2017年10月8日日曜日

線路の行く先を久しぶりに確かめる(2017年2月 中央本線)

 幼い頃、「時刻表で、索引図を見ずに中央本線のページを1回で開けるようになると、その人は旅人として一人前だ」と、いとこか誰かに言われて、時刻表を片手に一生懸命練習したことがあった。

1991年 八王子にて
 無論、一人前のくだりには何らの根拠などなく、ただ中央本線は時刻表の真ん中あたりに掲載されるのが常だから、慣れればそのうち誰でも1発で開けるようになるだけのことであったが、幼な心にその言葉は強烈だったことを覚えている。

 中央本線にまつわる思い出はいくらでも出てくる。東北線にしろ東海道線にしろ総武線にしろ、単色塗りの通勤電車とツートンカラーの長距離列車は別の線路を走っているが、それに比べて中央線では、オレンジ色の快速電車と、青にクリームの長距離列車が同じ線路を走っているし、高尾止まりの快速の次に松本行きの鈍行が来るなどというのが何とも愉快であった。

1991年 新宿にて
 小学2年生の頃であろうか、親戚一同の旅行で甲府に行った時に、僕は生まれてはじめて立ち食いそばを甲府駅のホームですすった。食べたのは月見そばで、僕の小さな胃袋にはとても入りきらなかったことを覚えている。
 甲府だけでもとても遠くに来たように思えたが、父に聞くと、中央本線は名古屋までつながっているという。これもまた、幼い僕に強烈な印象を残し、いつか中央本線が名古屋までつながっているのを、この目で確かめてやりたいと思うようにもなっていた。

 長じて、中央本線を全線乗り通す機会を何度か作った。当たり前だが、確かに線路はつながっていた。1度目は鈍行で、2回目と3回目は特急で通ったが、すべてきちんと名古屋から八王子やら新宿までたどり着けた。普通ならばそれで満足するが、1度でいいものを、何度も通って確かめてしまうのは、僕のような旅屑の悪い癖だ。それに、この3回はすべて名古屋から東京への上り列車で通っただけで、実は下りを乗り通したことは1度もなかった。

 そして今回も、中央本線が名古屋までつながっているかを、久しぶりに確かめてみたくなって、何となくふらっと旅に出た。今回は念願の下りである。

 2017年2月18日、土曜日。
 まずは中央本線の起点である神田へ向かう。電車はすべて東京始発であるが、東京から神田の間は東北本線ということになっているので、起点に敬意を表して神田から乗るとする。
 やってきた神田9:59発の特快は青梅行きなので、中央線を往くには不向きな列車である。そこで、ひとまずこれに乗り、これを国分寺で捨てて高尾行きの快速に乗り継ぐことにする。電車は、御茶ノ水、四ツ谷、新宿と、見慣れた駅の雑踏を過ぎてゆく。

 中央線で西へ向かうと、一刻も早く東京を脱したい気持ちになってくる。
 日ごろ神田や新宿や中野の世話になっている身からすると大変身勝手だが、前途に待つ旅路を思うと、それらのけばけばしさが俗悪に思えてくる。国立あたりまではいつも我慢だ。
 国分寺の先で野川を渡り、西国分寺の切り通しを抜け、国立の先で、前途に丹沢から高尾までの山並みを指呼のもとに認めると、ようやく旅に出た感じがする。南側の丘陵も家に覆われつつあるが、それでも先ほどまでの俗悪な景色よりは清新であるし、北に目を転じれば秩父も見える。

 多摩川を渡る。水の流れに対して妙に鉄橋が長く、河原の半分以上は白い石に覆われている。日ごろ広くて水量の豊かな多摩川の下流に目が慣れていると、この痩せ細った流れが多摩川のようには思われない。下流の住民があまり意識をすることはないが、多摩川にとって、立川辺りは中流域なのだ。

 豊田の電車区を横目に見て、ちょうどやってきた京王線の電車を跨ぎ越すと八王子の駅に着く。20年近く前に八王子で買った弁当がひどくまずかったことをいまだに覚えていて、通るたびにそのまずさを思い出す。弁当の名は忘れたが、味だけは忘れられない。それぐらいひどかった。
 構内には、中央線と横浜線にはさまれて、緑色のタンク車が群れている。その筒のすみっこには「常備駅」、つまり彼女らの住処が書いてある。機関車の後ろで列をなして発車を待つ彼女たちの住所を見てみると、根岸、倉賀野、宇都宮、郡山など見慣れた名前もあれば、浜五井、仙台北港というあまりお目にかかれない駅名もあって、見ていて飽きない。

