2018年1月5日金曜日

10年前の旅の話など(2008年1月 北陸)

 今さら10年前の旅を思い起こそうとしても、さすがに記憶が乏しく筆が止まる。
 ただ覚えているのは、その日は悪友T氏と、横浜は関内界隈の焼肉屋で会食した際にひどく酩酊し、酒の力で高揚した僕らはその足で関内駅のみどりの窓口に行って、当夜の寝台特急「北陸」の寝台券を買ったことだけである。
 と、書いたところでいろいろと思い出してきたので、少し筆を進めることとする。


 その前に少し余談を。
 僕は周りの人々から、無鉄砲かつ無計画に旅をしているように思われている節があるが、旅をするには4つの要素が必要だと、僕は思っている。
 ひとつは時間。これは言うまでもない。どこに行くにも、何をするにも、自由に費消しうる、ある程度まとまった時間が必要だ。長期休暇の学生などは、付与されたレポートさえ片付けてしまえばいくらでも時間があるが、社会人はそうはいかない。独身ならまだしも、家庭がある人は特にそうだ。家族との時間が必要になるので、そう易々と自由な時間は手に入らないだろう。

 2つ目は金銭。これも言を俟たない。きっぷを買うにも、宿に泊まるにも、駅弁や酒を買うにも、あるいは旅先で少しいかがわしい街に迷い込むにも、金がなければ始まらない。これは学生と社会人の立場が逆転する。旅好きの学生は、旅費捻出のため、せっかくの自由をいささか費やしてアルバイトなどの小遣い稼ぎに刻苦することになるが、社会人は思いつきで新幹線のきっぷなどを買ってしまうことができる。悪知恵を働かせれば、出張ついでにささやかな小旅行なども可能であろう。

 3つ目はきっかけ。どこかに行きたいとか、きれいな景色を見たいとか、誰かに会いたいとか、この列車に乗ってみたいとか、旅の原動力になるものがきっかけだ。これが芽生えるタイミングや要因は人それぞれだと思う。ただし、僕の場合は常にこれが心に満ちているので、いささか御しがたく、いろいろと制約の多い日常生活の中で苦悶することが多い。

 そして最後に何よりも旅に必要なのは勢いだと、僕は思う。
 車輪がついたものは、静止から起動までに最も力が必要になるが、動いてしまえば車はいとも簡単に転がるものだ。要は旅を思いついてから腰を上げるまでの気力と体力がいかに充実しているかである。
 これはいくら旅をしたいと思っていても、日常生活に疲弊しているとなかなか湧いてこないもので、せっかくの三連休だというのにそのすべてを体力と気力の回復に充ててしまい、結果的に家に引きこもることに終始したりする。
 さらに悪いことに、家に3日3晩引きこもっても体力気力はなかなか全快せず、これはむしろ無理やりにでも旅をした方が回復に与したのではないかと、連休明けの仕事に向かう途上で悔恨したりもする。

 個人的に思う旅の4要素を挙げてみたが、この4要素すべてが一度に重なる必要はない。時間やお金がなければ近場を旅すればいい。きっかけがなければ旅の雑誌なりインターネット、あるいは昔の旅の写真などを見ればよく、ひとりできっかけがつかめないのであれば、家族や友人を誘って旅の計画を練るのもよいと思う。

 最後の勢いは、先の3要素がそろえばおのずと増してくるが、個人的には酒が一番の即効性かつ最高の増速要素のように思われる。酩酊して正気を失った旅屑ほどの怖いもの知らずは他にないが、この時の北陸旅はまさにその怖いもの知らずの所産であったように思われる。

 話を戻す。
 先に述べたように、いかんせん既に10年も前の話であるので、記憶の多くは欠落している。半ば推測、あるいは想像に近い文章になることをご容赦願いたい。時刻は当時の時刻表や写真のタイムスタンプを参考に、なるべく正確を期したつもりである。

 2008年1月4日(金)22:45。
 酔いどれと化した僕とT氏は、関内駅で購入したきっぷ一式を握りしめて、上野駅の13番線を目指してその構内通路をふらついていた。
 お目当ては23:03発の寝台特急「北陸」、金沢行きである。列車はすでにホームにその青い車体を横付けしていて、冷暖房用の電気を作るディーゼル発電機の音が、耳をつんざくようなけたたましさであたりを支配している。この音を聴くたびに、よくもまあこんなうるさい代物を、人が寝る乗り物の下にぶら下げたものだと思う。
 金沢までは所要7時間半と、さして長くはないが、それでもれっきとした夜汽車の旅である。胸をときめかせながら車両に乗り込み、僕たちは指定の寝台にもぐりこむ。4人相部屋のB寝台である。
 「北陸」には「ソロ」と呼ばれる個室車両も1両ついているが、年末年始休暇の真っただ中であるこの日は、さすがに完売であった。もっとも、僕らの寝台には、結局僕ら以外に誰も乗ってこなかったように記憶している。

