2019年1月3日木曜日

中部縦断(2015年8月 長野~静岡~愛知~三重)

 2015年8月11日、火曜日。
 そそくさと身支度と朝食をすませ、塩尻駅に向かう。
 今日はこの塩尻から三重県の津まで縦断することになっている。
 その長い旅程に、思わず武者震いする。


 駅は朝の通勤通学時間帯に入りつつあった。ホームで見ていると、たくさんの勤め人たちが諏訪やら松本行きの列車に乗り込んでいく。学生の姿は少ない。学校はとっくに夏休みだが、世間では今日まで平日である。
 普通列車の他に、おはようライナーなる長野まで行く快速もあり、見ていて飽きない。勤め人は上り下りともに、ほぼ均等に乗っていく。塩尻は松本のベッドタウンであるとともに、諏訪のベッドタウンでもあるのだろう。


 駅で列車を眺めているうちに、これから僕が乗る中央本線辰野行きが、1番線にしずしずとやってきた。せわしない通勤通学の流動とは無縁と見えて、2両編成の車内は僕を入れて4人だけである。
 定刻7時22分、発車のベルもなく列車は静かに動き出す。
 僕が今から乗ろうとしている区間は、中央本線の旧線、通称『大八(だいはち)廻り』と呼ばれる。
 そもそも明治時代に中央本線を建設するとき、木曽谷を通すべきか、あるいは伊那谷を通すべきかで大きな論争が起こった。結果として木曽谷を通すことになったのだが、伊那谷はそれを黙って見過ごさず、少しでも自らのエリアに鉄道を近づけようとした結果、中央本線は本来、岡谷から塩尻までまっすぐ行くところを、伊那谷の入り口である辰野まで遠回りさせられることになった。
 このときに力を振るったのが伊藤大八という政治家なので、大八廻りのあだ名がある。もっとも、岡谷と塩尻の間には峠があり、明治時代の技術では長大トンネルは掘れなかったともいわれている。岡谷と塩尻を短絡する塩嶺トンネルが完成したのは1983年のことであった。以後、大八廻りは旧線という扱いを受けている。
 僕がかつて大八廻りを通った時は、アルプスという夜行急行に揺られていたため、車窓を見ることは叶わなかった。しかし今回は朝である。腰を据えてじっくり外を見ようと思う。


 塩尻を出て、塩嶺トンネルへ向かう本線と別れると、線路はぶどう畑を割って、山裾にまとわりつくようにひたすら左へと巻いてゆく。そのままひとつトンネルを抜けると、列車は少し開けた谷に出る。
 左右に集落が見えてきて、同時に車窓が朝もやに包まれる。まさに「絵に描いたような」と形容したくなる高原の朝である。
 線路の西側の家並みは、既に日差しをさんさんと浴びて、朗々と新しい一日の始まりを謳歌しているが、山裾となる東側にある集落は、まだ朝日の逆光線の下にあって、乱反射する朝もやの下にうっすらと家並みの影を見せているだけである。住むなら西側の集落がよいなと思う。東側の山裾に住んだのでは、一生かかっても朝日を浴びることは叶わない。
 小野、信濃川島と過ぎ、7時42分辰野着。
 ここは伊那谷の入り口であり、今日はここから飯田線という路線をひたすら南下することになっているが、ここから飯田線に乗ってしまうと大八廻りの辰野から岡谷の間が乗れないのと、飯田線の席が確保できなかった場合に悲惨なことになるので、一度上諏訪まで抜ける。座れないことがなぜ悲惨なのかはあとで述べる。



 辰野は中央本線と飯田線が合する拠点であるはずだが、例の塩嶺トンネルが完成して以来、通う特急や急行もなくなり、すっかり凋落してしまったようである。2階建ての立派な駅に人影はなく、構内にもたくさんの側線が敷かれているが、そのほとんどは錆びついている。次の列車まで40分ほどある。風は吹くものの、陽が高くなるにつれ、じりじりと暑くなってくる。
 避暑に適した喫茶店も見当たらず、仕方なく駅でぼんやり過ごしていると、突然、駅舎からじゃばじゃばと盛んに水を流す音が聞こえてきた。僕はすぐに風呂だと合点した。明け番の駅員がひとっ風呂浴びているのだろう。利用客の少ない駅はどんどん無人化されているが、この辰野駅にはまだ駅員がいる。
 鉄道は人が動かしているのだと、湯が流れる音を聞きながら改めて思う。


