2018年8月19日日曜日

旅の憶えを残してみる(2015年8月 福島~新潟~長野)

 2015年8月10日月曜日。7時20分に会津若松駅前のホテルを辞す。
 すでに日差しは強烈で、今日も暑くなりそうな予感がする。


 今日は会津若松8時14分発の磐越西線227D、新津行き鈍行で旅を始める。
 磐越西線は福島県の郡山駅から会津若松、喜多方と通って、新潟県の新津駅までを結ぶ175.6kmの路線であるが、現在、直通する列車はない。途中の喜多方が電化と非電化の境になっていて、喜多方から新津の間はディーゼルカーしか走れないのと、会津若松が運行上の拠点となっているためである。郡山からの列車はほとんどが会津若松止まりとなっており、新津行きの列車は会津若松始発が多い。


 改札を通ると、7時34分発の磐越西線225Dがエンジンをがらがらと鳴らして停まっていたが、これは途中の喜多方までしかいかないので見送る。
 しばらくして、喜多方行きがいたホームに、僕が乗る新津行き227Dが3両でやってきた。とりあえず一番前の車両に陣取るが、冷房の効きが悪く、にわかに汗ばむ。
 定刻通りにエンジンを轟かせて会津若松を離れた列車は、緑の田んぼが一面に広がる会津盆地を僕に見せつつ喜多方駅に入る。ここで少し客を乗せると、列車はやがて盆地のふちを回り込むようにエンジンをぐわんぐわんと唸らせながら坂を登って、阿賀川の刻む谷にとりつく。
 磐越西線の喜多方から新津までの間に乗ると、はたして進行方向どちらの席を取るべきか悩むぐらい、列車は何度も鉄橋を渡り右岸と左岸を行ったり来たりする。谷が狭隘であるがゆえ、線路を敷ける場所が限られているからである。阿賀川が刻む谷がなければ、磐越西線は敷設できなかったかもしれない。




 途中、列車は野沢という駅で23分停まる。この機会に僕は冷房の効かない車両を捨てて、2両目の車に移った。冷房の効きは先ほどより多少ましに思えるので、ここに新たな陣を築いたのはよいが、今度は窓に白い水垢がこびりついていて汚い。これについては、窓を少し開けるという物理的解決をもって決着した。窓を開けてしまうとクーラーからの冷気は逃げるが、旅人にとっては冷気より車窓が優先される。結果、車両を変えた意味はあまりなかった。
 阿賀川は新潟県に入ると阿賀野川に名前を変える。半開きにした窓から、相変わらずその姿が見えるが、ダムが多いせいか、流れというよりは大きな湖に見える。川面も山も濃緑に染まる中、線路と並走している国道の赤いトラスがひとり気を吐く。



 津川で、幼い女の子を連れた母親が乗ってきたなと思う間もなく、女の子が母親に対して一生懸命にお喋りを開始した。女とは、かような齢からよく喋るようにできているのだなと妙に感心していると、「向こうの電車は新しいけどこっちは古いね!」などと大きな声でいうものだから、こちらまでびっくりする。見ると、その津川ですれ違った列車は銀色の新型だった。彼女や、その近傍に座る子供たちが被っていた色とりどりの夏帽子が、壁のフックで列車の揺れに合わせてふわふわ揺れている。夏休みらしい光景だと思う。
 馬下(まおろし)の手前で、阿賀野川は谷から平野に出て急にその川幅を広げるが、線路は線路で、谷を抜けてもはや阿賀野川のお世話になる必要はないという風に川面から離れて、さっきの山ばかりの風景から一転、広大な田んぼの中を淡々と行く。蒲原鉄道の廃線跡を注意深く探しながら五泉を過ぎると、列車は定刻11時33分、新津に着いた。


 新津からは少々回りくどい経路を通る。
 まずは新津12時12分発の羽越本線に乗って新発田へ行き、そこから12時59分発の白新線で新潟13時37分着。ついで信越本線で新津に舞い戻りつつ、そのまま東三条まで行って弥彦線。弥彦線で吉田へ抜けて越後線で柏崎に回り、再度信越本線に乗り換えて直江津に向かうというルートである。文章で理解いただくのがはなはだ困難なルートであるが、この旅のテーマは「遠回り」であるので、かようなルートを採った。上の地図で経路がごちゃごちゃと円を描いている部分がそれである。
 回りくどい経路の割には車窓は田んぼだけなのと、午前中にさんざん見たり渡った阿賀野川を2回も渡るというルートであるがゆえに車内で退屈していると、突然、持参していた社用携帯が鳴る。こんな時に鳴る仕事の電話、嫌な予感がして仕方がない。


