2017年9月13日水曜日

気づいてしまったからには乗りにいく(2016年6月 只見線)

 暇に任せて時刻表を読んでいたら、大宮6:34発のとき301号に乗って浦佐で上越線1725Mに乗り換えると、小出7:55着で只見線の始発列車2422Dに3分接続で間に合うことに気がついた。

 気がついてしまった以上は、行くしかない。

 2016年6月4日。土曜日。
 梅雨も近い6月初旬だというのに、太陽がまぶしい。浦佐で乗り換えた上越線の中で、さんさんと降り注ぐ陽光に、早くも只見線の旅への期待感が高まる。


 小出7:58発の只見線は、白地に青と赤の、いわゆる新潟色の気動車が2両つながって、ごろごろとエンジンを鳴らしながら発車を待っていた。
 僕の乗ってきた上越線からの乗り換え客は4名。車内にはすでに先客もいる。僕と通路を挟んで反対側のボックスシートには、輪行袋を携えた人がどっかりと座った。確かに自転車で走るには最高の天気と土地だ。

 僕にとっては2010年8月以来、6年ぶりの只見線である。胸の高鳴りが抑えられないが、車窓をじっくりと観ることにする。
 小出からひとつめの藪神。近くの川の土手で草刈りをする人がちらとこちらを見るが、すぐに向き直って黙々と草刈り機を左右に振る。続いて越後広瀬。駅近くの衣料品店の窓から親子が列車に手を振っているのが見える。さすがに手を振り返すのは気恥ずかしい。

 列車の速度はすこぶる遅い。30キロ位でのたくたはしる。越後広瀬で1名、魚沼田中でもう1名降りる。
 …ん、魚沼田中? 越後を冠する駅が並ぶ中、ここだけは越後ではない。重複駅名があったかと不審に思って記憶をたどると、飯山線に越後田中があって合点がいく。
 あちらは1927年開業、こちらは1951年開業で、あちらのほうがだいぶ先輩であった。当たり前だが、駅名は早いもの順で名付けられてゆく。
 越後須原で便意を催して上条までのあいたでトイレにこもる。
 入広瀬で2名降りる。駅名標を見ると、隣駅の柿ノ木が潰されて大白川になっている。柿ノ木は乗降客が少ないため廃止されてしまった。


 大白川まで坂を登る。気動車は停まりそうなスピードでゆっくりと登っていく。大白川で3名下車。僕のとなりのボックス席にいた、輪行袋を担いだ人も降りていった。

 そこからなおも登っていく。車窓には細い川と国道が寄り添っているほかは、ひたすらに濃い緑が続く。登り詰めていくと六十里越トンネルという全長6.3km余りの長いトンネルが口を開けている。これを抜ければ会津の国である。抜けた先にも田子倉という駅があったのだが、これも先の柿ノ木と同様、あまりにも利用客が少ないため廃止になってしまった

 轟音とともに六十里越トンネルを抜けると、間もなく只見に着く。ここでいったん列車を降り、バスに乗り換えることになる。この只見から会津川口という駅までの間は、2011年の豪雨によって鉄橋が流されるなどの被害を受け、いまだに鉄道が復旧できずに代行バスによる運行となっている。

 僕は一介のてつおたなので政治のことはよくわからないが、報道などを通じて話を聞くに、どうも赤字路線であるがゆえに、JRが復旧に及び腰のようである。一方で、自治体は鉄道復旧を望んでいるとも聞く。
 無論、鉄道事業を営利として行う以上は、赤字路線など切り捨ててしまいたいというJRの気持ちはよくわかるが、只見線のような風情ある路線を棄ててしまうのは、少しもったいないのではという僕の気持ちもある。鉄道には、お金という尺度では計れない魅力というものも多々ある。


 改札を抜けると、女性が「代行バスに乗りますか?」と聞いてきたので、駅の案内の人かと思ったら、バスの運転士さんだった。
 駅を出ると、銀色のマイクロバスが停まっていた。これが代行バスであった。僕を含めて3人がバスに乗り継ぐ。地元の人は見当たらず、みな旅装である。


 バスから運休区間を見る。
 運休区間の駅前やその近傍に停まって客を待つが、乗り降りはない。旅人だけの時間が過ぎる。
 ときたま線路敷が見えるが、猛々しいまでの緑に覆われていて、一瞥しただけではそれが線路であるとは思われない。田んぼの中を横切っているところなどは、線路がまったく視認できず、農道や畦道かと見まがう。何も知らなければ、こんなところに線路があるとは夢想だにしないだろう。
 橋などとつながっている部分を見て、ようやく線路の存在がわかるが、橋の前後の築堤は草ぼうぼうで廃線跡のようにしか見えない。6年も列車が来なければ、線路は自然に回帰しようとするのである。トンネルのポータルにも雑草やツタが暖簾のように茂っていて、もはや洞穴にしか見えない。


