原に繰り出す。自由への船出である。船の煙は、僕が思い出したくない、もっとも繁忙で、かつ何も得るものがなかった、ついこの前までの日々を笑うかのように、もくもくと空へ立ち昇っている。僕はトレーラーの群れを見つつ、たまに煙を見上げては、しばし恍惚とした。
甲板に立っている係の人たちの動きが、にわかにせわしくなってきた。出港である。もやいが巻き取られ、汽笛が鳴って、船のはらわたに座っているエンジンがごろごろと唸り始めると、船は志布志の港を静かに離れた。
船という乗り物は、動くまでは楽しみであるが、動いてしまうと存外に退屈する。海は景色が変わらない。元よりゆっくり動く乗り物であるから、スピード感にも乏しい。外が見えない夜行便であればなおさらである。
極論として、船は乗ってしまうと、飯と風呂と船内探索しか楽しみがない。ブッフェ形式の夕食を摂り、大風呂で身体を洗い、窓際に立って「息子」に大海原を見せたあと、波打つ湯船に「あぁ」と唸りながら身体を沈め、湯上がりにいろいろな菓子や記念グッズを取り揃えた売店を覗いたら、あとはもうすることがない。
現在地は四国は足摺岬のはるか沖で、スマホの電波は入らない。あまりにすることがないから、あてがわれた自室に戻る。テレビはBSであれば映るので点けてみると、ちょうど八代亜紀の舟唄が流れてきて、「船で舟唄か」と思わず変な笑いが出てしまった。
舟唄を聴きながら、ベッドに横になり、ぼんやりとこれからをどうするか考える。船は退屈であるが、何かを考えるにはちょうどよい時間を与えてくれる。
考えることは、この旅のこれからではなく、人生のこれからである。ゆったりと揺れる巨船の中で、人生を思う時間。なかなかに得がたい貴重なひとときである。
僕は、好き勝手に電車に乗りたくて会社を辞めたが、貯金と時間は有限である。特に貯金はある程度蓄えてあるが、ずっとこの生活をしているわけにもいかない。今すぐ働きたいとは思わないが、いつかまた働かねばならない。そのいつかは、できるだけ先にしたいものの、どこかで踏ん切りをつけなければならない日が来るだろう。
舟唄は終わった。テレビを消して、今後のあれそれのなんだかんだを、頭の中でないまぜにして、もやもやと考えているうちに、僕は眠りに落ちていた。
目が覚めると、4月11日、月曜日の午前3時であった。
ベッドから降り、部屋唯一の舷窓に張り付いて外を見るが、夜の海は一面の暗闇で、遠くに船の灯りが見えるだけで他は何も見えない。眼下には、舳先がけだてた白波が、船の灯りに照らされて後ろに流れていくのがかろうじて見える。寝台車であれば通過する駅がどこかを見定めて、現在地の見当をつけることができるが、船はそうはいかない。
傍らにあるテレビの電源を入れる。これは沖に出ると地上波の電波は入らず、ザーザーのノイズ画面を視聴者に楽しませてくれる代物であるが、その代わり、しかるべきチャンネルに合わせると、船の現在地を教えてくれる。テレビに映し出された地図の中で、船のマーカーは室戸岬を回って紀伊水道に入るところにいた。
僕が寝る前にこの画面を見たとき、船は足摺岬の南にいた。それから数時間経ったが、まだ室戸岬の沖である。これでは一晩かけて高知県を横断したようなもので、船の鈍足ぶりに、ある種の好感をもって驚かされる。そもそも先を急ぐ旅ではない。
5時間ぐらい寝ただろうか。船はたえず揺れているので、ぐっすり眠れるかと期待していたが、どうも違うらしい。船旅の興奮もあってか、もう目が冴えて仕方がない。便所に行き、顔を洗ったら、ベッドに再び大の字になって、今度はこの旅の今後について思案する。
理論としては、何らの仕事も義務もない今の僕は、ただちに自宅へ帰る必要はなく、この船が大阪港に着岸したら、引き続き旅を続けてもよいことになる。その一方で、寝る前にもやもや考えていた今後についてを思うと、拙宅の郵便受けに離職票が刺さっているかを確かめに、一度帰りたくもある。小心者の僕は今後についてを憂い、後者を選んだ。
朝7時40分、大阪港のかもめターミナルに降り立つ。
振り返ると、「さんふらわあ さつま」は白い巨体を岸壁に横付けして休んでいる。船腹の穴からは、志布志で見たのとは逆に、無限と思われるようなおびただしい台数のトラックやトレーラーが降りてくる。僕はそれを見ながら大阪市営の路線バスを待った。
バスは、東京でいえば新木場のような雰囲気の港湾道路を東へ進むが、近くに自分が知っているランドマークが何もないので、自分がいったいどこを走っているのかわからなくなる。見知らぬ土地のバスは船と同じで、自分の居場所を不明確にする。そのうちに倉庫街を抜けてマンションや家が立ち並ぶ道を走るようになり、右手に大阪市営地下鉄の緑木車両工場を見つけてようやく合点がいった。
こういうときは電車乗りでよかったと思う。
僕はバスを住吉公園で降りた。月曜の朝、公園には犬の散歩をする人や、ゲートボールに興じるお年寄りのほかに人影は少ない。閑散としているが、桜が見事である。誰にも邪魔をされない花見をすべく、桜を眺められる池のほとりで少し足を止める。
公園を抜け、南海電車の住吉公園駅の高架をくぐると、左手に今度は「驛園公吉住」と書かれた平屋の建物が現れる。こちらは阪堺電車のの住吉公園駅である。正確にいうと、駅で「あった」というべきである。この駅は、天王寺から南下してくる阪堺電車上町(かみまち)線の終点であったが、3か月ほど前の2016年1月に廃止になってしまい、ここに電車が来ることはもうない。