 上諏訪8時42分着。
 電車を降りると、何のことはない、乗ってきた電車がそのまま豊橋へ折り返すだけであった。再び車内に乗り込んで、適当な座席にリュックとペットボトル飲料を置いて自席を確保しておく。
 上諏訪は、ホームに温泉が引かれていることで有名な駅である。昔は浴場があって、列車を降りたらそのままひとっ風呂などという芸当もできたが、今は足湯に改められている。
 足湯には目もくれず、僕は駅弁売り場を探した。しかし、その駅弁がどこにも見当たらない。上諏訪には確か駅弁があったはずだと首をひねるが、ないものはない。ここで食料を仕入れないと、夕方まで何も食べられなくなる。
 夕方まで何も食べられなくなる―――。
 この一言が、これから僕が乗ろうとする飯田線の特徴をよく表している。

 飯田線は全長195.7km、起点である豊橋から終点の辰野まで94もの駅を有する長大な路線である。今回は途中乗り換えのない直通列車を選んだが、時刻表の示す限りでは、途中駅での長時間停車もなさそうである。
 よって、先んじて食料と座席を確保しなければ、豊橋までの約7時間を空腹と立席の二重苦にさいなまれながら過ごさなければならなくなる。それはご免蒙りたいので、僕はこうしていったん豊橋行き列車の始発となる上諏訪までやってきたのである。
 結局、駅弁は見つけられなかった。僕はやむを得ず売店で、いなりずしと適当なパンや菓子類、それに飲料を買い求める。酒もそそられたが、あれは一度飲み始めると際限なく飲みたくなる悪魔の飲み物なので、「補給線」の寸断が予想される今日は控えた。



 遅れている中央本線の接続を待ったため、上諏訪は定刻より3分遅れの9時22分発。
 豊橋着は16時16分の予定なので、都合7時間弱のロングライドである。3両編成の車内は30人ほどで、思ったよりも空いている。椅子の向きを自由に変えられる車両なので、独り身は前を向き、グループ客は椅子を向かい合わせにしてと、皆、思い思いに座っている。

 一つ目の下諏訪で、野球帽にリュック姿の男の子が、我が列車の写真を撮っているのを見かける。そういえば自分もああだったなと、何だか昔の自分を見ているようでこっ恥ずかしくなるが、今撮った写真は必ず将来君の財産になるぞと心の中で語りかける。僕はいまだに「なぜ子どもの頃、あの電車の写真を撮っておかなかったんだ」と悔やむことが多々ある。車両の尻ばかりを追いかけるのは卒業したつもりだが、ときたまそういう思いに駆られることがある。
 余談はこれぐらいにして、岡谷の先で再び大八廻りの線路に入ると、早速、諏訪湖の出口である釜口水門を抜けたばかりの天竜川と寄り添う。今日はこれから5時間ほど、天竜川とは付かず離れずの関係を続けることになる。


 先ほど通った辰野を9時59分に発車。朝に乗ってきた塩尻への線路が右に分かれていくのを見ると、いよいよ飯田線の旅の始まりである。
 乗り合わせた男の子が、ドア上の案内図で辰野から豊橋までの駅を数えて「すごい!94駅もある!」などと父親らしき男性に報告している。まさか、あの若さで豊橋まで乗り通す「同志」だろうかと気になる。
 先に述べたのと、彼の言う通り、飯田線には94もの駅がある。全長195.7kmの路線に94もの駅がひしめいているということは、単純に割り算をすると約2kmおきに駅が設けられていることになる。地方路線の駅間距離としては破格の短さであるが、これは飯田線が、国鉄の建設した路線ではなく、4つの私鉄が合併して成立したことに由来している。関東や関西の私鉄を見ればよくわかるが、民間資本で建設された鉄道は、沿線の集落ごとに駅を設けたので、概して駅間距離が短い。


