2017年2月22日水曜日

2015年1月 長野&北陸&名古屋 #2

 翌日、ホテルのカーテンを開けると、外は薄暗く、雨が降っていた。

 身支度をしながら、今日はどうするかと思案したが、どうにも煮え切らない。七尾線に乗るのもいいし、北陸本線を進んだり戻るのもよい。あるいは富山から高山線で名古屋に抜けるのもまたよし。城端線や氷見線に乗るのも大いにありだ。誘惑の多さに、僕はふん切りがつかないままホテルを出た。

 金沢駅には、北陸新幹線開業までを指折り数える表示があった。この日数が巻き戻れば、などと考えてしまうが、もう決まったことであるのでどうにもならない。あと62日余り。あっという間に過ぎてしまうのだろう。


 金沢駅から北陸鉄道浅野川線という小さな私鉄路線が出ているので、僕はこれを往復しながら今日の旅程を考えることにした。浅野川線は全長6.8km、片道20分弱の旅である。



 井の頭線からのお下がりの古い電車は、電子音ではなく鐘を打ち鳴らす昔ながらの踏切をいくつも制しつつ、金沢近郊の住宅地をこまめに停まって終点の内灘へ着く。
 せっかくなので、どこか知らない街を歩いてみたい気もして、帰りに途中の三口(みつくち)という駅で何となく降りてみるが、相変わらず降り続ける雨の前に、僕は散策を諦めて待合室で次の電車を待つ。真冬の北陸で暖房のない待合室は堪えた。



 結局、1時間近くかけて浅野川線を往復したが、結論は出なかった。
 金沢駅でしばらく列車を眺めてみる。北陸本線は特急街道だ。新幹線と入れ違いに消える越後湯沢行きの「はくたか」、それに昨日乗った新潟行きの「北越」がやってきたと思ったら、それとは反対の大阪行き「サンダーバード」や名古屋行き「しらさぎ」が出発していって思わず目移りする。





 入れかわり立ちかわりやってくる特急たちを見ているうちに、ここまで来たからには、北陸本線が北陸本線であるうちに全線乗りたいと思いはじめた。北陸本線は、滋賀県の米原と新潟県の直江津の間を結んでいる。そのうち昨日乗った直江津から金沢の間は、すでに述べたように北陸本線から切り離されることが決まっている。金沢から西は、しばらく北陸本線として残るが、それとて新幹線が福井や敦賀まで伸びたらなくなってしまうし、第一、僕の中では、北陸本線とは米原と直江津を結んでいなければならないのである。米原からの線路が、金沢駅や福井駅で切れてしまっては、それは金沢本線や福井本線であって北陸本線ではない。面倒な性分であるが、てつおたはそういうものだ。


 結局、僕は北陸本線の起点である米原に出て、名古屋を回って帰ることにした。名古屋までの特急しらさぎ8号は、僕が全線完乗を果たしてから最初で最後の北陸本線ということで、グリーン席を奮発する。
 3連休の中日だと、普通車はそれなりに混んでいるが、さすがにグリーン車はそこまで混んでいない。優雅に最後の北陸本線を楽しむ。

 小松あたりで晴れてきたがそれもつかの間で、福井に近づくにつれて車窓は雪がちらつく。積もっている雪もどんどん増える。雪の中を猛然と突き抜ける特急に乗っていると、血管に北陸本線の旅情が流れ込んできて五臓六腑に回る感じがする。これこそが北陸本線だぞと、改めて自分に言い聞かせる。そのうちに居眠りをして、気がつくと北陸トンネルを抜けて敦賀に着いていた。久しく沙汰を欠いている小浜線が隣のホームに停まっていて気になるが、今日は素通りせざるを得ない。

 敦賀の先にある鳩原(はつはら)のループ線は、北陸本線を上らないと味わえない区間だ。敦賀に向かって下り勾配となる下り線は何もせずまっすぐ突き抜けてくるのに対し、登り坂となる上り線は急勾配対策として、衣掛山という小さな山に沿ってぐるりと一周するループ線を通っている。この途中で、トンネルを抜けると一瞬だけ左手に敦賀の街と今まで走ってきた線路を見える。何度も見た風景だが、これを見ると、北陸を去る感慨が湧く。この先は滋賀だ。

