2019年2月17日日曜日

伊勢を抜けて紀伊を巡って(2015年8月 三重~和歌山~大阪)

 ホテルで西側の部屋をあてがわれたので、ホテルの東側に面するエレベータホールに出た瞬間、強烈な朝の陽ざしに目を射られて一瞬だけ怯む。エレベータを待つ間に窓から下を覗くと、昇り始めた太陽が、津の街のあらゆる部位に陰影を生み出している。今日は2015年8月12日水曜日、快晴。

 6時過ぎにホテルをチェックアウトして、津駅のホームで眠い目をこすりながら待っていると、6時26分発の紀勢本線多気行き鈍行がやってきた。昨日、亀山から世話になった新型の銀色2両である。
 車内は乗客の姿も少なく閑散としている。空いた座席に適当に腰かけるが、昨日味わった鋭い加速を思い出して、改めて椅子にしっかり座りなおす。案の定、加速は鋭い。これなら近鉄電車とも互角に渡り合えるなと、津からしばらく並走する近鉄電車の線路を見てみるが、残念ながら競争相手はいなかった。

 安濃川の先で近鉄電車の線路と別れ、列車は阿漕(あこぎ)という面白い名前の駅に停まる。
 ここは、あくどいとか図々しいという意味の「あこぎ」の語源となった土地である。もともと阿漕とは、この界隈の沿岸部のことを指していた。伊勢神宮に供える魚を獲る神聖な漁場であるが、そこでたびたび禁を犯して漁を行った漁師がいたため、「阿漕」=しつこい、図々しいという意味になったという。地名が形容詞になった珍しい例であろう。

 続いて列車は六軒という駅を通る。
 ここは「六軒事故」と呼ばれる列車衝突事故の現場である。今から約60年前の1956年10月15日、この駅を誤って通過した列車が分岐器を越えて脱線転覆し、そこに対向列車が突っ込んだことで、修学旅行の高校生を含む42名が亡くなった惨事である。
 事故の原因は脱線した列車の機関士の信号見落としと言われるが、この事故がきっかけとなって、信号冒進を防ぐ警報装置、ひいてはのちに自動列車停止装置(ATS)と呼ばれる装置の普及が進むことになったとも言われる。駅を出てすぐの踏切の傍ら、右側の車窓にその慰霊碑をちらりと見る。
 阿漕、六軒。両方とも地味な駅であるが、その見た目によらず興味深い由来や歴史を具備しているものだと感心する。

 右から名松線の単線がやってくるのを迎えると松阪。
 名松線とも10年以上ご無沙汰しており、久しぶりに乗りたいと思うが、末端の家城駅から伊勢奥津駅の間が2009年10月の台風で被災してバス代行となっているので、またの機会にする。復旧工事が完了するまでの我慢である。

 定刻6時57分、多気着。
 ここで7時5分発の新宮行きに乗り換えることになるが、その1分前に鳥羽へと向かう参宮線の2両の鈍行がエンジンをガラガラと震わせて駅を出ていく。この駅は紀勢本線と参宮線を分かつ要衝であるが、その構内では、列車のエンジン音と遠くでさかんに鳴く蝉の声以外に聞こえるものはない。この旅も今日で4日目になるが、遠い土地の見知らぬ駅のホームに独りで立っていると、「旅をしている」という実感が改めて湧いてきて、心なしかうれしくなる。



 気を取り直して、これから僕が乗る列車を見やる。これまた2両であるが、今度は銀色ではなく、白地に緑とオレンジの帯を締めた旧型車両であった。
 聞くところによると、この旧型たちは、先に僕が乗ってきた銀色に追いやられ、まもなく消える運命にあるという。彼女たちにとって、今が最後の夏になるようだ。僕は、夏の陽光を浴びながら発車を待つ彼女たちの横顔を見ながら、彼女たちが見るに耐えない鉄くずになる前に乗れた幸運に感謝した。


 青く古びたボックスシートが並ぶ車内にまばらに客を乗せて、旧型は定刻通り発車。
 新型と違って、重たそうに動き始めるのがどこか愛おしい。どっかりとボックスシートに身を沈め、足を前の座席に投げ出して外を眺める至福の時間。僕は列車の座席配置に拘泥しないが、それでも昔ながらのボックスシートはよいものだと思う。
 多気駅を出ると、参宮線は本線よろしくまっすぐ伸びていくが、我が紀勢本線は多気駅を起点とするローカル線のように右にカーブしていく。よくある本線と支線の関係を考えると、分岐の主従が逆ではと思うが、まさにその通りで、戦時中までは沿線に伊勢神宮を有する参宮線こそが本線であった。その頃の紀勢本線はというと、紀伊半島の途中までしか開通していない中途半端な「支線」に過ぎなかった。


