2019年8月18日日曜日

あきらめが時に旅路をひらく(2019年8月 上野~長野~飯山~長岡)

 夏休みになると、どこかへ行きたいと思う。それも僕の悪いクセで、計画を立てるのではなく、その日の朝だとか昼ぐらいに、思いつきでどこかへ行きたくなる。
 だがあいにく、僕の勤め先は世間並みに8月の半ばに夏休みが設定されている。世間と同じであるならば、人混みに揉まれることは覚悟しなければならない。
 この時期は、当然ながら道路も新幹線も飛行機も混雑する。

 車がない僕にとって、道路の混雑状況は他人事であるが、新幹線となると話は違う。
 夏休み真っ最中の新幹線の指定席は、よほど時間帯か運行区間が悪い列車でない限り、思いつきで席など取れるものではない。よしんば取れたとしても、3人掛けの真ん中などという、居住性という点では積極的に座りたいと思わない席が宛がわれたりする。それを避けるために自由席を選択すると、それこそ満席で、通路やデッキで数時間を費やすなどという最低最悪なパターンもある。
 その点、飛行機は座席定員だから、通路やデッキに立たされることもないが、定員以上を乗せることもないので、満席であると言われてしまえば取りつく島もない。飛行機は融通が利かないので、思いつきの旅には使いにくい。それに第一、個人的に飛行機は乗っていて楽しい乗り物だとは思えない。

 かようにどの交通機関も混雑するこの時期であるが、混雑の覚悟はしていても、あえて人混みに飛び込むことはない。人混みなど、こちらから避ければよい。つまり、新幹線を使わず、在来線の鈍行で旅をするのである。新幹線の混雑に比べれば、在来線のそれなどまだ許容できるし、せっかく時間があるのなら、鈍行で旅をしたい。
 新幹線を使わないとなると、旅をできる範囲はおのずと決まってくる。具体的には、あまり遅くならないうちに鈍行でたどり着ける範囲、すなわち仙台、新潟、長野、名古屋あたりが進出限界点となる。

 2019年8月13日、火曜日。
 明け方、上越線に乗っている夢を見ていた。高崎か新前橋から鈍行に乗って、渋川を出る辺りで目が覚めた。渋川と言えば、前途に谷川岳などが見えてきて「さあ上越線だ」と気分が高揚する場面だが、そんな中途半端なところで終わってしまう無粋な夢であった。
 普段しきりに「旅だ旅だ」などと言ってる割りには、やけにつまらない夢を見てしまったので、目が覚めてもしばらく布団の中で憮然としていた。ふがいない夢を見たからには、現実で取り戻すほかない。
 僕は行き当たりばったりの旅をすることにした。布団から出ると身支度を整えて、とりあえず上野駅へと向かう。

 JRの上野駅は高架の1番線から12番線、地上の13番線から16番線、そして新幹線の地下ホームから成り立っている。在来線の旅で上野を発つときは、高架ではなく地上の乗り場、通称「低いホーム」から乗りたいと思う。それは、高いホームは普段使いの「電車」が発着する場所であり、旅立ちにふさわしい「列車」は低いホームから出るべきであるという、僕の勝手な思い込みからである。
 「始発駅」であることを強く主張する、低いホームの行き止まり構造がそう思わせるのかもしれない。

 11時30分発の高崎行きはその低いホームの16番線から出る。僕はこれに乗ろうと思っていたが、その11時30分発になるはずの上り電車が、さいたま新都心駅の辺りで線路に人が入ったとかで遅れている。
 駅の放送で「折り返しとなる電車はただいま24分遅れで走行中です」などと言っている。そのわりにはホームで並んで待っている乗客が多く、それもどんどん増えている。このままだと始発なのに座れない気がするので、あきらめて高いホームの5番線から出る11時45分発の高崎行きに乗ることにする。こちらは拍子抜けするほど空いていた。グリーン車を奮発する。