 高尾で4ドアオレンジ帯の通勤電車から3ドアの中距離電車に乗り換える。いよいよ旅の本番といった感じがする。着いたホームの向かい側に甲府行き535Mが待っていたが、まだ朝食を摂っていなかったので、甲府行きを見送ってホームの立ち食いそばでイカ天そばを食べる。汁がえらくしょっからい。僕の後に入ってきた客はネギ多めとリクエストをしている。たしかにこれは、ネギを増して汁をマイルドにしたほうがうまいかもしれない。

 しょっからいそばに喉をやられた僕は飲酒欲を催して、跨線橋を渡って駅舎のキオスクまで酒を買いにいくと、そこに折悪しく東京からのオレンジの快速が到着してしまう。えらくたくさん降りてきて、この中のどれぐらいの人がこのあと僕が乗る鈍行に乗り換えるのだろうと肝を冷やしたが、7割がたは高尾山にでも行くらしく、鈍行ホームへ移った人影はそれほど多くなかった。

 高尾11:29発の小淵沢行き537Mは6両すべてが長椅子。先ほどの甲府行きも6両だったが、あちらは全車ボックスシートだった。同じ車種なのだから、うまく長椅子とボックスを混ぜられないものかと思う。その点、最近の東海道線や東北線、常磐線あたりはきちんと椅子の種類が混ぜてあってよい。
 列車内にトイレがあることを確認して、買った酒をおもむろに開ける。その間に、横の線路を不意に成田エクスプレスが抜けてゆく。臨時列車として富士山にでも行くのだろう。その通過の風圧で電車が揺れ、窓枠に置いていた未開封のウイスキーの水割りが長椅子に転げ落ちる。

 定刻に発車。車内は3割ほど乗っていて、その客層は地元の人とハイカーと観光客がほぼ等分である。小仏トンネルを抜けて相模湖で早速7分停車して特急を先に通す。酒を煽りながら、鈍行の旅とはこうでなくてはと思う。

 上野原で隣の席が空き、近傍に立っていた学生たち5人が、酒を呑む僕の横にも臆することなく座る。どこかに泊まりにいく風であるが、男子が3人、女子2人と、男女比が釣り合ってないとなると、夜はどうするのだろうなどと下らない想像をする。
 そのうちにそんな下世話は消え去り、それよりもなによりも、長椅子で隣に座られると窮屈で、首をひねって外を見ることも、つまみを開けることもできず悶々とする。僕は車端部の5人掛けの長椅子の一番壁際に腰かけていて、その隣には男子2人。都合3人が椅子でおしくらまんじゅうをしているが、見るとすでにドア側には2人分のゆとりがある。彼らがそこに移動してくれれば僕との間隔が取れるはずなのに、あいにく2人は女子との話や居眠りに夢中で席をずらしてくれない。話しているほうはそれでもよいが、男に圧迫されるのは僕の趣味ではない。話しを聞くに、彼らは大月で降りるようなので、30分ほど辛抱する。

 大月で圧迫から解放され、いよいよ首や身体をひねって自由に外を見られるようになる。大月を出ると、線路際にわずかに残雪が見える。初狩、笹子は右にカーブしていて、駅に停まると電車が傾く。両駅のスイッチバック線の跡も一瞥する。これらが現役の頃の中央線に乗ってみたかった。

 笹子トンネルを抜けて甲斐大和。相変わらず好きになれない駅名である。かつての初鹿野のほうがよかった。もとより中央線は駅名に頓着しないようで、勝沼は『ぶどう郷』なる余計な文言を尻にぶら下げられ、日下部は山梨市に、別田は春日居町にされてしまった。言うまでもなく、どれも名前が変わる前のほうが風情があった。

 勝沼の先で酒が回ってきて、石和温泉あたりでひと眠りすると、すでに甲府であった。竜王を過ぎて、韮崎へ向かいつつ坂を登りはじめると、左手には南アルプス、右手には八ヶ岳が見えてくる。両方とも頂きに雪をたたえて凛と立っている。思わずうっとりと眺めてしまう。

