2017年5月29日月曜日

2015年5月 房総

 僕はいつも一人旅を好んでしてきたので、人に誘われてどこかへいくということがあまりなかった。

 だけども今回は、N氏の誘いに乗って、千葉へいくことにした。N氏いわく「千葉で古いディーゼルカーに乗って、夜は魚とかクジラ食いながら酒をだらだら呑んだりしたくない?」とのことである。
 古いディーゼルカー、魚、クジラ、酒。僕を魅了する言葉の数々に、僕は思わず二つ返事で氏の誘いに乗ったのだった。

 2015年5月16日。僕は有楽町にある富山県アンテナショップで買い求めた銀嶺立山の4合瓶をぶら下げて、東京駅から総武線の快速と内房線の鈍行を乗り継いで、五井へと向かった。内房線の車内では、次々に缶ビールや缶チューハイのふたを開ける音がしてきて、僕は何だか後れを取ったように思えて一刻も早く酒を呑みたくなるが、ここはぐっとこらえる。

 五井の小湊鉄道乗り場でN氏と合流する。ホームの水飲み場で、持参したスキットルに銀嶺立山を注いで列車を待つが、そのうち待ちきれなくなった僕らはおもむろに酒を呑み始めた。


 そのホームから手が届きそうなところに、小さな無蓋貨車がぽつんと停まっている。これは、いつここに来ても同じところに置いてある。放置されているのか、あえてそうしているのかはわからないが、とにもかくにもこれを見ると、小湊鉄道に乗りにきた実感が湧く。僕は小湊鉄道に乗る前のひと時に、この貨車を愛でるのが好きだ。


 一方、ホームから遠くに見える木造の車庫の周りでは、クリームと赤のツートンで塗られた小湊鉄道の車両がたくさん休んでいる。小湊鉄道の車両は、最近流行りの懐古調ではなく、本当に古いものだ。一番古いものでは製造から50年以上、新しいものでも登場から40年近くが過ぎている。今、東京からどんなに遠くへ行っても、ここまで古い車両がまとまった数で動いている鉄道会社はほとんどない。それが東京から電車で1時間ちょっとのところにあるのは、もはや奇跡と呼んでも差し支えないのではないかと思う。



 同世代の車両を使っていた会社で、次々と新車やそこそこ新しい中古車を導入する流れとなっていても、この小湊鉄道ではそういう話も聞かれない。車両は古いが、クーラーを取り付けするなどして手入れはしっかりとしている。古いといっても、小湊鉄道にとって必要十分な性能と機能を持っているのなら、置き換える必要はないということなのかもしれない。なんにせよ、古いものを大事に使うことは、周りが思うほど簡単なことではないし、立派なことである。

 上総中野行きは、その古いディーゼルカーが2両つながってやってきて、ブレーキの音もにぎやかに僕らの前に停まった。
 せっかくなので、ホームから列車を眺めてみる。クリームに朱色の塗り分けの車体はきれいに洗車されていて、古い車両にありがちな煤けた感じがあまりしない。車体の横には行先の看板と、小湊鉄道株式会社の略称であるK.T.Kのアルファベットが付いていて、特にK.T.Kの文字はピカピカに磨き込まれている。その下のキハ202という車両番号の表記もピカピカで、いかにこの車両が大事にされているかが見ているだけでわかる。ホームから床下を覗くと、古そうなエンジンが元気よくカラカラと回っている。



 やがて出発時刻になると、ディーゼルカーはエンジンをふかして軽々と動き出した。車内は思ったよりも空いていて、気兼ねなく酒が呑める。雲がどんよりと垂れこめていて、天気はあまりよくないが、車窓を肴に僕とN氏は酒を呑んだ。ディーゼルカーは、田んぼと谷津が繰り返し広がる千葉らしい風景を走っては、古い建物が残る駅にこまめに停まっていく。


 途中から乗ってきた客には、車掌が短冊のような細長い形をした切符を持ってきて、それに鋏でぱちぱちと穴をあけて売る。列車の行違いがある駅では、肩に通行手形が入った輪っかをかけた駅長が列車の到着を待っていて、そっと運転士にその輪っかを渡す。