 直進する参宮線から「分岐」すると、列車は紀伊半島と志摩半島の境目あたりをのんびりと走りはじめる。そのうちに広々とした伊勢平野の南端を抜けて、あたりは山に囲まれるようになる。進むごとにだんだんと谷が狭くなっていくものの、その谷の造り主である宮川に沿って、線路は並走する国道42号と仲良く谷を遡っていく。
 右手に「優秀標語 早ね 早おき 朝ごはん」という、当たり前のことを確実に遂行することを推奨する看板を見ながら三瀬谷に着く。この辺りは林業と茶業が盛んだという。確かに車窓からも整然と立ち並ぶ杉林や茶畑が見られる。


 三瀬谷の先、宮川の支流である大内山川に沿って山を登っていく。その谷の最深部、梅ケ谷の先に荷坂峠があり、これを抜けると紀伊の国である。列車はヘアピンの急カーブや、いくつものトンネルが続く25パーミルの下り坂を転がるように降りていく。
 そういえば若い頃、この峠を今とは逆の方向から辿った時、列車の運転席の後ろで見ていたら、エンジン全開なのに速度計の針が40km/hでぴったり止まっていたのを思い出す。延々と唸り続けていたエンジンの音が途切れて梅ケ谷にたどり着いたことを今でも覚えていて、何だか昨日のように思われるが、あれからもう17年も経っている。


 峠の下にある紀伊長島に8時30分着。先ほどまでの峠道が嘘のように周囲が急に開け、太陽がまぶしい。ここは熊野灘に面した海の街である。
 紀伊長島から南側は、例の旅以来、17年ぶりの踏破である。こういう路線や区間に乗ると、長らく沙汰を欠いた非礼を詫びる気持ちになりつつも、久しぶりに乗るからには、思う存分車窓を眺めてやろうと意気も上がる。何より17年前は若気の至りで、ただ目の前の列車に乗ることだけに必死になっていて、外などろくすっぽ見ていなかった。


 紀伊長島を出ると、早速、左手に熊野灘が見えてくる。
 一昨日の信越本線以来、久しぶりに眺める海である。このあたりは半島と入江が複雑に入り組んだリアス式海岸で、小さな島々も見える。しかしながら、急峻な山がそのまま海に沈みこむリアス式海岸は、線路を敷くにはあまりに険しい地勢である。よって、列車は悠長に海沿いを走ることができない。三野瀬の先で、線路はいったん海沿いを離れて内陸に入ってしまう。相賀という駅で、高校生が8人乗ってきて車内がにぎやかになるが、次の尾鷲で降りていく。


 尾鷲は漁業と林業の街である。とても雨が多いところだと聞くが、今日はさんさんと降り注ぐ日差しに照らされていて明るい。東は海に面し、あとの三方は山に囲まれているという土地柄、海の幸も山の幸もうまいものが多いのではないかと思う。尾鷲の後背地たる大台ケ原に降った雨は、界隈の豊かな森林を通るうちに滋味を増して尾鷲湾に流れ込むはずである。その水で育った魚や山菜や野菜がまずいはずがない。そして漁師町には必ずうまい酒がある。一度でいいから宿を取って、ゆっくりと飲み歩いてみたい街だが、今日は素通りである。


 左手に尾鷲火力発電所やカキを養殖している筏の群れを見ながら、列車は海沿いを走る。だが、この先もリアス式海岸が続くため、やがてトンネルばかりが続くようになる。地図では線路は海沿いを走っているが、そのほとんどはトンネルである。トンネルを出ると湾の奥にある集落に駅があって、出発するとまたトンネルに入るということを繰り返す。三木里(みきさと)、九鬼、額田、二木島(にぎしま)、新鹿(あたしか)、波田須(はだす)、大泊と過ぎていくが、海はこれらの駅に停まった時にちらりと見えるだけである。このあたりは紀勢本線の中でも最も遅く、1959年に開業した区間であるが、この地勢の厳しさを見ているとそれもむべなるかなと思う。

 熊野市9時50分着。リアス式海岸はここで途絶え、ここからは七里御浜と呼ばれる砂浜が20kmあまり続く。だが、線路は少し内陸に敷かれており、あまりその姿を見ることはできない。防風林と思しき木々も、まるで嫌がらせのように車窓を阻むので、単調な車窓に倦んでくる。
 見るものがないので駅に着くたびにきょろきょろしていると、各駅で高校生ぐらいの女の子たちがパラパラと乗ってくることに気がついた。どうも同じ遊び仲間らしく、駅ごとにその勢力を増してにぎやかになっていく。なじみの顔を見つけると「いたいた」という反応をしているところを見ると、どうやら列車を待ち合わせ場所にしているようにも見える。それにしてもその顔立ちの整った子の多いこと。三重は美人が多いと思う。車窓を眺めてやろうというさっきまでの意気はどこへやら、しまいには車内ばかり見ていた。