 飯田線の場合、その多くが無人駅である。時折、愛想のよい車掌が車内を巡回し、途中から乗ってきた客に切符を売って歩き、降りる客から切符を集めている。地方路線の多くがワンマン化されてしまった今、このような光景を見ることも稀になってきたので、ついうれしく思う。


 それにしても、伊那谷は「谷」という名に反してとても広く、そして明るい。
 僕は地形学の知識に乏しいが、車窓から瞥見する限りでは、実のところ伊那谷は盆地ないしは河岸段丘なのではないかと思う。
 木曽山脈、いわゆる中央アルプスの山々から天竜川のわき腹へ突き刺さるように流れ出てくる川がいくつもあり、それらが刻む深い谷と遭遇するたびに、飯田線はいったん上流へ線路を曲げ、谷の浅いところを選んで鉄橋で越える。この支流が刻んだ谷のことを地形学では「田切」と呼び、天竜川のわき腹に刺さる川は「○田切川」などと名付けられていたり、飯田線にはそのまま「田切」という名の駅もある。

 そんなことを繰り返しているので、地図で伊那谷界隈の飯田線を見ると、のたうち回る大蛇のごとき線形を呈している。同じことを繰り返すのと、急カーブやこう配のせいであまり速度が出せないので、路線の長さに比して車窓は単調になりがちである。河岸段丘の上に広がる町並みや田畑がずっと続く。たまに渡る鉄橋やこまめに設置された駅を眺めるぐらいしか変化がない。快晴であれば中央アルプスの稜線が遠望できるのであるが、この時期は夏雲の中に隠されてしまい、あいにくその全貌を視界にとらえることはできない。


 路線名の由来である飯田に12時17分着。
 せっかくなので降りてみたいと思うが、停車時間わずか2分ではホームに降りることすらできない。もとより関東地方から飯田に来るだけであれば、のろい飯田線を使うよりも、新宿から高速バスを利用した方が早いし本数も多い。辰野駅が凋落した原因の一つに、飯田から新宿や松本に行く急行が、高速バスとの競争に負けて廃止になり、辰野を通る列車が減ったからだともいわれる。主因ではなかろうが、なるほど一理あるとは思う。
 用を足しに席を立った際に一瞥すると、先ほど駅数を報告していた少年は、飯田線の単調さと長大さに明らかに辟易しているようで、その目から輝きが消え失せていた。



 飯田線を一気通貫に乗り通すには、それ相応の覚悟と準備がいる。


 天竜峡12時47分着。
 ここでいよいよ伊那谷と別れ、列車はその駅名のごとく天竜川が刻んだ峡谷に歩みを進める。これまでずっと右岸を走ってきた線路が、迫りくる山々にたまりかねて鉄橋で左岸へ渡ると、進行方向右側の席を占めている僕の眼下に、濃緑の流れが大きく広がった。
 ついつい前の日に磐越西線から見た阿賀野川と比較してしまうが、天竜川のほうが水量が豊富なように思える。が、これは数多くのダムが水をせき止めているからそう見えるのである。


 天竜川はもともと「暴れ天竜」や「荒玉河」という別名があるぐらいの御しがたい氾濫河川であった。木曽山脈と赤石山脈が織りなす急峻な谷は、その水の勢いを増大させたり、逆にせき止めたりして、下流域はもとより上流域でもたびたび水害が発生した。その水害の記録は、古く奈良時代にまでさかのぼるという。
 天竜川と人との関係は、そのまま治水の歴史でもある。時代が下ると、その激流はダムでの水力発電に生かされることになるが、飯田線もまたその歴史に巻き込まれた当事者の一人である。


 長野県から静岡県に入ると、小和田、続いて大嵐(おおぞれ)という、普通ではまず読めない名前の駅がある。これらを過ぎると、飯田線は天竜川と縁を切るように左にクイと曲がって全長約5kmもある大原トンネルに入り、ひとつ東を流れる水窪(みさくぼ)川の穿った谷に逃げる。本来であれば天竜川沿いを辿っていくところであり、実際、かつてはそのようになっていた。
 天竜川沿いの鉄路を諦めざるを得なくした張本人とは、佐久間ダムである。仔細は省くが、佐久間ダムが生み出した佐久間湖の水底には、駅が3つと、いくつかのトンネルが沈んでいて、渇水時にはトンネルが亡霊のように湖底から現れるという。