 新潟駅で、僕は折り返しの電話を入れた。
 そもそも僕の仕事であるが、おおざっぱに言うと、僕は機械を売る営業の仕事をしている。
 そして、電話の主である客の言うことには、「休み前に納入された新品の出来が気に入らないので作り直せ。休み明けまで待てないので、この夏季休暇の間に何とかしろ」というのがその趣旨であった。無論、会社は休みで、僕ひとりでは何の対応もできない。
 僕はその内容にげんなりして、空返事でただただ客の言うことを聞いていた。
 休みを返上するということは、営業である以上、ある程度は仕方がないと思っている。休みであっても、客が困っていればどうにか対応しなければならないし、会社から給料をもらっている以上は、それを何とかするのは当たり前のことだ。だが、電話を聞く限り、機械が動かないわけでもなく、危急の話ではない。半分嫌がらせのようにも思える。
 それ以上に、僕の生きがいである旅までをも、たかが仕事ごときに軽々しく蹂躙されるのは、僕にはとてもではないが耐えがたい。僕にとって旅とは、何人も立ち入らせたくない、不可侵の領域である。
 ―ばかばかしい。
 電話を切ると同時に、僕の心の糸も切れたような気がした。

 むなしい気分を引きずったまま新潟14時5分発の信越本線長岡行きに乗り込み、東三条14時57分着。息つく間もなくここで15時6分の弥彦線に乗り換える。乗ってみると、この列車もやたらと窓が汚く、外が霞んで見える。新潟の列車はどうも窓が汚い。雪や融雪剤のせいかとも思うがよくわからない。
 弥彦線は弥彦山への参拝路線であるが、今回は途中の吉田で乗り換える。霞む窓から燕三条の巨大な新幹線駅を仰ぎ見て、吉田15時25分着。



 ここで15時43分発の越後線柏崎行きに乗り換える。2両編成のかわいらしい列車が僕を乗せて、緑豊かな田んぼや丘陵の中をガタゴトと走る。小気味よいレールの音を聴きながら居眠りをしているうちに、16時56分柏崎に着いた。3分乗り換えで信越本線直江津行きの快速があるので急ぐ。
 この柏崎から直江津の間は、日本でも屈指の夕焼けがきれいな区間である。今年の5月に来たときは最高の夕焼けを堪能できた。今は盛夏ゆえに、日没にはまだ早いが、それでも日本海に沈まんとする太陽ぐらい見られるであろうと思っていると、はたして太陽は薄雲の中から水面に光の帯を投げかけつつ、徐々にその高度を下げていく途中であった。あと1時間遅ければ、黄昏の糸を引く真っ赤な太陽を拝めたかもしれないが、あいにく今回はそこまで時間を費やす余裕がない。


 直江津17時29分着。17時51分発のえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン妙高高原行き鈍行を待つ。えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインは、この3月の北陸新幹線金沢開業と引き換えにJRから切り離された、いわゆる「並行在来線」であり、元は信越本線だった。
 乗ってきた快速もそのまま妙高はねうまラインの新井という駅まで行くが、快速に乗っていっても結局同じ鈍行に乗ることになるので直江津で乗り換えとする。
 それに、僕は直江津の駅が好きだ。ここは北陸と信州と越後の接点である。様々な方面に向かう列車が一堂に会し、旅の始まりと終わりが交錯するその構内には旅情が満ち溢れている。
 少しの時間でいいから直江津の空気と旅情を胸に吸い込みたい。

 しかし、そんな直江津の旅情を打ち毀すかのように、これから乗る路線の名前のひどさといったらない。「えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン」とは、どういう了見を持った人間が名付けたのであろうか。僕がもし沿線住民であったら、履歴書の最寄り駅の欄に書くのも恥ずかしい路線名だと思うし、そもそも欄からはみ出てしまうのではといらぬ心配をする。信越本線なら4文字で済む。ひどい路線名に少しく不機嫌になった僕は、駅の売店で買った缶ビールを呑んで無聊を晴らす。