 小淵沢で乗り換え。時間があるので元気甲斐という駅弁を買おうと思ったが、ホームの弁当屋は冬季休業なので改札の外に出ないと買えないという。面倒なのであきらめる。
 次の松本行き1541Mは、本来小海線が出る5番線から出ると構内放送で案内される。これはなにも特別なことではないようで、跨線橋の案内板にも14:07発の松本行きは5番ホームから出るので注意しろとある。それに従って跨線橋を渡って5番線へ回る。風が強く、冬季休業の弁当屋の影にいると足の裏から頭の先まで冷える。ホームからは、駅裏の家並みの上に八ヶ岳の頭だけがちょこんと見える。

 寒風に吹かれながら、小海線のように20年も沙汰を欠いている路線はかえって乗りにくく、乗りたくもあるが乗ってしまうのがもったいないなと思う。城端線や小浜線もそうだ。長く寝かせたウイスキーやワインのようなものだ。
 もったいないお化けにとり憑かれているなと思っていると、ここで僕は気がついた。今度の列車は小淵沢の5番から出るということは、小海線の線路をわずかばかり歩むことになる。これは盲点であった。

 小海線のキロポストがどこにあろうと、中央線と小海線との分岐点がどこであろうと、旅客としては小海線の乗り場から列車が出るということは、そこはすでに小海線の線路の上であるということである。20年も遠ざかった路線のさきっぽに、今日図らずして乗ることになってしまうとなるとは!
 やってきた列車に乗り込み、それがホームを離れ、足元からガタゴトと小海線の線路が右へ別れてゆくのを認めるまで、どこか心苦しいものがあった。

 小淵沢を出て、さっきまでこちらと同じ高さだった小海線の線路が見る見るうちに登ってゆき、その高い築堤が大きなとぐろを巻きながら真っ白な八ヶ岳のほうへ向かうのを見届けると、こちらも信濃境への登りにかかる。トンネルをいくつか抜けるが、その多くが複線断面の新しいトンネルだ。これは今まで気がつかなかった。電化か何かの折に、線路を付け替えたに違いない。この経緯について調べてみたくなった。

 信濃境、富士見と乗り降りがある。土曜の午後、地元の人たちがどこかへ出かけるには好適な時間の列車である。すずらんの里は勾配上にあるので、上りホームの待合室の土台はホームと平行になっていない。左手には暖かそうな集落、右は樺やブナの林。中央本線らしい風景だ。
 青柳はすずらんの里から近い。駅舎はコンクリート打ちっぱなしのさみしいもの。

 茅野の手前で八ヶ岳が見えなくなり、代わりに諏訪の盆地に入る。茅野と上諏訪でどっと乗ってくるが、下諏訪は降りるほうが多い。諏訪湖は車窓から遠く、見ていておもしろい風景があるわけではないが、それでも岡谷の手前の高架線からの眺望は白眉だ。諏訪湖の奥に八ヶ岳が横たわってこちらを見下ろしている。岡谷では天竜峡行きが待っていて、こちらの車内も半分が下りる。塩嶺トンネルを出たあたりで眠気を催し、一瞬寝る。

 塩尻では乗り換えに1時間を取った。そばを食うためである。長野県に来たらそばを食わねばならない。それも立ち食いそばがいい。幸い、塩尻駅には立ち食いそばがある。改札の中からでも食えるが、そこだとスペースが狭いのでいったん改札外に出て食う。立ち食いそば屋は待合室の片隅にある。高尾と違って適度に甘辛い汁が、そばだけでなく山菜やなめこにも絡んでうまい。

 そばを食ってもなお50分近くある。僕は駅を出て、旧塩尻駅が建っていた場所を見にいくことにした。昔の塩尻駅は今よりももっと東にあって、名古屋方面から松本へ抜けるには一度塩尻まで入ってスイッチバックをしなければならなかった。昔の塩尻は「⊥」の下辺の右側にあったが、今の塩尻は「人」の字のてっぺんにある。