 定刻23:03、列車はかすかな衝動とともに上野駅を離れた。
 上野駅はJRの在来線だけで1番線から17番線まで乗り場がある。そのうちの1から4番線は山手線と京浜東北線の電車が専有しているが、5から17番線は上野駅の北側で自由に行き来できるように線路が組まれている。その複雑な構成の分岐器を導かれるように渡ったり跨いだりしながら所定の線路に入るまで、「北陸」はガタゴトとゆっくり進む。
 左に鶯谷の駅を見るころにはその足元の喧騒も静まり、列車はぐんぐん速度を上げる。僕は列車が上野駅を出るときのこの一連の所作が大好きだ。
 列車の窓から後方を見ると、線路がいい塩梅にカーブしているので、自分が乗っている列車の最後尾が見えるのもよい。分岐器のガタゴトと長い列車の後ろを見やるのは、上野を発つ旅のプロローグにふさわしい儀式だと思う。

 赤羽を過ぎ、荒川の鉄橋を渡り、大宮で客を拾うと、列車はひたすらに北を目指した。
 T氏はどうだったかわからないが、僕は寝台車の中でよく寝たように思う。
 ふと目が覚めると、列車は上野を出発した時とは逆方向に走っている。「北陸」は、途中の長岡駅で進行方向が変わるのだった。外は暗闇でよくわからないが、雪が積もっているのだけはわかる。貨物列車とはたまにすれ違うが、人を乗せた電車はまだ姿を現さない。おそらくあれは糸魚川から富山の間のどこかだったのだと思うが、今ではそれを確かめるすべもない。まだ早いので、少し寝る。
 次に目を覚ますと、列車はもう金沢に着く直前だったように思う。時間にして朝6時。焼肉を食って、しこたま酒を呑んだにもかかわらず、突発の夜行旅を前にして歯を磨く道具を持たず、そのまま就寝してしまった僕らの口はおそらく臭かったことだろう。

 朝食に何を食べたのか、あるいは食べていないのか、そもそも金沢駅に着いて何をしたのか、もはやさっぱり記憶がないのだが、次の写真を見ると「富山県営渡船 堀岡発着場」となっている。
 北陸本線で高岡まで戻り、そこから万葉線に乗り換えて終点の越ノ潟まで行ったのは覚えているので、写真と記憶のつじつまは合う。越ノ潟の駅の近くには同じ県営渡船の「越ノ潟発着場」があり、堀岡発着場はその対岸にある。つまりこの時は渡し舟を往復したのだと思うが、まさかこの6年後にT氏とここにまた来ることになろうとは、当時は思いもしなかった。そして、万葉線が僕の私鉄・公営・第三セクター線完乗の地になることも、先に同じであった。

 帰りは万葉線で中伏木という駅まで戻った。その近くに「如意の渡し」という渡し舟があるので、これに乗って対岸に向かおうとT氏は言う。
 この「如意の渡し」は『義経記(ぎけいき)』という、源義経の生涯を描いた物語にも出てくる由緒ある渡し舟である。そしてこの渡し舟は、義経記を元に創作された能の「安宅」にも出てくるというが、僕は残念ながら能を語る術を持たないため、深くは触れずにおく。歌舞伎の「勧進帳」も然りというが、能に同じく歌舞伎も僕は語る術がない。
 義経記自体も創作であると言われるが、能や歌舞伎の舞台にもなったという古式ゆかしい歴史のいわれがある場所を訪れるのは旅の醍醐味である。この如意の渡しをはじめ、この界隈には倶利伽羅峠や雨晴海岸など源平ゆかりの地が多い。

 如意の渡しを降りた後、僕はT氏と富山駅で合流することだけを約して、別々に行動したように思う。T氏がどこに行ったのかはわからないが、僕は氷見線の伏木駅近くにあり、越中一向一揆にも関わったという勝興寺という古刹の、とても大きな伽藍を早足に見学したのち、伏木から列車で北上し、その雨晴の海岸に行った。
 幼い頃、僕が父に連れられて初めて「旅」というものを知ったのは、この雨晴海岸だった。その時この海岸で掬った砂の感触は一生忘れないだろう。ここは僕にとって旅の原点であるが、さすがに1月の日本海は風が冷たく、僕は砂を掬うこともなく、海を一瞥するなり足早に退散したのだった。
 思い返すと、この時の僕は失恋をしたばかりで、すごく気分が沈んでいたようにも思う。はたから見たら、失恋に悲嘆して自死の場所を探すため、冬の海辺をさ迷う自殺志願者に見えたかもしれない。