 水窪川沿い、向市場という駅の先に第6水窪川橋梁なる鉄橋がある。
 これは橋なのに川の反対側に渡らない不思議な構造をしている。これは線路付け替えの際に障壁となる山へ一度トンネルを掘ったものの、このあたりの地層が不安定であるがゆえにそのトンネルが破壊されてしまった結果、トンネルを放棄し山そのものを迂回するために造られた橋である。地図で見ると、水窪川の左岸から川の上に躍り出て、右岸の河川敷までは来るものの、そのまま何かためらうようにして再び左岸に線路が戻っていて、事情を何も知らなければ滑稽に見える。
 第6水窪川橋梁は、その特徴から「渡らずの橋」とか「S字鉄橋」などと呼ばれている。それだけでも珍しいのに、せっかく掘ったトンネルが地層のせいで破壊されてしまうことにも自然の力の大きさを感じる。滑稽で片付けて良い話ではない。このあたりは地質学でいうところの「中央構造線」の直上である。


 線路は水窪川の谷をしばらく南下すると、再び長いトンネルで南西に向かって天竜川の谷に戻るが、ここで飯田線と天竜川の付き合いは終わる。
 トンネルを出てすぐ、右手に佐久間ダムに蓄えられた膨大な水を電力に変える佐久間発電所を見ると、まもなく中部天竜に着く。ここで列車は9分ほど停まる。この列車では初めての長時間停車である。


 9時過ぎに上諏訪を出て、時計を見れば既に14時8分。5時間の長旅ですっかり硬くなった身体をほぐすため、三角屋根を頂く白い駅舎をくぐり、外に出てみる。
 駅の外に出ても360度ほぼ全周を山に囲まれている。しかし、天竜峡からここまでずっと狭隘な谷に閉じ込められていたので、少し開けただけなのに妙に広く感じる。
 それにしても暑い。じりじりと焼かれる感じがする。ここは谷間というよりは盆地である。

 そういえば、中部天竜駅は「ちゅうぶてんりゅう」駅と読むが、かつては「なかっぺてんりゅう」という不思議な読みを与えられていた時代があるという。そのまま残っていたらこれはこれで何だか愛嬌があるように思えるが、そもそもこの辺りには中部と書いて「なかべ」と読む集落があったり、中部大橋と書いて「なかっぺおおはし」と読む橋もある。「なかっぺ」は洒落でもなんでもなく、まじめな名前だったのだろう。


 東栄(とうえい)という駅で、大声で三河弁を話すおじさん二人組が乗ってきて、突然にぎやかになる。僕は社会人になってまもなく、少しだけ豊橋で仕事をしたことがあったので、聞きなじみのある言葉であった。
 そのどこか怒っているような三河弁の言葉の節々を聞きながら、そうかもう愛知県なのかと思いを巡らす間もなく、その二人の声が大きいので嫌でも話の内容が聞こえてくる。
 どうやら学校の卒業アルバムを見ているらしい。盆休みなので地元に帰ってきた同級生たちと同窓会でもやるのだろうか、もしくは既に一献やってご機嫌なのか、などと思っていると、車内の蛍光灯が突然消え、列車は急停止した。
 しばらくして、車掌が「この先で倒木との知らせが入りました」などと放送する。例のおじさんたちも最初はあたふたしていたが、やがて状況を飲み込んだようで静かになった。非常ブレーキの際に自動的にパンタグラフが下りたらしく、冷房も途絶えた。最近の車両は窓が開かないのでこれは参ったと思っていたが、幸い停まった場所が日陰の川沿いなので思ったよりも車内の気温は上がらない。