 駅から10分ほど歩いて、それらしきところまで来てみたが、昔の駅の敷地とおぼしき場所は市の施設と温水プールになっていて、特に駅の痕跡はない。記念碑やモニュメントも見当たらず、駅前通りだった道に建つ旅館のみが駅前の雰囲気を残しているだけだ。だが、今の駅の周辺よりも飲食店や呑み屋はこちらの方が多いようにも見える。

 近くの大きな市立図書館で一休みして駅に戻ると、中津川行き834Mがやってきた。この列車は、JR東日本の電車を使っているのに県境を越えて岐阜県まで入るという珍しい運用の持ち主で、僕らてつおたの間でもその運用の特異性と希少性から有名だ。寝台特急や北陸本線の特急なき今、JR東日本の在来線車両で一番西まで行く運用かもしれない。これに乗ってもいいなと一瞬思ったが、すでにしなのの特急券と指定券を抑えているので今日は断念する。

それにしても塩尻の駅員が発するアナウンスの抑揚は独特だ。おそらくこの駅員だけだろうが、「じゅーろくじー さんぷんはつぅー しなーのーじゅーはちーごー なごーやーゆきーはー ごばーんほーむからぁー」などとやっている。これではまるで講談のようだが愉快でもある。録音しておけばよかった。

 塩尻16:03発のしなの18号名古屋行きは3分ほど遅れてやってきた。どうも中央西線が遅れているらしく、我がしなの18号の相方たるしなの17号長野行きも5分ぐらい遅れてきて、15:55発のあずさ26号新宿行きを7分近く待たせている。
 4号車4番A、進行方向左側の席があてがわれる。左側では木曽川が見えない。指定席はそれほど混んでいない。1列おきぐらいに1名座っているかどうかぐらいというのに、時にマルスは残酷なことをする。
 2月になって、日が延びたと思う。それは山あいの地を訪ねるとことさらに思われる。木曽路もそのひとつだ。しなのは3分遅れのまま松本盆地を後にして、木曽のワインディングを攻め始めた。

 時はすでに16時過ぎ、車内では沈みゆく太陽と窓際の客との我慢比べが始まっている。あと1か月早ければ、あたりはすでに闇だろう。木曽のような谷ならなおさらだ。
 だが、2月も半ばを過ぎれば、日もそう容易くは沈まなくなる。線路は谷に忠実に沿って敷かれている。谷が西に開けば線路も西へ、逆もその然り。
 谷と線路が向きを変えるたびに、定点を占する夕日がこちらをいろいろな角度から容赦なく射る。そのたびにシャッというカーテンを閉じる音がするが、その次の瞬間に夕日は意地悪をするがごとく、違う角度からその強烈な光線を射ってくる。

 寝覚の床でも見てみるかと思ったが、寝覚の床とは逆の窓側をあてがわれたのと、肝心のその反対側の窓も逆光線の下にあったため、結局よくわからないまま過ぎてしまった。雪と杉と枯草が混然とする山々の合間を、振り子特急は時折夕焼けを浴びながら黙々と、だが機敏に進む。

 木曽にはあまり雪は降らないものだと、僕は今まで勝手に思っていた。だが、それは現実とはだいぶ違う認識だったらしい。沿線の集落にもそれなりに雪があるし、木々の間から見える山肌は白い。

 南木曽に停まった際、ホームにある時刻表をちらと見やると、10時と11時台は列車が来ないらしい。そんな駅だが、数人が乗り降りする。中津川の手前で、ずっと木曽川の左岸を走っていた線路が突然右岸に渡る場所がある。右岸ということは、ようやく僕が座る左側の窓から川を望むことができる。深緑の流れをのぞき込むと、木曽川が刻んだ谷は鍵の手に大きく蛇行していて、その水面には夕雲がふわふわと反射している。

 一瞬で僕と木曽川との邂逅は終わり、線路は再び橋を渡って左岸に戻る。その先は中津川。ここからはもう木曽谷ではなく、夕日を遮るものもない。紅く染まった西の空に向かって、しなのはひたすらに山を下っていく。


 列車の揺れにまどろむうちに多治見や千種を抜け、18:05、しなの18号は3分遅れを挽回し、ほぼ定刻に名古屋着。
 神田から約8時間。やはり中央本線は名古屋までつながっていた。僕は満足して次の目的地へ向かった。

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