 熊野川を渡り、新宮城跡の下をトンネルで抜け、10時21分新宮着。
 ここはもう和歌山県である。
 次の列車まで1時間ほど時間があるので、街をぶらついてみる。
 駅前の観光案内所を覗いてみると、入口に「瀞(どろ)峡八景」とあって、その字面から一瞬どきっとする。瀞峡は両岸に高さ50メートル余りの断崖や巨岩が続く峻厳な渓谷で、それを遊覧船から見上げるツアーがあるという。訪ねるにはここからバスで1時間ほどかかる。名前に惹かれるが、あいにく探訪に時間を費やす余裕がない。




 駅を背に歩き出すと、そう遠くないところに、立派な中華風の門が建っている。扁額には「徐福公園」とある。
 門の中は小さな公園になっている。その由来を読むに、徐福とは古代中国は秦の人であり、その主たる始皇帝から「東方の島にある不老不死の薬を探せ」との命を受け、中国からはるかな船路の末にこの紀州にたどり着いてその薬を見つけたものの、秦に帰ることなくこの地に帰化し、農業や漁業の技術を地元の人たちに教えたのちに亡くなったのだという。
 園内を探索すると、なるほど墓石や不老不死の薬となる天台烏薬の木がある。「不老の池」と名付けられた池もあって、その中から7本の石柱が生えている。石柱を見ると、「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」と掘られている。これは徐福が連れてきた7人の重臣たちの品性を刻んだもので、これを触るとその人徳が得られるという。僕のような下衆が触ったところでその功徳が得られるとは思わないが、せっかくなので触っておく。足元では涼しげに鯉が泳いでいるが、彼らが浸かっている水も天台烏薬の木から滴る不老長寿の水だという。これを人間が飲んだらどうなるのだろうか。

 新宮11時15分発の紀伊田辺行き鈍行は、くたびれた感じの青い2両編成であった。これで6つ先の紀伊勝浦まで行って散策がてら昼食とする。
 ロングシートの車内に乗り込むと、大きな浮き輪を持った子供がいる。ロングシートと浮き輪の組み合わせに、幼い頃の夏休みに乗った小田急江ノ島線を思い出す。
 走り出すと、早速海が見えてくる。新宮までとは違い、今度は海の間近を走るので、ロングシートで腰をひねって外を眺める。古い電車は海沿いをガタゴトと身をゆらしながら30分ほど走り、僕を紀伊勝浦に送り届けてくれた。11時41分着。


 紀伊勝浦駅のある那智勝浦町は、入り江と島に囲まれた天然の良港を持ち、まぐろの水揚げ量では日本でトップクラスを誇る漁業の街である。それとともに、熊野三山のひとつである那智山の入り口でもある。僕は那智山に背を向けて、勝浦漁港のほうに歩き出した。暑いのでアーケード街を歩く。観光客が多く、地元の人はあまりいない。
 まぐろ料理を出す店を何軒か見つけたので、手近な店に入って昼食とする。刺身もうまいが、あぶりが最高にうまい。酒が呑みたくなるが、かき入れ時のランチタイムにたかが1杯の酒のために長居するのは申し訳ないので、食事を済ませるとそそくさと退店した。



 せっかくなので、漁港を歩いてみる。
 もやい綱につながれた漁船たちは、穏やかな波に揺られてぎしぎしと音を立てながら押し合いへし合いをしていて、強烈な日差しが漁港の白いコンクリートの岸壁を隅々まで焼いている。
 その岸壁に停まっているトラックを見ると、わき腹に「和歌山県漁連 勝浦支部」と書いてある。その荷台にはドラム缶が寸分の隙間もなくぎっしりと載っていて、オイルの臭いが鼻を衝く。漁船の燃料かエンジンオイルを運んできた感じである。運転席は無人だが窓が開いている。このトラックの主は、どこか涼しいところで昼休みを過ごしているのだろう。
 このままだと僕も日射病になりそうなので駅に戻る。