 それよりも天竜川に代わって車窓の友となった川のきれいで涼しげなこと。適度に間伐された杉林の向こうに水面がきらきら光っている。あそこに納涼床でも設えて、よく冷えた瓶ビールとネギたっぷりの冷やっこでも供されれば最高だなと、いささかヨコシマな考えが思い浮かぶが、今は残念ながら停電した列車の中である。
 地図で見るとその名を板敷川というらしいが、別名があって宇連川ともいう。宇連と書いて「うれ」と読む。飯田線はこの辺りから豊橋まで、ほぼこの板敷川と、この先の長篠のあたりでそれに合する豊川に沿って、山を下って東三河平野に躍り出ることになる。
 しばらくすると送電が再開され、室内灯や冷房が息を吹き返す。「安全確認が取れましたが、徐行にて発車します」との車掌の放送があって、列車は軽く汽笛を鳴らしてそろりと動き始めた。停まっている間、板敷川の清流のお陰で退屈せずに済んだのは幸いだった。

 本長篠15時29分着。15分ほど遅れているが、急ぐ旅ではない。
 ここまで来たら飯田線の見どころも終わりで、東三河地域の何の変哲もない住宅地を淡々と走っていく。
 駅に着くごとに、これから夜の豊橋に遊びに行くと思われる老若男女が乗ってきて、だんだん車内が窮屈になってくるし、対向の電車も格段に増えてきた。


 豊川で日本車輛製造の引き込み線と名鉄豊川線を一瞥し、小坂井の先で名鉄名古屋本線との共用区間に入り、豊川放水路を一跨ぎすると豊橋に16時27分着。

 予定より10分ほど遅れたが、予定より10分ほど長く飯田線に乗れたと思えば得したようなものだ。
 そういえば、と思って、先ほど飯田線の余りの長さに目の輝きを失っていた少年の姿を探したが、どこで降りたのか、その姿はなかった。彼が豊橋までずっと乗っていたら、この10分の遅れは耐えがたいものになっただろう。

 豊橋から東海道本線の新快速で名古屋に向かう。
 朝から7時間も山の中をのたくたと走っていた身からすると、その速さに目が回りそうになる。飯田線のそれと同じ姿かたちした新快速列車は、豊橋を出ると「ほの国」東三河を袈裟懸けにするように猛然と走り抜け、蒲郡で遠くに海を臨んだと思う間もなく、岡崎、安城、刈谷でさっと客を拾って、たったの1時間で名古屋に着いてしまった。これが飯田線と同じ車両だとはとても思えない。
 豊橋から名古屋までは約70kmの距離があり、飯田線の速度なら3時間は要すると思われるが、新快速はたった1時間で走ってしまうのである。もっとも、天下の大幹線たる東海道本線を飯田線のような速さで走られたらたまったものではないが。


 名古屋駅のホームで冷たいきしめんをたぐり、18時7分発の関西本線亀山行きに乗り込む。
 4両ロングシートの車内は席がほぼ埋まり、ドアの周辺を中心に立ち客もいる。僕もこの旅で初めての立ち席となった。
 それにしても盆休み前とはいえ、大都市のターミナル駅を18時台に出発する列車の乗車率とは思えない。ドア周りもところどころ空いているし、つり革は選び放題である。時間帯を鑑みると、もっと混んでいるものだと思っていたが拍子抜けしてしまった。やはり三重方面は近鉄が優勢なのだろう。
 走り出した列車の窓から外を見ていると、単線区間であるが、交換設備を目いっぱい使って列車を走らせている感じがする。南紀や伊勢からの特急と快速を含めて、行き交う列車はそれなりに多い。沿線、特に弥冨あたりまでは大きな団地やマンションもあり、需要は大いにありそうだが、それらの威容と乗り降りする客数がどうにも吊り合わない。
 関西本線は、国鉄時代からも含め、あまりにも長い間近鉄の独断を許しすぎたゆえに、その苦境を跳ね返すには至っていない。以前、四日市の駅を訪ねた際、JRの駅前は閑散としていたが、近鉄四日市の駅前は百貨店やホテルが林立する、いわゆる繁華街となっていた。当然、今もそれは変わらない。