 見るものもなく、居眠りするうちに電車は埼玉から群馬に入り、高崎13時41分着。
 新潟までの行程を調べたところ、あいにく乗り継ぎが悪く、このまま鈍行で新潟に行くためにはこの高崎で3時間近く待たなければならない。おまけに焼けつくように暑い。こんな酷暑の中で3時間も時間を空費するのは苦痛である。
 僕は、上越線はあきらめることにして、代わりに北陸新幹線で軽井沢に抜け、そこからしなの鉄道に乗って長野を目指すことにした。
 できれば乗りたくなかったと思いつつ、新幹線ホームに向かう。
 その途中、便所に寄ると、洗面所の床をしきりに眺めている人がいる。手を洗いながら「どうされました?」と聞くと「コンタクトが…」との答え。しばらく一緒に探してみるが、こちらもあいにくあまり目がよくないので見つけられない。
 「ありがとうございました。もうあきらめますよ。よく無くすので」と笑顔で言われてしまうと、こちらもこれ以上探す必然性がなくなってしまう。「トイレに落ちたのをまた着けるのもイヤですよね」と答えて僕は立ち去る。
 どうやらこの旅、あきらめることが多くなりそうな気配である。

 プラットホームに立っているだけで衰弱する暑さの中、14時2分発の「あさま613号」が定刻通りやってくる。
 さてこの時期の新幹線、果たして混雑はいかにと、速度を落としつつある新幹線の車内を窓越しに眺めてみるが、思ったほど乗っていない。指定席はだいたい埋まっているが、自由席は空席が結構ある。高崎で降りる人も多い。帰省客は午前中に行ってしまうだろうし、そもそもこの列車は長野止まりである。金沢や富山の客は相手にしない列車であった。
 3列シートの通路側に腰かけること15分、碓氷峠を長いトンネルで抜けて、14時18分軽井沢着。さすが大観光地、軽井沢である。どっと降りる。その流れに僕も身をまかせて改札へ向かう。


 僕は軽井沢が正直苦手だ。
 土地が嫌いなのではなく、猫も杓子も軽井沢を目指すことが気に入らないのである。こういう場所は僕のようなひねくれ者の旅先にはなり得ない。僕は俗世と人混みを抜け出したいがために旅をする。なので、都会の喧騒をそのまま移植したような観光地に金と時間を費やして行く意義が見いだせない。片や観光地側は観光地側で「お前のような独り者のへそ曲がりなど来なくて結構、ここはカップルと家族連れと外国人が来る場所だ」などと言っている気がして、まったく足が向かない。
 半分妄想であるが、軽井沢に僕の求める旅情はないと思う。
 僕は今まで幾度となく旅をしてきた。しかし、人が群れている場所にろくな場所はなかった。

 かような妄想を抱いているので、どうせみんなここで降りてしまって誰も鈍行なんて乗らないだろうとタカをくくっていたら、僕が乗ろうとしている「しなの鉄道線」のきっぷ売り場には行列ができているし、ホームで待っていた14時27分発の小諸行き3両編成も、ボックスシートが埋まって立ち席が出るほどの盛況であった。
 客のほとんどは観光客風で、文字通り老若男女、小さな子どもからおじいさんおばあさん、日本人もいれば外国人もいるが、等しくみな楽しそうにしている。軽井沢はさておき、夏休みはいいなと思う。
 あわよくばボックスシートを独占…などと邪悪なことを考えていた僕は着座をあきらめ、ドア横に立って浅間山などを眺める。1週間ほど前、8月7日に小噴火を起こしたとニュースになっていたので目を凝らして山容を見てみるが、噴煙は夏雲に隠れて見えない。


 そうこうしているうちに1つ目の中軽井沢で、さっそく半分ぐらい降りる。その次の信濃追分でまた半分ぐらい降り、御代田でほとんど降りてしまい車内が閑散とする。中軽井沢はまだしも、信濃追分や御代田のような小さな駅にも観光客がどやどやと降りていくのには目を見張ったが、そもそも駅とは客を送迎するのが仕事であり、誰も乗り降りしないほうがまずいのである。
 中軽井沢は俗にかぶれていて好きになれない駅名であるが、ひるがえって信濃追分や御代田は風情があっていいと思う。それを言うと、中軽井沢も60年ぐらい前までは「沓掛」という名前だったというが、「軽井沢」のブランド力には抗えず併呑されてしまった。
 それに比べて信濃追分の慎ましくて美しいこと。駅名そのものに旅情があるし、駅舎も古そうな木造のものが小さくまとまっていて好感が持てる。これぞ駅だという風格がある。
 御代田はコンクリート造りのこぎれいな駅舎だが、しなの鉄道の前身たる信越本線の開業以来、一度も改名されていないのがよい。ここは御代田町であり、「軽井沢には振り回されないぞ」という毅然とした態度が感じられる。
 車内に乗り合わせた人がそのお連れさんに「御代田は空気がきれいなので精密機器の工場が多いんですよ。あとチョコレートの工場もあります。あ、あれがチョコレート工場」などと教えている。なるほど観光以外にもれっきとした産業があるのかと思う。確かにこれなら軽井沢に迎合する必要は全くない。

