2017年2月6日月曜日

2015年1月 長野&北陸&名古屋 #1

 2015/1/10~1/11

 僕は旅に出る。たとえ肩の骨が折れていようと。

 2014年10月に鶴見線大川駅で全線完乗を成し遂げてから、僕はしばらく遠出をしなかった。
 全部乗り遂げたという満足感に浸っていたのもあるが、仕事が忙しかったり、寒くなったので近場であたたかい酒を呑む機会を増やしていたためである。
 それに、あと2か月も辛抱すれば、1週間ほどの年末年始休暇がやってくる。1週間のうち5日も費やせば、日本国内どこへでも行けるだろうから、それまで遠出はしないことにしていた。

 だが、情けないことに、年末に自分の不注意から転倒して、骨を折ってしまった。年末年始の休みは、間断なく続く疼痛のせいで旅どころではなく、自宅に引きこもらざるを得なかった。

 明けて2015年1月10日。成人の日を含む3連休の初日である。
 年始も仕事が多忙で、平日は病院に行く暇が取れなかった。ようやくやってきた休みに際し、外科へ行ってレントゲン写真を撮ってもらおうと思ったが、年明け最初の土曜日とあって病院は混んでいた。3時間待ちと言われ、たかだかレントゲン1枚撮るためにそんなにも待つのは時間がもったいないように思われたので、撮影は日を改めることにして病院を辞し、僕は用もないのに大宮駅へと向かった。

 大宮駅は誘惑が多い駅である。
 東西南北へと向かう線路が一堂に会し、行き交う列車も多い。そのどれかにふらっと乗って、どこかへ出かけたくなる衝動に駆られる。
 いろいろと誘惑してくる駅の発車案内に逡巡しつつ、僕は長野新幹線を選んだ。
 目的地は直江津。直江津であれば、ほくほく線を回って日帰りできるし、長野で途中下車すれば長野電鉄にも乗れる。間近に控えた北陸新幹線の開業にあたり、JRから経営分離される信越本線の長野から直江津の間を最後に見ておきたいという気持ちもあった。

 新幹線に揺られ、1時間半ほどで長野駅に着く。
 改札を出て、善光寺口から地下に入ると、長電の長野駅がある。地方私鉄では珍しい地下ターミナルである。ホームに降りると、田園都市線からのお古の電車が停まっている。昔の地方私鉄はその会社独自の電車たちが活躍していたが、今はどこへ行っても都会のお下がりの電車ばかりになってしまった。ただ、都落ちした古い電車たちに会うと懐かしい感じもある。

 新玉川線を彷彿とさせる地下線を抜け、住宅地をしばらく進むと、電車は千曲川の鉄橋を渡る。千曲川は長野県を貫流して、新潟県に入ると信濃川と名前を変えて日本海へ注ぐ大河であり、その長さと雄大さゆえに、旅情あふれる川である。川面を見てみると、大きなショベルカーが川底をさらっていて興ざめするが、治水のためなので仕方がない。



 信州中野で乗り換えた湯田中行きの電車は日比谷線のお古だった。ギラリと光るボディが懐かしい。日比谷線は、信州中野を出るとぐいぐいと急な坂を上ってゆく。地下鉄なのだから登るより潜るほうが本業なのにと思う。




 湯田中は天井の高いりっぱな駅舎を擁しており、駅前からは志賀高原や渋温泉行きのバスが出る。いつかここからバスを乗り継ぎ、草津や軽井沢に抜けてみたいと思う。駅前には公衆浴場があるが、ひとりでは肩のサポータを外せないので入浴を断念する。骨を折っていることが恨めしいが、骨を折らねばこの旅には出なかったと思うと、何だか自分でやっていることがばかばかしくなる。



 帰りは長野まで特急に乗ってみる。つい数年前までは古めかしい特急電車だったが、今では小田急ロマンスカーと成田エクスプレスのお下がりに代わっている。やってきたのは成田エクスプレスだった。成田エクスプレスが日比谷線と並ぶのは何だか不思議な気がする。



 先ほど日比谷線で登った坂を今度は下る。坂の途中で大きな山が右手に見える。広くなだらかな山裾の上に、それほど高さが違わない峰がふたつ屹立していて、ちょうどげんこつのようにも見える。裾の方はすでに陽が当たらずに黒々としているが、頂上のほうは夕日を受けて雪が白く輝いていて美しい。何という山なのか気になって地図を見ると、高社山とあった。山に疎いのは、旅の楽しみをいささか削いでいる気がしてならない。戸隠連峰と思しき山並みに沈む夕焼けを観つつ長野駅へ戻る。


