2017年9月24日日曜日

そこに鉄路がある、それだけで僕にはありがたい(2016年6月 東北本線利府支線)

 盲腸線。
 それはいろいろと事情があって、本線筋から外れて枝葉を生やし、行き止まりとなっている鉄道路線たちの通称である。行き止まりであるから盲腸とは、昔の人はうまく言ったものだと思うが、今回はそんな行き止まりの路線について語りたいと思う。


 ひとくちに盲腸線といっても、行き止まりとなったいきさつは様々で、メインルートから外れた街や村、あるいは寺社仏閣、鉱山や港を目指したもの、違う土地まで延ばそうとして途中で頓挫してしまったもの、利用の低調や予期せぬ災害によって先端が廃止されたものなどさまざまである。

 しかし、今回乗った東北本線の利府支線は、これらのパターンには当てはまらない。今でこそ枝線になっている利府支線であるが、もともとは東北本線の一部であった。しかしながら、利府から先の区間に介在する急勾配が嫌われて、海沿いを経由する比較的平坦な新線が作られた結果、利府までの一部を残して廃線となってしまった。それが1962年のことであるから、もはや利府から先の線路の痕跡を見出すことは難しいだろうが、とにもかくにも線路がある以上は乗らねばならない。

 2016年6月8日。
 只見線と五能線を主役に据えた東北旅の最後に、東北の幹たる東北本線に敬意を表して、また、利府から先の鉄道の痕跡がないかを確かめるべく、僕は仙台駅9時17分発利府行き4435Mの客となった。4両編成の車内は、各ボックス席に1人ずつぐらい乗っている。

 ラッシュからは少し遅い時間ながらも多くの客を乗せて仙台駅へ向かう電車たちや、赤い機関車がたくさんたむろしている機関区などを横目に見つつ、10分ほどで利府支線の分岐駅の岩切へ。岩切は2面4線に通過用の中線と、上下線それぞれに側線の計7本も線路が並んだ大きな駅である。北側すぐのところには東北新幹線の高架が横たわっている。ここで7分ほど停まるので、その島式ホームに降りてみる。


 ホームの先の方まで歩いて線路の先を見てみると、まず僕が立っているホームの線路は、目の前の新幹線高架をくぐるとその陰に消えてゆく。片や他方の島式ホームの線路は、新幹線の下を真一文字に貫いて堂々の複線が伸びている。
 つまり、この岩切駅の島式ホームは、利府支線用と盛岡・仙台方面で分けられているのである。これは、この利府支線の成立の経緯を思えば首肯できる。もともと利府方面だけだったホームに、松島経由の新線用ホームがあとから作られたのであろう。

 利府からの上り列車と交換して発車。先ほど最初に僕が眺めた線路に進んでゆく。新幹線をくぐってその右側に並んだかと思うと、間髪置かず新幹線の高架は左に離れていき、代わってこちらからの側線が1本、左の新幹線との間にできた空間にひょろひょろと分かれてゆく。その側線がさらに幾本かに分岐し、その先には夜中にだけ動く保線用の車両やトロッコ、そして白い車体に錆び汁を垂らした在来線の古い電車が置いてある。転じて右側は、ただただ広大な田んぼだ。

 そんなふうに左右でまったく違う景色を見ていると、電車は静かに新利府に着く。駅の周りに民家は見当たらず、ただ新幹線の車庫がカラフルな車両たちを侍らせてデンと鎮座している。ここは新幹線の乗務員のための駅だ。案の定、誰も乗り降りしない。車内では、乗り合わせた母子が熱心に新幹線群を眺めて、さかんに「はやて」だとか「つばさ」などとやっている。まことに微笑ましい。東海道筋に比べてこの東北筋は、新幹線のバラエティに富んでいて、僕のようなおじさんでも愉快に思う。

 新利府から2分で利府へ着く。線路の先には車止めがあって、その向こう側には新しい感じの宅地が広がっている。まぎれもなく終着駅だが、50年ほど前まではここから青森へと向かう線路がつながっていたのである。ホームは櫛形で、コの字のホームが線路2本とそれぞれ接している。


 改札を出ると、タクシーが何台か待っている。路線バスもいる。大きなマンションもそびえたつ。典型的な郊外駅の駅前風景だ。ここがかつて東北本線の中間駅だった痕跡は何もない。終着駅になってからの50年間に、風景もすっかり変わってしまったのであろう。




 だが、それでいい。
 風景が変わろうと、過去の痕跡がなかろうと、それでいいのだ。

 鉄道は時代によって役割が変わる。それは世の中の要請だ。この利府支線も、昔は本線の一部だったが、今は利府の街の足、あるいは新幹線の乗務員の通勤ルートという役割を持っている。本線から外れたからといって零落したわけではない。事実、何がしかの事由によって零落した鉄道の多くは、永遠に我々の眼前から失われている。

 その路線の過去は気になるが、僕の目に見えるものは、現在とこれからしかない。過去を見ることは誰にも能わない。ただ、願わくばその過去の痕跡を、どこかで垣間見られればよい。廃線跡であったり、低い石積みのホームであったり、もしそんなのが見られたら僥倖だ、という心持ちである。僕が鉄道の過去を見るときは、それぐらいの気持ちでいる。

 盲腸線は、一方がふさがっている。人や物を運ぶという鉄道の意義を考えるには、起点終点の両方ともが、どこかに通じていたほうが何かと都合がよいように思う。だが、とにかく、行き止まりであろうと、目の前に何かしらの役割をもった線路がある。僕にはそれだけで十分だ。今回の利府支線での、わずか数分たらずのこの小旅行も、そういう生きた線路をひとつずつ丹念に訪ねてゆくという、僕の中での永遠のテーマのひとつなのである。

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