 近鉄が陽とするならば、関西本線は今もなお陰であり続けているように思う。それは現に列車に乗っている人数や、桑名や四日市での乗降客数を比較すればわかる。単線の関西本線に比べ、複線の近鉄は列車の本数も、スピードも勝って当然である。例えば名古屋から四日市まで、関西本線は50分を要するが、近鉄の急行なら40分である。ゆえに多くの客は近鉄を志向する。
 だが、物事は陰と陽があるからこそ美しいのだと思う。
 列車は木曽三川の鉄橋にかかる。左に並んだ近鉄電車の橋を見ると、ちょうど反対側から名古屋行きの電車がやってきて、自動車のクラクションのような短い警笛を鳴らして鉄橋を渡ってくる。だが、我が関西本線の列車は昔ながらの汽笛を甲高く、そして朗々と鳴らして鉄橋にかかる。その哀調ある汽笛が、海抜ゼロメートル地帯の向こうにそびえる養老山地に沈んでいく真っ赤な夕焼けの光景と実に合っていて、僕は思わず息を呑んだ。
 近鉄「電車」には悪いけれども、こういう旅情を醸し出すことは、「列車」にしかできない芸当である。

 桑名の次の朝日で意外なほどにたくさん降りて、ようやく席にありつく。地図を見るとこの辺りは近鉄と少し離れているので、陰である関西本線にも勝機があるのだろう。
 そして四日市とその次の河原田という駅で、僕の乗った車両の客はほとんど降りてしまった。残りは僕を入れて5名である。ロングシートの車内は、大都会からの列車とは思えないほど閑散としている。


 鈴鹿山脈の向こう側に夕日が埋もれていく。河芸、加佐登、井田川と乗り降りもなく停まって19時23分、定刻通り亀山着。

 4両編成の列車が停まるには過分に長いホームが、かつてこの駅が名古屋からの線路を関西方面と伊勢方面へと分岐させる一大拠点であったことを偲ばせる。
 だが、今は名古屋方面から伊勢に行くには、伊勢鉄道という短絡線を通るのが主流になっていて、この亀山を通って伊勢に向かう定期列車はない。もとより亀山をまたいで名古屋方面と関西もしくは伊勢方面を直通する列車そのものの設定がない。
 かつて殷賑を極めたが、遠回りになるがゆえに短絡線にその栄華を奪われた駅―――。そこまで考えて、亀山は、ちょうど今朝通ってきた辰野と同じような運命を背負っていることに気づいた。
 旅程を組んだ時には正直意図していなかったが、その事実に気づいた時、僕の胸には何とも言えない哀愁がこみ上げてくるのを感じた。僕は過去の栄華だとか繁栄だとか、そういう歴史方面になると、どうも情にもろくなるきらいがある。


 だが、余韻に浸っている暇はない。亀山駅の長大なホームに、見慣れぬ銀色のディーゼルカーが2両でぽつんと停まっているのが見える。これが亀山19時27分発の紀勢本線多気行きであり、今日の最終走者である。乗り換え時間は4分しかなく、これを逃すと1時間も待たされる。
 見慣れないのも当然で、これはこの8月1日から走り始めたという、できたてほやほやの新型車両であるという。車内はまだ新車の匂いがきつくて気持ち悪くなるが、それよりも何よりも、車内が都会の電車と同じロングシートなのには驚いた。
 伊勢や南紀という観光地を走る車両にもロングシートを入れるとは、JRはまた思い切ったことをしたものだと妙に感心してしまった。無論、観光客は鈍行など目もくれず特急や快速に乗るのだし、普通列車は短距離利用が多いとなればこの判断は首肯できる。
 万が一、今後僕がロングライドする際にこれに当たっても、腰や首をひねって外を見ながらワンカップを呑ればよい。そういえば、昔の相模線や八高線はディーゼルカーでもこれと同じようなロングシートだったので、その意味では先祖返りともいえるし、何だか懐かしさすら感じた。


 今後の予行練習を兼ねて、僕は車両の一番隅の3人席に、行儀が悪いことを承知の上で足を投げ出して乗った。適当に腰かけていたら、ディーゼルカーらしからぬ強烈な加速で身体が持っていかれそうになり、あわてて壁に背を当てる。新型ということもあり走りは抜群によい。これなら近鉄電車にも太刀打ちできそうである。
 JRは面白い車を造ったなと思う間もなく、19時44分、今日の宿泊地である津に到着した。


 明日は紀伊半島を半周して、この旅の目的地である大阪を目指す。

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