 氷見線と北陸本線を辿って僕は富山に戻った。富山地方鉄道に乗りたいと思ったからである。富山地方鉄道は、JR富山駅に隣接する電鉄富山駅を起点に、宇奈月温泉や立山連峰に向かう99.8kmの路線網を有する地方私鉄の雄である。地方私鉄が好きな僕であったが、そのあまりにも広大な路線網のすべてを乗りつくすには至らず、乗車したことがあるのは電鉄富山から寺田という駅のまでのわずか9.8kmのみであった。
 この日は、不二越線と上滝線と立山線に乗ろうと思い立った。この富山地方鉄道の路線は、口で説明するには少々複雑な形をしているので詳細は省くが、不二越線と上滝線はつながっており、なおかつ終点の岩峅寺(いわくらじ)で立山線に乗り換えられるようになっている。往路は不二越線・上滝線を経由して岩峅寺に至って立山に行き、帰路は立山線で電鉄富山に戻るという、立山での滞在時間含め往復約3時間の旅である。

 電鉄富山駅から、京阪のお下がりの電車に揺られて約15分。
 海沿いはそもそも雪が少なかったし、富山駅界隈は除雪が行われているので特に気にならなかったが、不二越・上滝線の車窓はすでに雪だらけである。人と車が通るところのみ、かろうじて道路や地面が見えている。このような状態で果たして終点の立山はどうなっているのかと、雪に覆われた終点の岩峅寺で電車を見ながら訝しんでいると、はたして終点の立山駅は雪に埋もれていた。
 立山駅は、夏こそは立山黒部アルペンルートの富山側のターミナルとして栄えるところであるが、冬季は訪れる人も少ないと見えて、駅前は人の踏み跡すら見当たらない。駅の近くにはスキー場がいくつかあるものの、スキー客は車で直接スキー場やホテルへ乗り付けてしまうらしく、それらしき人は見かけなかった。冬枯れの山々に雪が積もり、人っ子ひとりいない駅前は寂寥そのものである。

 駅前にしばらく佇んだあと、何を思ったか、僕は試しに駅前の雪だまりに足を突っ込んで、ラッセル車よろしく1歩だけ踏み込んでみた。
 それでよせばよいものを、勢いに任せてさらに10歩ほど踏み込んでみた。たちまち雪は靴を貫通して、靴下まで容赦なく浸潤する。きれいな雪だまりは無残に崩されてぐしゃぐしゃになっている。
 自分で為したこととはいえ、さすがにうんざりするので我ながら馬鹿馬鹿しい。こんな足元が冷えた状態で風に吹かれてはたまったものではないので、そそくさと駅に戻って冷えと戦いつつ、しばし休む。

 その構内の、また森閑としたことといったらない。この世の中に静かな駅ベストテンというものがあるのならば、間違いなくその上位に入るのではないかというぐらい静まり返っている。それも空気が凛と冷えているからであろう、不気味な静かさではなく森閑そのものなのである。
 おそらく夏になれば、立山黒部の頂きを目指す人々、あるいはそこから「下界」へ降りてきた人々が群れをなすであろう大広間にも、今は誰もいない。その壁にかかる立山黒部アルペンルートの案内図と、図中に記された未乗のトロリーバスとケーブルカーの計4本を前にして僕の心は踊るが、これは冬季運休なので、この時期は乗りたくても乗れない路線である。
 僕のような鉄道路線完乗を是とするてつおたにとって、未乗路線とは否が応でも食指が動いてしまうものであるが、動いていないものは仕方がないので、これも改めて訪れることにしようと、その時は思った。
 しかし、よもやここですらも、6年の歳月を越えてT氏と一緒に乗ることになるとは、この時思いもしなかった。

 T氏との約束の時間が近づいてきた。
 僕は電鉄富山行きの電車の人となって、富山駅を目指した。半分凍りかけた川などを横目に、電車は雪に線路の継ぎ目の音を吸われてタタンタタンと歌いながら、気持ちよさそうに山を下る。その揺れの心地よさと、暖房の効能が相まって、僕はついうとうとしてしまう。足元から尻にかけてがまんべんなくぬくい。
 1時間ほど居眠りしただろうか、僕が目を覚ますと、電車は坂を下っていたさっきまでの勢いが嘘のようにゆっくりと富山の市街地を走り、やがて電鉄富山駅へとその身を横付けした。同時に、北陸の旅が終わるのを僕に知らせるかのように、あれほどびしょびしょだった靴下はすっかり乾いていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