 今日はもう新宮14時28分発の特急くろしお28号で大阪へ向かうだけなので、本来であれば新宮に戻って特急に乗るべきであるが、僕は紀伊勝浦12時41分発の串本行きに乗り込んだ。紀伊勝浦の一つ隣、湯川という駅まで行っても20分ほどですぐに戻ってくれば、くろしお28号の新宮発車に間に合うことは、駅に備え付けの時刻表で調べておいた。先ほどと同じような青い2両編成がやってきて、4分ほどで湯川に着く。


 湯川は、近くに温泉があるほかは静かな海辺の駅である。
 ホームから砂浜と入り江が見える。青い電車、青い海、青い空。とにかく青い。遠景の半島と手前の草むらだけが緑である。うつくしい風景を前に、旅の実感が身体を巡り、僕を虜にする。僕が乗ってきた電車は、4分ほど停まって対向の特急とすれ違うと、僕を残して出発していく。ホームには僕以外誰もいなくなった。
 僕はホームでしばらく入り江を眺めていたが、折り返しの新宮行きまで20分ほどあるので、地下道を抜けて駅舎の外に出てみる。コンクリート造りのしっかりした駅舎は、どこか日本離れした感じがする。角ばった設えのそれは、見方によっては台湾の駅のようにも見える。


 駅舎は無機質で古さこそ感じさせるが清掃が行き届いていて感心する。無人駅なので誰かが定期的に清掃に来るのだろう。閉ざされたきっぷ売り場の横に「祝 湯川駅開業八十周年記念」の立て看板があるのを見る限り、駅員はいなくても、鉄道会社や地域に大切にされている駅だということがわかる。湯川駅は1935年7月18日開業である。


 湯川13時7分発で新宮13時34分着。
 新宮は午前中に見て歩いたので、駅前の喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら一休みする。テレビが女子サッカーの澤穂希選手の結婚を報じている。めでたい話題であるが、旅先では忘れてしまいたい俗世間を垣間見ている気分になる。今は旅に集中したい。旅にテレビは不要だと思う。


 駅に戻ると、くろしお28号は6両編成で新宮の駅に身を横たえていた。
 これは国鉄の頃から走っている古い特急電車で、もうすぐお役御免になるという。40年近く走ってきたので、さすがに各所のくたびれが隠せない。トイレには「水を流すと異音がするが故障ではない」などと書いてある。
 ホームの先まで歩いて、電車の顔をまじまじと眺めてみる。僕が幼い頃に慣れ親しみ、そしてあこがれた特急の顔そのものである。太平洋の波頭をモチーフにした絵柄に「くろしお」と書かれたヘッドマークを見ながら、小学生の頃、特急電車の顔写真ばかりが書いてある下敷きを持っていたことを思い出す。電車の姿かたちは同じだが、ヘッドマークの絵柄が違うのが楽しくて、飽きもせずよく眺めていた覚えがある。ホワイトアロー、はつかり、つばさ、ひたち、しなの、白鳥、雷鳥、くろしお、やくも、にちりん…。

 昔の国鉄は全国どこでもみな似たような車両を使っていたので、その列車が何者で、どこへ行くのかを明示する必要があった。列車の素性を伝える方法がヘッドマークであった。一方、最近の車両の造形は、地域や行先によって違うので、ヘッドマークを掲げる必要性が少ない。どちらがよいとか楽しいとかはさておくが、僕はいろいろな特急のヘッドマークを眺めるのが好きだった。


 紀勢本線は、書類上だと和歌山から亀山方面に向かうのが上りになるのだが、このくろしお28号は紀勢本線から阪和線に乗り入れて大阪の都心に向かうので、何だか上り列車だと錯覚してしまう。時刻表もそのあたりを心得ているようで、普通の路線であれば下り→上りの順番に掲載されるのであるが、阪和線・紀勢本線の天王寺から新宮のページだけは上り→下りの順になっている。
 上り列車のような下り列車は、盆休み初日とあって、車内はガラガラである。念のため指定席を取ってあったが杞憂であった。僕のいる車両には僕以外誰も乗っていない。そして僕の前には席がない。
 これは車両の構造の都合で、席が設けられないのだという。このくろしお号に使われる電車には「振り子」が仕込まれていて、カーブでも車体を能動的に傾けてあまりスピードを落とさなくて済むようにできている。その代償として、重たいクーラーを屋根の上ではなく車体の下にぶら下げなくてはならない。その冷気の通り道が、僕の目の前を通っているのである。そのダクトの部分を触ってみると、なるほどひんやりしている。


 定刻14時28分発車。電車は振り子を活用して身を左右に傾けながら、海を左手にすいすい走る。
 先ほど立ち寄った紀伊勝浦で親・子・孫と思わしき3世代が乗ってきたのには驚いた。家族旅行といえばクルマが第一になりやすこのご時世、特急電車で家族旅行とは粋なことである。乗っているのが古い特急であることもあり、思わず昭和かと心の中でつぶやく。