 昔ながらの鉄道の情景を、作り物や見世物としてではなく、日常として続けている小湊鉄道に、僕は改めて敬服の思いを抱いた。そんな情景に見惚れていると、やがて列車は谷戸から里山に入る。緑豊かな山あいを走り、養老川が刻んだ谷を渡ってトンネルを抜けると終点の上総中野である。ここでいすみ鉄道に乗り換える。


 いすみ鉄道は外房線の大原駅から、僕が今いる上総中野駅までの26.8kmを結ぶ第三セクター鉄道で、もともとは木原線というJRの路線だった。名前の通り、内房の木更津から伸びている久留里線と結んで房総半島を横断せんという鉄道であったが、もろもろの事情があって五井から伸びてきた小湊鉄道と上総中野でつながることに落ち着いて現在に至っている。

 田舎の鉄道の例に漏れず、いすみ鉄道も乗客が減っていて存続が危ぶまれているが、廃線を免れるために列車本数を増やしたり駅を増設したりと経営努力を続けており、その一環として、JRで引退した古い車両を引き取って週末に走らせるという試みをしている。この試みは多くの鉄道ファンの耳目を集めていて、週末になるといすみ鉄道の列車に乗ったり写真を撮ったりする鉄道ファンが数多くやってくるようになったという。僕自身もそれに惹かれてやってきたのだった。

 修理部品も手に入りにくい古い車両を維持するだけでも頭が下がるのに、いすみ鉄道では新車のデザインも古い車両に合わせてわざと古風に作ってしまい、世間のてつおたたちを再び驚かせた。経営努力というにはいささか趣味の色が濃い気もするが、鉄道が話題となり、それがきっかけで沿線が盛り上がるのであれば、鉄道好きとしてうれしいことはない。


 上総中野で待つこと約30分。お目当ての列車がやってきた。古いディーゼルカーの2両編成で、小湊鉄道の車両も古かったがこちらも負けず劣らず古い。僕はさっき五井でそうしたように、再び車両を眺めてみることにした。

 1両目はクリーム地に窓周りが朱色の塗り分けで、これは急行列車に使われていたキハ28という車両である。急行用とはいえ、これの現役末期の頃はJRにおいて急行という列車がほとんどなくなっていたので、普通列車や快速で使われることも多かった。
 車内はボックス席がずらりと並んだ昔ながらの汽車といった感じである。床下では、小湊の車両とは少し違うエンジンがカランカランと回っているが、その横で、けたたましい唸りを上げているエンジンがある。こちらは冷房用の発電機を回すエンジンで、列車が走っていようが停まっていようが絶えず高回転で動いている。昔のディーゼルカーにとって冷房とは、死重にしかならない発電用エンジンをぶら下げなければ動かせないぜいたく品だったことを想起させる騒音だ。ただ、昔はこの型の車両が来ると冷房がついているので、暑い時期は正直うれしかったことを思い出す。


 2両目は朱色1色。こちらは主に普通列車で活躍していたキハ52という。
 車内はボックス席が多いが、ドア周りは長椅子になっていて、乗降性と居住性の良いとこ取りをした造りになっている。例の如くホームにしゃがみこんで床下を覗くと、カランカランと鳴るエンジンが今度は2台ついている。これは坂の多い路線で使うためにエンジンを2台積んだ強力型なのであった。僕自身も、これには小海線や花輪線といった急な登り坂の多い路線で世話になった記憶がある。もっとも、平坦ないすみ鉄道でその力を活かすことはないだろう。エンジンを2台も積んでいるので、床下は機械の箱がぎっしりぶら下がっていて、クリーム色のように冷房を動かすためのエンジンなど積める余裕はない。それゆえかつて小海線や花輪線でこれに乗った時には冷房などなかったはずだが、今の技術では大きくてやかましい発電機を積むこともなく冷房がつけられるらしく、車内には冷風の吹き出し口が付いている。



 どちらの車両も、かつては日本全国どこでも見かけた車両だ。てつおたを始めてたった30年に過ぎない僕のような若輩者でも、この2車種に世話にならなかったことはないぐらい、昔はどこでも見かけた。だが、今でも現役を張るのはここいすみ鉄道の2両だけになっている。
 彼女たちを眺めるうちに、現役最後の2両が目の前にいるというありがたさと、かつていろいろな路線で世話になったというなつかしさが僕の胸の中でこみ上げてきて錯綜する。
 2両のうちクリーム色は全車指定席で、予約をしておけば、道中で食事が供されるという。僕らは食事をしにいすみ鉄道に来たのではないので、朱色のほうに乗り込んで発車を待った。