 右手に水を静かに湛える余呉湖を見ると、まもなく北陸本線の旅は終わる。これで本当に北陸本線の旅は終わりだ。もう二度と直江津から米原までを北陸本線ではたどれまい。昨日の金沢駅のホームでも、これが北陸本線との最後のひと時と思ったが、否、今日こそが最後だ。
 米原駅では電車の進行方向が変わるため、しばらく停まる。ホームに降りて、少しの間、最後の北陸本線の余韻を味わう。
 しらさぎ8号は、そんな僕の感慨とは無関係に、定刻通り名古屋へと歩みを進め始める。離れてゆく北陸本線を見送ると、特急はどんよりとした雲の垂れこめる関ケ原を抜け、よく晴れた濃尾平野を駆け抜けて、定刻通り名古屋駅の4番ホームに着いた。


 時間は15時。このまま帰るには少し早いなと思う。
 僕は今度は即断して、武豊線に乗ることにした。

 武豊線は名古屋近郊の大府から武豊(たけとよ)までを結ぶ19.3kmの路線である。もとは今の中山道を通る鉄道に使う資材を武豊港から運ぶための路線であったが、紆余曲折あって今では名古屋市の通勤圏に組み込まれて通勤通学や日々の生活に利用されている。

 名古屋という大都市の足元を走るにも関わらず、武豊線はこれまでずっと地方路線のようにディーゼルカーが走っていた。これがこの春いよいよ電化されて電車に置き換わるので、その前に乗っておこうというのが、即断の理由であった。

 武豊線の列車の多くは、起点の大府を通り越して名古屋駅まで直通運転をしている。しらさぎ8号が去った4番ホームで待っていると、銀色のディーゼルカーがエンジンをうならせてやってきた。


 名古屋を出ると、ディーゼルカーは大府まで東海道本線を走る。前の電車がつかえて速度を上げられないでいると、左側の線路におもむろに赤い車体が並ぶ。名鉄電車である。急行内海という行先を掲げた赤い電車は、これみよがしにぐんぐんとスピードを上げてこちらを抜かしてゆく。中京圏でのJRと名鉄の競争は昔からの伝統であるが、殊に急行内海行きは武豊線と完全に並行する区間を走る。ライバルに抜かされたとあって、地団駄を踏んでも始まらないが、いささか悔しい気もする。

 大府で東海道線と別れると、ディーゼルカーはいよいよ武豊線に入って知多半島へと歩みを進める。線路の上にはすでに架線が張ってある。あまたある鉄道の情景でも、架線が張られた電化間近の路線を走るディーゼルカーほど悲哀を感じるものはないと、僕は思う。20数年前に相模線で、20年前に八高線で、そして1年前に台湾の台東線で、それぞれに架線下のディーゼルカーを見たが、そのどれもがどこか悲しげに見えた。人は物事の誕生よりも終焉に何かしらの物語を感じるものだ。

 沈みゆく夕日が銀色の車体を照らすと、排気管から吹き上がる排煙もまた同じく夕日に照らされて線路際の地面に影を落とす。自らの影と煙の影を背負いながら、ディーゼルカーはガラガラとエンジンをうならせて走る。途中駅で時間があったので、降りて外からディーゼルカーを見てみると、頭上に架線を張られてたいそう窮屈そうにしている。だがそのステンレスの車体は夕日を鋭く反射して、そばにいるとまぶしいぐらいに輝いている。


 電車と入れ替わりでお役御免になるまであと2か月あまりだが、ディーゼルカーは電車と入れ替えになるその日を迎えるまで、淡々と自分の役割を果たさんとしている。僕はその様子と、昨日見た筒石駅の情景を重ね合わせると、思わず胸を締め付けられる思いがした。鉄道とはかくも美しいものなのか。



 ディーゼルカーは武豊駅に入ると、僕たち乗客を降ろしてすぐに折り返していった。
 すでに16時半、あたりは暗い。せっかくの3連休なので、名古屋か静岡あたりでもう1泊してもいいかと思ったが、昨日の筒石駅といい、今日の武豊線のディーゼルカーといい、2日連続で美しい鉄道の情景を見せつけられてしまった僕は、これ以上今回の旅に何かを望むこともなかろうと思い、名古屋に戻って新幹線で帰途についたのだった。

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