 それよりも何よりもショックだったのは、コンクリート製の橋脚が根元から折れていて、橋げたがどこかに消し飛んでしまった鉄橋を見たときであった。自然の猛威という簡単な言葉では済まされない何かが、この鉄橋を押し流してしまったのだと思うと胸が痛む。その日、濁流に呑まれた鉄橋は、果たしてどんな音を立てて崩れていったのだろうか。僕もかつてその上を通った鉄橋は、どこへ流されていってしまったのだろうか。想像するだけでつらいものがある。
 この線路が復活する日は来るのだろうか。そんな疑問が僕の頭をもたげているうちに、バスは会津川口に到着した。駅に着く前に運転士さんが「乗り継ぎの列車まで時間がありますので、もしよかったら駅で待つのではなく、道の駅まで行ってみてください」という旨のことを僕ら乗客に言う。歩いて30分ほどだという。


 会津川口では次の列車まで2時間ほどあるので、例の「道の駅」まで歩くことにした。駅で貸し出している自転車を使ってもよかったが、旅先は、できれば自分の足で歩きたい。地図を見ると、会津川口から道の駅まで片道でだいたい2キロメートルぐらいである。

 駅前の国道252号を、会津坂下方面に向かう。適度にアップダウンがある道は、日ごろ列車ばかりに乗っている身体にはちょうどいい運動になる。左手の只見川が、鏡のように山並みや青空を反射して美しい。旅の実感に浸る瞬間だ。
 国道をツーリングのバイクがひっきりなしに行きかうが、6月とはいえ30度近い気温と強い日差しの中、歩いているのは僕しかいない。ガソリンスタンドの店員が怪訝な目でこちらを見るが、軽く会釈をするととたんに笑顔になる。製材所や神社、古い薬局などを見ながら20分ぐらい歩いていくと、道の駅が見えてきた。道の駅の名前は「奥会津かねやま」という。




 昼食にざるそばを食す。
 これが香りもよく美味であった。久しぶりにうまいそばにありつけた。もし、只見線の列車が通じていて、会津川口で降りることがなかったら、一生出会えなかった味であろう。


 道の駅の裏手に古民家があるので、あわせてそれも見学する。入館は無料であった。
 昔の農機具や生活の道具が展示してあり、それぞれの使い方の解説なども併設してある。電球が灯っているが、室内は薄暗い。
 暗く隙間だらけの家で、奥会津の冬をよく凌げてこれたものだと思う。


 道の駅の休憩所で清涼飲料水を買い、水分補給がてらしばらく休んで、再び歩いて会津川口駅に戻る。相変わらずツーリングのバイクが多い。こんなときばかりは、道さえあれば自由に走ることができるバイクがうらやましい。
 駅に戻ると、構内に見慣れない白い車両がいた。検測車であった。これは線路や架線などのゆがみや痛みを見つける機械を積んでいて、当然ながら一般の客は乗れない。いつどこを走るのかもあまり公表されていない。簡単に言えば、新幹線のドクターイエローと同類である。
 日本の大動脈たる新幹線は言うまでもないが、只見線のような1日に数えるほどしか列車が走らない閑散線区にも、このような検測車が設備の検査に来る。新幹線であろうが地方路線であろうが、どんな路線であっても分け隔てなく当たり前のように検査を行い、しかるのちに修繕をして線路を維持している。鉄道というシステムの甲斐甲斐しさというか、当たり前のことを当たり前に行う律儀さと愚直さが、僕は好きだ。

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 会津川口駅は、ホームから見る只見川が美しい。そこで駅員に切符を見せながら「構内で写真を撮らせて欲しい」とお願いすると、「写真はホームでお願いします。絶対に線路に入らないでください。」と念を押される。無論、こちらはそんなことをするつもりはないが、残念ながらそういう不逞の輩も多いのだろう。


 会津川口12:35発の428Dは、白地に濃淡2色の緑を塗った2両編成。後ろの車両がホームにかかっていないのでどうするのかと思っていたら、おもむろに運転士がやってきて、車両を少し動かして定位置に停めた。最初から定位置に停めておけばいいのではと思うが、何か理由があるのだろう。