 列車が動き出すと、昔よく列車内で聞いたオルゴールチャイムが流される。チャイムにも種類があって、電車は「鉄道唱歌」、ブルートレインなどの客車は「ハイケンスのセレナーデ」、そしてディーゼルカーであれば「アルプスの牧場」である。理由は知らないが、そんな風に決まっている。流れたのはもちろん「アルプスの牧場」で、粋な計らいに思わずぐっとくる。窓を開けて、外の風を感じながらスキットルで酒を呑んでいると、列車はあっという間に終点の大原駅に着いてしまった。
 実際には1時間ほど乗っていたはずなのだが、本当にあっという間であった。列車の旅の楽しさの本質とは、時間の流れを忘れて、目の前に現れる情景に夢中になることだと、僕は思う。そして、情景のファクターとは、車両であり、風景であり、風情である。その3つが合わさると、僕のようなてつおたは時の流れを忘れてその情景に没頭してしまう。いすみ鉄道には、その3つが具備されているように思う。




 小湊鉄道が昔ながらの鉄道のある情景を日常に残しているとすれば、いすみ鉄道はあえて造られた情景で勝負をしている。眼前に映し出される情景がありのままのものなのか、あるいはあえてそうしているのかの是非はさておき、そこにそういう情景があるということ自体に、僕たちてつおたはありがたみを感じざるをえない。

 大原から、外房線と内房線を乗り継いで、本日の宿がある和田浦へ向かう。恥ずかしながら、僕はこの旅に出るまで、和田浦という駅がどこにあるのか知らなかったので、事前に時刻表の路線図を辿って、和田浦がどこにあるのかを探してみた。
 外房線を蘇我から辿っていくと、東浪見、浪花、太海など、海沿いを走る路線らしい名前を持つ駅がいくつか見つけられる。和田浦といういかにも海を主張する駅名からして、僕はてっきりこの駅が外房線にあるものだと思っていたら、実は内房線にあった。内房線といっても、実際には外海に面したところであることもわかった。クジラが揚がる土地なのだから、外海に面していると考えた方が自然であったが、あいにく僕にはその観点が欠落していた。
 灰色の中に怒涛を刻む太平洋を横目に、京浜東北線のお下がりである銀色の電車に揺られること約1時間、今日の目的地である和田浦駅に到着した。駅に降りたのは僕とN氏だけだった。駅前広場には大きなフェニックスの樹が1本、どっかりと腰を据えて立っている。宿はどこかと探すと、N氏が駅前の奥まった建物を指す。宿の選定はN氏に一任していたのである。


 『四季の宿じんざ』という名のその宿は、いわゆる民宿であった。土曜とはいえ、ゴールデンウイーク明けの閑散期とあっては客も少ないようで、宿は静かである。宿で一休みした僕らは、クジラと酒を求め、和田漁港へと歩いて向かった。国道を15分ほど歩いて脇道に入ると、漁港が見えてくる。目当ての店である『笑福』は、その漁港の中にあった。ここもN氏が事前に予約してくれていた。


 人当たりのよい、おおらかな感じの大将にお勧めを聞くと、クジラと魚の両方を味わえるコースがあるというので、それを頼む。クジラの竜田揚げ、ミンククジラの脂身などを、日本酒で頂く。うまい。2合の酒があっという間になくなる。
 クジラもよかったが、そのあとの魚もまたうまかった。まずは寿司。たい、ます、いか、かれいと来て、その中にベニアコウという名の魚も混じっている。聞きなれない魚だと思ったが、それもそのはず、ベニアコウは深海に住む魚で、誰でも簡単に釣れる魚ではないという。当然、東京ではほとんど出回らない。ベニアコウはN氏に譲った。アコウダイのあぶり寿司というのも出てくる。これが脂がのってて大変うまい。感想らしい感想を思い浮かべる前に舌の上で溶けてしまった。ほかにも煮魚、なめろう、焼き魚など、いろいろと食べ、酒を呑んだ。結局僕らは、3時間ほどかけていろいろな魚を食った。至福の3時間であった。