 長野駅で、直江津行きの鈍行に乗り込む。4人掛けのいつもの古い電車だが、この区間でこの電車に乗るのはこれが最後だろう。


 電車は善光寺平を抜けて、豊野の先で登りにかかる。モータを唸らせて、暗く沈む森や谷を抜ける間に、車窓に雪が見えてくる。線路の継ぎ目の音は雪に吸われてくぐもり、窓の隙間から漏れる空気も凛と冷えている。雪国を列車で旅しているという実感がわいてくる。妙高高原では粉雪が降り始め、車窓は雪しか見えなくなる。見えるものは、電車の室内灯や駅の電灯に照らされて白く浮かぶ雪だけで、僕はそれを寂寥という言葉でしか形容できなかった。信越本線らしい景色といえばそれまでだが、ここを信越本線として通るのはこれが最後と思うと、余計に胸を締め付けられた。

 新潟県に入ってしばらくすると、電車は脇野田という駅に停まる。かつては田んぼのど真ん中の清々しい駅であったが、北陸新幹線開業にともない新幹線との乗換駅の重責を与えられ、今では頭上に重々しい新幹線の新駅を載っけられて窮屈そうにしている。そういえば、心なしか駅の位置も変わったようにも思える。新幹線ができると、駅名も上越妙高という、何ともつかみどころのない名前に変わるという。少し長野寄りの妙高高原が、かつて田口と名乗っていたことを知る人が少ないように、この「上越妙高」が脇野田と名乗っていたことも、そのうち世間から忘れられてしまうだろう。それもなんだか寂しい。

 新幹線には、新幹線なりの旅情があるのは僕も心得ているつもりである。例えば新富士とか岐阜羽島とか、こだましか停まらない駅に降り立つと、不思議と距離以上に遠くへ来た気分になるのがそれだ。だけども新幹線と在来線では、路線や駅が背負っている歴史の重みが違う。その重厚さは、うなぎ屋ややきとり屋のタレのようなもので、一朝一夕にはできない。毎日使い込まれて初めて味が出る。それが失われてしまうのは、やはり寂しいものがある。



 直江津で後ろ髪を引かれながら信越本線を降りた僕は、改札を出るでもなく、待合室で自販機のコーンスープをすすりながら、今までの信越本線との付き合いを反芻していた。特急あさまで碓氷峠を越えて妙高高原まで来たこと、急行能登で今いる直江津に朝4時に着いて、待合室で震えながら信越線の始発を待ったこと、そして今日。
 そういえば、夜行明けの寒さの中で誰もいない駅に放り出されて、何度この自販機のコーンスープに救われたかわからない。震えながらスープを飲むのは、なんとも懐かしい感触だった。




 スープをすすってぼんやりとしている僕の目の前に、金沢行きの特急はくたかが停まる。その電球色の暖かそうな室内灯に僕ははっとして、帰るのではなく西に向かうことを思いついた。あのはくたかには間に合わない。次はと壁の時刻表を見ると、北越10号とある。
 北陸新幹線の開業によってJRから切り離されるのは、信越線だけではない。僕が愛した北陸本線もまた第三セクター会社に移管される運命だ。北陸本線の運営を引き継ぐ会社は、新潟、富山、石川の県境をそれぞれ目安に3つに分かれ、北陸本線は解体されてしまう。

 北陸本線は、僕が鉄道に望む風情や旅情のすべてを具備した路線である。いわゆる日本海縦貫線と呼称される、大阪から青森までの約1000キロにもなる長大な幹線群の一部をなす北陸本線は、日本の背骨であり行き交う列車も特急から鈍行、そして貨物まで数多く、種類も様々で見飽きない。
 太平洋側の幹線の旅客輸送がおおむね新幹線に代替された今、鉄道が鉄道たる所以、すなわち長距離、短距離問わず、様々な旅客を任意の場所まで輸送するという役目を今日まで忠実に続けている在来線は、北陸本線をおいて他にないように思われる。
 実際に北陸本線に乗ると、30分に1本の間隔でやってくる特急と、その後ろを縫って走る昔ながらの鈍行の組み合わせというダイヤからも、幹線の風格が感じられてよい。車窓も日本海、立山連峰、白山と旅人を飽きさせない。そして途中下車するたびに出会う美酒と肴。それに魅せられて、僕は何度となく北陸本線に乗りにきた。

 ここまで来たのならば、北陸本線に乗るしかない。今日を逃せば、僕が1本の線としての北陸本線に乗る機会はもう二度とないだろう。僕が大好きな北陸本線はもうすぐ死んでしまう。たとえ車窓は闇であってもいい。その景色を目に焼き付ける。北陸本線からの景色は今日で最後だ。
 そう思うと、僕はいてもたってもいられなくなり、思わず直江津の改札を出た。北越10号の特急券を窓口で買って懐に忍ばせる。やってきた列車は、昔ながらのクリーム色に臙脂の帯を巻いた特急電車である。この色の電車も、もうこの北越でしか走っていない。北陸本線の終焉とともに、この旧い特急電車もまた引退する運命にある。