 景色がきれいな左側のボックスシートに陣取り、窓を開けて風を浴びる。ついこの前まで、只見線の車両にはクーラーなどという代物はついていなかったが、いつの間にか冷房が装備されてしまった。だが、このようなさわやかに晴れ渡った初夏の日には、冷たいクーラーの風よりも窓を開けて取り込む自然の風のほうが気持ちよい。
 だが、せっかくの只見線であるにもかかわらず、始発の新幹線に乗るために早起きした疲れに、列車の揺れと昼食の蕎麦がちょうどいい塩梅で重なり、ついつい眠気を催す。それに抗って車窓の只見川を愛でようと目をこするも、窓から吹き込む風の心地よさに、いつの間にか僕は居眠りしてしまった。
 結局、会津川口から会津宮下まで居眠りである。僕は、只見線で一番風景がきれいな区間を寝て過ごしてしまったことになる。心残りであるが、また乗りに来ればよい。

 遅まきながら、再び車窓に目を転じることとする。郷戸で3名乗ってくる。このあたりから只見川の穿った谷がだんだんと開けてくる。


 会津柳津では小学生が100人ぐらい乗ってきて、車内はたちまち満員になる。空いている席はすべて子供たちで埋まり、車内の静かさはどこかへ消し飛び、遠足のバスのようにてんやわんやの大騒ぎとなる。


 僕が座っているボックスシートにも、「相席いいですか?」の声がかかり、女の子が4名座りにくる。無論、断る理由などないので「どうぞ」というと、女の子たちはぺこりと頭を下げて腰を下ろす。僕の隣に1名、向かい側に3名。小学生だとボックスシートに並んで3人座れる、これは新しい発見だった。
 僕などはボックスシートは1人で独占したいという邪悪な大人であるが、彼女たちは特に騒ぐでもなく、本を読むなどして、静かに腰掛けている。最近の子供にしては、列車内でのマナーを心得ているなと感心する。親御さんの教育の賜物であろうか。
 ひるがえって男子たちは、列車がトンネルに入るたびに大騒ぎする。そのたびに、僕と相席した女の子たちは、騒ぐ男子たちをいささか軽蔑するような目で見つつ、静かにしなさいと諭している。だが、男子は聞く耳を持たずにふざけている。
 思い返すと、僕もそうだったかもしれない。クラスの女の子の言うことに対しては、屁理屈や冗談ばかりを言っていた気がする。男の子より女の子のほうが大人びていて理性的だという事実は、僕が子供の頃から変わらないらしい。


 小学生の大群は会津坂下(あいづばんげ)で降りていった。代わりに部活の高校生がたくさん乗ってくる。小学生と違ってこっちは女子が騒がしい。男子高校生は物静かだが少し汗臭い。けだるそうに座席に腰かけて、グループで談笑する彼らの姿を見ながら、これも僕がいつか通ってきた道なのだと、さきほど小学生を見た時と同じように昔を回想する。
 車窓には残雪の飯豊山と新緑の磐梯山。
 会津坂下を境に山から降りてきて、もう会津若松の街が見えてるのに、盆地を突っ切らずにわざわざぐるっと回っていくところも、只見線の魅力のひとつであるように思う。



 会津盆地に下りてきた気動車は、田植えが終わった田園地帯の中をのんびりと走る。只見駅からずっと目を楽しませてくれた只見川の渓谷と別れ、車窓が開けてくると、今回の只見線の旅ももう終わりに近いのだという寂しい心持ちになる。その一方で、遠く残雪を頂く飯豊連峰と、眼前の屹然たる磐梯山の対比を目にすると、初夏の会津にやってきた実感と喜びもわき上がってくる。
 独断であるが、夏の只見線は小出から入ったほうが、山、川、盆地と風景に変化があっておもしろいと思う。これが逆だと、最初に盆地から川という大きな変化を迎えた後、川と山は風景が連続しているので、途中で飽きるかもしれない。どの路線でもそうであるが、風景の顕著な転換場面は、最後に取っておくべきだと思う。
 逆に、厳冬期は会津若松から小出に抜けると、進むごとに見る間に増えてゆく沿線の雪に圧倒されること請け合いである。僕が初めて只見線に乗った1992年の3月だった。3月とはいえ雪の壁の中を行く列車に、日本にはこのような雪だらけの世界があるのかと初めて実感したものである。
 今度は冬に乗りたいと思うが、ひとまず夏の只見線に乗ってやったぞという満足感に浸る僕を乗せて、列車は定刻どおり会津若松にゆっくりと滑り込んだ。

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