 やってきた妙高高原行きの電車はJRのお下がりだった。お下がりであるが、ステンレスの車体を持つ新しい車両である。
 ロングシートの都会的な電車は、都会とは正反対なだだっ広い田んぼの中を走っては、各駅で客を下ろしていく。車内が空いた頃、僕は運転席の後ろに行って前を見る。途中の二本木という駅にスイッチバックがあるので、それを見てみようと思ったのだ。
 雪除けの細長い屋根に隠されるように伸びた線路は、屋根の先で途絶えている。運転士は、電車をその屋根の下に入れると、窓から顔を出して後ろを見やりつつ、器用に手元のハンドルを操作して電車をそろりそろりと後退させる。そのまま電車はガタゴトと分岐器を渡って静かにホームに着く。
 蒸気機関車の時代はこうしないと坂を登れなかったが、現代の電車ならこのような手間は不要である。それにも関わらずスイッチバックが残っているのは、駅構内の配線の都合で、これを取り除くことができないからである。二本木を通過する列車はスイッチバックを通らなくてよい形になっている。

 この二本木のスイッチバックを行ったり来たりすると、僕は信越本線に乗りに来たんだという感慨を覚えるのであるが、先に述べた通り、すでにここは信越本線ではない。
 信越本線は、文字通り信州と越後を結ぶ路線だが、北陸新幹線の開業と引き換えに、3つの会社、6つの路線に寸断されてしまった。
 東京側から順に、高崎から横川がJR信越本線、軽井沢から篠ノ井がしなの鉄道線、篠ノ井から長野が再びJR信越本線、長野から妙高高原がしなの鉄道北しなの線、妙高高原から直江津がこの長い名前、そして直江津から新潟がみたびJR信越本線となっている。それだけでも由々しきことなのに、JR線最急こう配で著名だった横川・軽井沢間の碓氷峠は、補助機関車をつけたり外したりする手間が嫌われたためか、北陸新幹線が長野まで出来たときに廃止された。
 碓氷峠を例に挙げるまでもなく、信越本線はその経路ゆえに、常に急こう配と戦う宿命を背負っていた。配置される電車や機関車は山に強い特別な車両が多く、かつては二本木以外にもいくつかの駅にスイッチバックがあった。
 妙高はねうまラインなる珍妙な名前を背負わされた区間に残された最後のスイッチバックに、ようやく信越本線らしい風情を見つけることができたのは皮肉なものである。


 妙高高原18時52分着。13分の接続で、しなの鉄道北しなの線の長野行きがある。
 この駅までは新潟県で、駅から目と鼻の先に長野県との県境がある。このあたりは標高500メートルぐらいで、8月といえども夜は涼しく、ホームに降り立つと空気がひんやりしていて心地よい。頬をなでる冷涼な風に、いよいよ長野だなとうれしくなる。
 今度もJRのお下がりの電車であるが、こちらは古く、昔ながらのボックスシートが残っている。だが、車内は外より暑い。クーラーは動いているが、外気温との差があまりないのでうまく働いていないようだ。古い電車のクーラーは、酷暑には強いが微妙な暑さや湿気は苦手なのではと思う。これなら窓を開けたほうが涼しい。
 電車は暗闇に沈む信越国境の山中を、善光寺平に向かって軽快に下っていく。この電車は19時46分に長野に着く。そこから今宵の宿がある塩尻に行くには、長野19時50分発の小淵沢行きに乗ればいいのだが、はたして4分で乗り換えができるか、僕には自信がなかった。駆け込み乗車などもってのほかである。長野駅の構造は知っているので何とかなると思うが、よしんば間に合っても、発車間際に乗っては席はないだろう。そう思って、僕は長野で次の列車までの1時間ほどを休憩に充てることにした。



 休憩といっても、やることはひとつしかない。善光寺口を出て右手すぐのビルに「立ち飲み」の文字を見つけた僕は、ふらふらとその階段を登っていった。
 お品書きに「えご」とある。聞いたことがないので頼んでみると、緑色のようかんのようなものが出てきた。聞けば「えご草」という海藻を固めたもので、海のない長野で海藻をおいしく食べるための工夫だそうである。わさび醤油で頂くと、ほんのり磯の香りがする。これに合わせるべきはビールではなく日本酒だと思った僕は、1杯目に諏訪の酒である真澄、2杯目に信州中野の勢正宗を頼んでみた。どちらもよく冷えていて、えごとともにするすると喉に入ってきてうまい。鯖の水煮なども頼んで日本酒を呑っていると、思わず根っこがはえてしまう。危うく電車に間に合わなくなるところであった。