 並走する国道42号の路面に大きく「294」と書かれている。国道42号の起点がどこなのかはわからないが、起点からのキロ程のように思われる。そういえば紀勢本線もこの紀伊勝浦あたりがちょうど亀山から和歌山の中間地点になる。こま切れに乗っているのでつい忘れがちであるが、紀勢本線は全長380kmあまりの長大な路線である。

 串本の先で本州最南端となる潮岬(しおのみさき)をちらと見る。ここも一度訪れたいが、やはり時間がない。瀞峡といい潮岬といい、旅をして自由なはずなのに時間がないとばかり言っていると、自分はいったい何をしているのだろうかと思う。これを考え始めると、根本として旅とは何かという哲学的な問題にも発展しかねない。今はただ再訪を期すほかない。

 田並から見老津までは海岸線を見下ろしながら行く。リアス式海岸であるが、熊野灘のそれと違って入り江の奥行きがないので、線路も海沿いに敷かれている。
 周参見から一度内陸に入り、白浜では前に空の車両をつないで出発する。紀伊田辺から再び海沿いを走るので車窓に期待していると、突然の急停車で興を削がれた。昨日の飯田線といい、今回の旅は急停車が多い。また倒木か何かかと思って車掌のアナウンスを待っていると、踏切でもないところで線路を渡った衆がいるという。
 「楽せずに踏切を渡れ」と思うが、夏休みは人を怠惰にし、慢心させる一面もある。僕も何かをするわけでも、創り出すわけでもなく、ただただ列車に乗るだけの怠惰な夏休みを過ごしている。怠惰にも許されるものと許されざるものはあるが、怠惰は人生で最高の贅沢だと思う。


 紀伊田辺の先で線路は再び海に張り付く。国道42号よりも海側を線路が走る区間もあり、この辺りは紀勢本線の中でも最も海が近い区間に思われる。輝く太陽が水面に光を投げかけ、波頭が砂浜に砕ける。行く手の半島は霞んでいるが、これはまぎれもなく夏の太平洋である。太平洋を列車から眺めるという行為は、簡単そうで実は難しいものである。太平洋側の路線で海が見える路線はいくつか思い浮かぶが、紀勢本線ほどじっくりと太平洋を見せてくれる路線はない。

 それでも終わりはある。御坊の手前で線路はついに海沿いを離れ、内陸に進路を取る。海との別れを名残惜しく思っていると、特急はトンネルに入る。その先は山の中であるが、海の代わりにみかん畑が見えてくる。それも点在するのではなく、山並みをみかんの木がことごとく占拠しているので圧巻の一言に尽きる。この辺りはみかんの産地である。

 和歌山の手前、冷水浦(しみずうら)という風情ある名前の駅の辺りで、最後のサービスのように海をちらりと見せると、特急は和歌山の駅に到着する。僕はこれで紀勢本線をすべて乗ったと思ったが、それは早合点であった。紀勢本線の終点はこの和歌山駅から西に2kmほど行った和歌山市駅にある。そしてこの特急くろしおは和歌山市には行かない。やはり夏休みは人を慢心させるらしい。
 和歌山から阪和線に入ると、もう見るものはない。車窓から大阪の匂いがどんどん強くなっていく。沿線の赤ちょうちんの数を数えるなどしながら過ごしていると、あべのハルカスの巨大な姿が左前に見えてきた。くろしお28号は5分遅れの18時37分、僕のこの旅の目的地である大阪は天王寺駅に滑り込んだ。ようやくこの旅の目的地である大阪に着いたのである。


 埼玉の拙宅から足かけ4日間で、列車に乗ること1594.9km。決して短い旅ではなかった。
 だが、僕はまだ乗り足りない気持ちが残っていた。こんなに乗ってもなお、乗り足りない自分に僕は呆れるだけであった。
 いっそのことなら、いつまでも、どこまでも、誰にも、何にも邪魔をされず、こころゆくまで列車に乗ってみたい。カレンダーの青と赤と長期休暇に縛られ、こま切れのような旅をするのはもう嫌だ。一昨日の社畜電話のような妨害も論外である。
 もっと自由に、重厚で、長大で、奔放な旅がしたい。
 この線路のもっと先へ、もっと遠くへ行きたい。
 常に心のどこかに抱いているが、実行を許されることのない禁断の欲望が、僕の中でいよいよ抑えられないものになってきた。

 この旅から1か月ぐらいして、僕は上司に会社を辞する旨を申し出たのであった。

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