 車内は思いのほか閑散としていた。トイレに行きがてら一瞥すると、客層のほとんどは僕と同じように、列車に乗る目的と手段を違えているような人たちのように思われた。あてがわれた指定席に腰を下ろし、さあ最後の北陸本線だぞと、いささか悲壮感を抱きつつ、暗い車窓に目を凝らす。

 僕がかつて夕焼けに涙した有間川は、あの日とはうってかわって雪と闇に沈んでいる。それを一瞬でやりすごし、名立を過ぎると列車は全長11キロメートルあまりの頸城トンネルに入る。長大トンネル特有の空気の震えを感じてしばらくすると、左、続いて右に蛍光灯の列を一瞬見る。筒石駅。ここも物珍しさから訪ねたことがある。

 冷たいトンネルのなかで、筒石駅は今日も泰然とその役目を果たしていた。あと2か月で、歴史ある北陸本線ではなくなるというのが信じられないほどに泰然としている。長大トンネルの真ん中にあるという珍しい立地の駅は、寄り道こそされるものの、ここを目的地に旅をする者は少ない。JRから切り離され、18きっぷが使えなくなったら訪れる者も減るだろう。また、この駅は、トンネル内ということで安全要員が何人も詰めているという。わずかばかりの客のために、北陸本線を引き継ぐ新会社がその要員を維持するかも不透明だ。

 そんな僕の勝手な推論など素知らぬように、筒石の駅は暗く長いトンネルの中で、蛍光灯を連ねてじっと列車を待っている。その光を見て、僕は胸が熱くなった。今まで当たり前のようにそこにあるものが、ある日を境に突然当たり前でなくなる。それが路線であれ列車であれ車両であれ、鉄道を趣味にしているとよくあることであるが、僕には筒石駅もまたその運命に抗わず、静かに「その日」を待っているように思われたのだった。僕は筒石への再訪を期し、列車はトンネルを抜ける。


 糸魚川の手前で電源の直流から交流への切り替えのため、車内灯が暗くなる。
 これも北陸本線の終焉とともに消えることになる儀式のひとつだ。北陸本線を引き継ぐ新会社では、車両をディーゼルカーにすることで高価な交直両用電車を造らなくてすむようにするという。
 電化設備は貨物列車が使うだけで、特急は新幹線に置き換えられて姿を消し、残された普通列車はすべてディーゼルになる。それはディーゼル好きとしてはいいが、北陸本線でそれをやられるとは思わなかった。
 北陸本線と東で接する信越本線、西で接する東海道本線や湖西線は直流だが、北陸本線に入ると途中で電源が交流に切り替わるため、北陸本線に直通する電車は必ず電気が消灯する。その一瞬の明滅も、いよいよ北陸へ来たのだと思わせるもののひとつなのだが、とにかくそれももうすぐなくなる。

 糸魚川からは泊、入善、魚津と停まり、富山へ。駅構内は新幹線開通に合わせて改修工事が進んでいる。いつもならば、僕は北陸に来ると富山に宿を取るのだが、今日ばかりは特急北越との最後の逢瀬をとことん楽しむべく、金沢に宿を用意した。

 もともと少ない客が富山でさらに降りてしまう。残されたわずかな客を乗せて、列車は暗闇の砺波平野を西へ猛進する。呉羽、小杉、越中大門と、ささやかな明かりを灯して居並ぶ小駅を轟然と通過する様は、やはり特急としての貫禄と矜持が感じられる。特急とはかくありなんという走りを見せつけ、高岡で小休止をすると、列車は倶利伽羅峠へと差しかかる。

 倶利伽羅は、源平合戦の舞台として有名だ。源氏の夜襲で大混乱に陥った平家の兵たちが、倶利伽羅峠の断崖から次々と墜死したとか、源氏の大将、源義仲が、牛のツノに火をつけて平家の軍へと走らせたという故事もある。そのような古式ゆかしい峠も、今はただ真冬の夜に暗く沈むだけで、特急は何事もなく走り抜けてゆく。倶利伽羅を抜けてしまえば、もう金沢は目の前だ。

 やがて列車は静かに金沢に滑り込む。
 何度目かわからない北陸本線の旅が終わってしまった。そして、今日たどったルートを、二度と北陸本線としてはたどれない。



 締めつけられるような胸の苦しみを覚えながら、僕は金沢駅のホームに力なく降り立ち、乗ってきた特急の姿を何枚かカメラに収めると、痛む肩を引きずって宿へと向かった。

 北陸本線と僕との、最後の逢瀬が終わった。

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