 帰りは波の音を聞きながら、夜霧に沈む漁港をふらふらと歩いてみた。夜霧の中で、陸に上げられた漁船たちが舳先を並べて休んでいる。港に建つ常夜灯の光が夜霧と混じって、漁船をぼんやりと照らしている。車も入れないような細い路地をのぞき込むと、まだ22時過ぎだというのに、窓から明かりが漏れる家はすでに少ない。漁師町は朝が早いからか、すでに就寝している人が多いようだ。宿までの道中にある内房線の線路は、鈍色の光をたたえて列車を待っている。見知らぬ小さな漁港の日常をのぞき込んでいるうちに、子どもの頃に行った臨海学校の夜を思い出して、何だか懐かしい感じがした。僕らは宿に戻った後も少し酒を呑んで、それから寝た。






 翌日、宿で朝食を頂く。大きな蛤が入った味噌汁がうまい。宿を辞し、砂浜まで出て少し海を眺めてから、内房線で館山に向かう。今日は、館山からバスに乗り継いで相の浜という漁港に行き、ここで海鮮焼きを食べて帰京するというスケジュールになっている。

 館山で乗り継ぐ先はジェイアールバス関東の路線バスである。これは東京から館山まで高速バスとしてやってきたものが、ここから路線バスとして野島崎や安房白浜へと向かう。始発駅からずっと急行で来た列車が、末端だけ普通列車になるようでおもしろい。バス乗り場の路線図を見てみると、このあたりの旧国名である安房を冠したバス停が安房浜田、安房神戸、安房佐野、安房横渚(よこすか)と4つある。これも鉄道の駅のようで風情が感じられてよい。JRバスからは、鉄道の匂いがとても強く感じられる。


 それもそのはず、JRバスの前身たる国鉄バスの使命は、鉄道線の先行、短絡、培養、代行、補完の5つであり、昔は国鉄線と同一視、つまり鉄道路線の一部として扱われていた。きっぷも鉄道とバスが通しで買え、ゆえに他所の駅名やバス停と名前が重複するバス停には、駅と同様に旧国名をつけて区別することになっていた。国鉄がなくなり、バスがJR直営から分離されるにつれて、鉄道とバス路線を同一視する制度は廃止となり、通しできっぷを買うことも、一部の例外を除いてできなくなってしまった。だが、先に挙げた安房何某のバス停たちは、かつてそういった経緯でつけられた名前を今でも使っているのである。



 路線バスには似つかわしくないハイデッカーの大きなバスは、出入口の段差に苦渋するお年寄りたちをバス停ごとに降ろして、僕らを相浜までいざなった。乗車時間にして20分少々であったが、スマートフォンで現在地の地図を見ると、線路だけでは絶対にたどり着けないところに来たことがわかる。
 館山駅を境に「鈍行」になる車両運用といい、旧国名を冠したバス停たちといい、そういう鉄道のような風情がある乗り物で今まで来たことがない場所まで来れることといい、僕は何だかJRバスが鉄道と同じぐらいに楽しいものなのではないかと思い始めた。

 バス停から10分ほど歩き、海辺に下りると相浜漁港がある。
 その一角に「海鮮バーベキュー」と書かれた小屋があり、奥にはブルーシートで覆われた海の家のようなスペースがある。のぞき込むと、ステンレスのテーブルのど真ん中で炭火がバチバチと燃えている。
 席に着くと、係の人がイカやアワビ、サザエ、蛤などが乗った皿を持ってきた。あとはこれを焼いて食べるのだが、N氏も僕も酒呑みなので、当然の如くビールを注文する。5月にしては強い日差しの中を歩いてきた僕らの喉は、当然のようにカラカラだった。五月晴れの日曜午前。酒を呑むには最高の条件だ。渇いた身体に生ビールが広がり、炭酸の粒が血流に乗って全身に回る感覚がたまらない。そこにしょう油を垂らしたアワビなどが合わさって、N氏と僕の言語野は完全に麻痺してしまった。僕らはうまさのあまり言葉もほとんど交わさず、ただアァァァと唸りながら海鮮バーベキューとビールを腹に収めた。



 あとは帰るだけである。館山駅に戻り、特急さざなみ号で一気に東京へと戻る。
 おっさん二人組が、列車に乗りながら酒を呑み、クジラを食いながら酒を呑み、貝を焼きながら酒を呑むだけの旅であったが、たまには誰かと旅をするのも悪くないと思った。

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