 長野20時53分発の450Mは、篠ノ井線から中央線に入り甲府まで行く長距離鈍行で、僕にとってはこの列車が今日の最終走者になる。これで塩尻まで行けば今日の予定は終わりだ。車内では、盆休みの帰省客や通勤客など、さまざまな客が三々五々、ロングシートに腰かけている。
 この電車の道中にもスイッチバックがある。日本三大車窓のひとつとして有名な姨捨(おばすて)である。日本三大車窓とは、この姨捨と、九州は肥薩線の矢岳付近、そしてこれはもう乗れないが、北海道の根室本線にあった旧狩勝峠付近を指す。狩勝峠は今はトンネルになってしまっている。
 日本三大車窓とはいうものの、そもそも景色に優劣をつけることには、僕はあまり賛意を感じない。それぞれの路線にはそれぞれ景色の見せ場があり、個性があると思っている。僕はそのひとつひとつを丹念に、そして何度も愛でたいがゆえに旅をしている。今までで一番きれいだと思った景色はどこかと聞かれても、僕には答えられない。


 電車はその姨捨に差し掛かった。
 先ほどの二本木のように、電車は線路を前後に行ったり来たりしながらホームに入る。ここは篠ノ井線随一の車窓の見せ場であるとともに、ちょうど対向の特急を待ち合わせるというので、僕はホームに降りてしばらく夜景を眺めた。
 眼下には善光寺平の街の灯りが広がるが、ホームでそれを熱心に眺めているのは僕を含めて数名だけで、ほかの客は車内で静かに本を読んだり音楽を聴いたりしながら発車を待っている。長野駅からずっと僕のはす向かいに座っている、通勤客と思わしき紳士などは夜景に目もくれず瞑目したままだ。
 特急が眼下の通過線を轟々と通過していくと、こちらもそろりと歩み出す。木々の間からちらちらと夜景が見えるが、そのうちに電車は全長2,656メートルの冠着トンネルに入り、善光寺平に別れを告げる。トンネルを抜けると車窓はもう闇ばかりで、見るものは何もない。


 冠着で、先ほどまで瞑目していた件の紳士が、すっと立ち上がって駅舎へと消えていった。
 あの紳士は、おそらく毎日通勤で姨捨のスイッチバックを行ったり来たりしているのだろう。うらやましいと思う一方で、僕がもし紳士の立場であったらと思うと、はたしてあの姨捨の景色に特別な感慨を覚えるだろうかとも思う。景色はそう簡単に変わるものではなく、毎日見ていれば飽きがくる。それにスイッチバックなど、むやみやたらと時間がかかるだけで、日頃この電車を使っている人からすれば、単にいとわしいものでしかないだろう。
 自分の日常に、他人の非日常が入り込むのは、正直言って愉快なことではない。ラッシュの山手線に大きな旅行かばんなどを抱えて、大きな声でガヤガヤと乗りこんでくるグループなどを見ると、わざわざこんな混んでいる電車に大きな荷物を持ち込んで何が楽しいんだと思うこともある。
 しかし、今は僕がその立場にある。旅をしている僕は、現地の人からしたら日常への闖入者でしかない。周りに迷惑や不快の念を抱かせないために、せめて慎ましやかに過ごさねばならぬと思う。幸いにして僕はひとり旅ばかりしているので、美しい風景や思いがけぬ出来事に瞠目することはあれども、声を大にして誰かと大騒ぎをすることはない。


 その代わりに、ひとり旅では、旅で見たものや聞いたものをその場で誰かに伝えることもできない。自分が旅で見たものは自分の中にしか残らないが、僕は旅ばかりをしているので、そこで得られる膨大な情報のすべてを記憶しておくことはまず不可能である。今までは、情報記憶をなかば放棄して、未乗路線に乗ることを第一に考えてきたので、せっかく乗車の機会を得たのに、車窓や車内の記憶があいまいな路線が実に多い。
 電車に乗るだけの馬鹿げた旅は、かの鶴見線大川での完乗達成をもって卒業とし、これからは旅の中で見たものを何かしらの形できちんと残しておきたい。最近はずっとそんなことばかりを考えていて、この旅の前に、安物であるがノートパソコンを新調して、鞄に忍ばせてきたのだった。


 列車はいつの間にか5分遅れていて、塩尻に22時32分に着いた。
 引き続き甲府へと向かう列車を見送ってから宿に入った僕は、これまで鞄の中の重しでしかなかったノートパソコンを引っ張り出すと、昨日、今日の間に見たり感じたこと、そして起きたことを、とりとめもなく書きなぐった。特に今日は、朝から晩まで、あまりにも書き残しておくべき事柄が多発した。
 これが書いてみると存外楽しい。朝からの出来事の箇条書きを眺めながら、これはもっと早くやっておくべきだったと思った。僕の旅の記憶が記録になった、初めての瞬間であった。

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