かくいう僕も5年ほど前に1度だけこの駅を使ったことがある。その時はこの駅が廃止になるとは。よもや思いもしなかった。この駅を使っていた客は、すぐ近くの住吉鳥居前という電停から電車に乗り降りすることになる。
「驛園公吉住」に併設された宝くじ売り場の横から奥を覗くと、工事現場でよく見かけるオレンジ色のフェンスが通せんぼしていた。
今度は阪堺電車阪堺線の線路が敷かれた広い道路を横断する。道路の反対側が住吉大社である。道路を渡る前から大きな鳥居と、えらく反り返った橋が見える。大いに古いのであろうと、手元のスマートフォンから住吉大社のホームページを見ると、創建は「神功皇后摂政11年」とある。日本の神々を前にして西暦で表すのも野暮であるが、211年のことであるらしい。悠遠にもほどがある。
境内に足を踏み入れる。橋を渡って本殿に参拝する。住吉大社は航海の神様であるという。本来は船に乗る前に参るべき神であったが、順番が逆になってしまった。ひとまず志布志から大阪までの航海を無事終えたことへの感謝を捧げ、僕はこうべを垂れた。
時計を見ると9時である。朝のラッシュも終わったので、阪堺電車で天王寺に出ることにする。
ここ住吉は、上町線と阪堺線が合流するため、やたらと電車が往来する。その種類も新しい車と古い車、色も赤、青、白などいろいろな色の電車がひっきりなしにやって来て、見ていて飽きがこない。僕はまるで電車好きの子供のように、歩道にぼんやりたたずんで30分ぐらい電車を眺めていた。
いい加減に電車に乗ろうと電停に渡ってしばらく待っていると、『603』と書かれた青い電車がのそのそとやってきた。
ラッシュは終わっているが、客はそこそこ乗っていて、途中の駅からもちょっとずつ乗ってくる。そのうちに真っ黒な詰襟に学帽をかぶった小さな男の子が乗り込んできて、その格好が、昔読んだ本で見た山本五十六の軍服のようだと思っているうちに、今度は学者帽のような房の付いた帽子をかぶった女の子も乗ってくる。どちらも、どう見ても公立学校の制服ではない。車窓を見ていると下町の風情であるが、この辺りは子息を私立学校に通わせるお金持ちが住んでいるらしい。
603号車は広い道のど真ん中で停まった。天王寺駅前の電停である。目の前に巨大なビルが屹立している。これは「あべのハルカス」といい、高さは300メートルだという。高いところに登る趣味はないが、時間があるのでこれを機会に登ってみることにする。
えらく早いエレベータで60階まで一気に押し上げられる。展望台から四天王寺やら通天閣やら生駒山やら、四顧に視線を巡らせるが、どうしても線路が気になる。足元の天王寺駅に、模型のような列車たちがせわしなく出入りする様子を見て、「もっと乗りたい。早く乗りたい」と思う。今の僕は、好きなだけ電車に乗れるが、どこまでも際限なく肥大した列車旅の選択肢は、時に僕の足取りと意志を不明瞭にする。そのもっともな証拠は、今日これからの拙宅までの経路である。北陸回りもあれば、南紀を回る手もある。大和路を突っ切って三重に抜けるのもよい…。
大阪から埼玉までどうやって帰るかの選択肢が多すぎて、結局、自分では決めきれなかった。迷った挙句に、手元のスマートフォンのサイコロアプリに帰り道を問うと、近鉄のアーバンライナーで名古屋に出ろという。
これはこれでよいが、自由を標榜する割には無難な経路になってしまったことを、心のどこかで残念に思う自分がいる。であれば自分で決めればよいが、それができないのが情けない。選択肢の多さは人を惑わせる。
御堂筋線でなんばに行き、近鉄に乗り換えて二駅移動する。近鉄名古屋行きのアーバンライナーは難波が始発であるが、僕は近鉄のターミナルである大阪上本町駅を見てみたいと思ったからである。大阪上本町駅は地上と地下に分かれていて、アーバンライナーは地下を通るので、難波から乗ってしまうと地上のホームは見えないのである。
地上ホームに行くと、白とえんじの近鉄電車が鼻先を並べてこちらを見ている。天井からぶら下がった行先表示器には「名古屋」「宇治山田」「榛原」「名張」「河内国分」「高安」などといろいろな駅名が書いてあって目移りする。どれでもいいから乗りたいと思うが、僕は12時3分発のアーバンライナーに乗らねばならない。現在の時刻は11時15分、アーバンライナーの出発まで45分ぐらいある。
いったん改札を出る。駅の周りをぶらぶらしていると生國魂(いくくにたま)神社を見つけたので立ち寄ってみる。ちょうど入り口に「旅行安全」という看板が出ていたので、旅は終わりに近いが、帰るまでが旅であると念じて参拝する。
大阪上本町駅に戻り、今度は地下に降りてアーバンライナーを待つ。やってきた白い電車の椅子に座ったが最後、僕は船旅での寝不足と、朝から歩き回った疲労のせいで、津まで居眠りしていた。名古屋から新幹線で東京に戻り、埼玉の拙宅に着いたのは17時30分である。何をそんなに急ぐのかと思うような移動であるが、アーバンライナーでの居眠りからすると、相当に疲れているのは確かで、これは無理に旅をせずいったん帰って休むのが正解であると確信した。
帰宅してすぐさま郵便受けを覗いたが、離職票は刺さっていなかった。船の中では不安に思っていたくせをして、僕はまだ再就職の権利がないことになぜか安堵して、次の旅の計画を練り始めた。
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