 次の平原(ひらはら)は、駅名こそ平凡だが、ここもまたよい駅である。何がよいかというと、駅舎がよい。不要になった貨車を改造した駅舎を使っている。北海道ではよく見る形態だが、本州でこれを見た記憶はない。出自が貨車なのでお世辞にも居住性がよいとは言えず、日々の利用者にとってはたまったものでないが、貨車改造駅舎は駅舎建築史の一形態として、永く残してほしいと願う。


 小諸14時51分着。プラットホームの向かい側に14時58分発の長野行きが停まっているので乗り移る。軽井沢からの観光客はもういない。わずかな帰省客と地元の客を乗せて出発する。
 しなの鉄道線はもともと信越本線というJRの路線であった。それが北陸新幹線、当時は「長野行新幹線」と言ったが―――の開業により、1997年、JRから分離され第三セクターの鉄道として再出発した。
 爾来22年が経ったわけであるが、車窓からはいまだに信越本線であった頃の名残りが見受けられてうれしくなる。
 赤茶けたバラストに敷かれたレールはJRの主要幹線のごとく堂々としているし、まくらぎもコンクリートのしっかりとしたものである。ローカル線と違ってレールが太い。
 小諸からの各駅にも、さきほど信濃追分で見たような古い駅舎がたくさん残っていて、どれもが大事に使われている。それらの構内に横たわるのは、3両編成が停まるには過分に長いホームである。これは昔この路線が東京と長野や北陸を結ぶ大幹線であった証拠で、長い編成の特急や急行が停まるためにプラットホームも長くなっている。
 そのプラットホームをよく見ると、年輪のように何段も石やコンクリートを積み重ねてかさ上げされている。昔の汽車は乗降口が今の電車より低い位置だったので、プラットホームも低くてよかった。そのうちに汽車が電車になり、電車も古いのから新しいのに代替わりするごとに乗降口が高くなった。それに伴ってホームも高くなっていった名残りが、石積みのホームから読み取れる。そこに発着する電車もJRのお古で、かれこれ40年ぐらい使われている。色こそ違えど、見た目や内装はJR時代と何ら変わらない。
 40年選手の古めかしい電車は駅のひとつひとつに停まっていく。灼熱の中、長大なプラットホームに降り立ち、これまた古びた駅舎を抜けていく人影。
 会社の経営形態は第三セクターとなっても、しなの鉄道の多くの情景は、信越本線の頃から変わらないのだろうなと思う。第三セクターというと、地方のローカル線を想起するが、このしなの鉄道線はかつてこの路線が信越本線という大動脈であった矜持を今でも感じさせてくれる。

 長野16時3分着。投宿するにはまだ早いし、もう少し列車に乗りたい。
 長野に着く手前で名古屋行きの特急しなのとすれ違ったので、名古屋に向かうのもいいなと思ったが、折から接近中の台風が気にかかり、西進は自重する。
 駅の発車案内を見ると、16時30分発の飯山線があったので、代わりにこれで越後川口を目指す。
 プラットホームに下りると、既に30人ぐらい待っていてギョっとする。客層は長野での買い物帰りとおぼしき客、大きな荷物を抱えた帰省客、そして僕と同業のてつおたらしき人も見受けられる。
 発車の5分ぐらい前に、2両編成のディーゼルカーが空でやってくる。待っている間に客は100人ぐらいになっていて、僕は前のほうに並んでいたので幸い着席できたが、立っている人も多い。
 車掌が「この列車は越後川口行きです。列車は2両ですが、そのうち1両は途中の戸狩野沢温泉止まりです」と案内放送を始める。肝心の途中止まりの車が2両のうちのどちらなのかを言わない。そもそもホームで列車を待っている間、2両のうち1両が途中止まりになるなどという案内は全くなかった。
 ローカル線ではしばしば途中駅で列車を切り離すことがあるが、目の前の車両がどこまで行くのかという大事なことを、乗ってから客に教えるのは不親切であろう。僕は前の車両に乗っているが、もしこの車両が途中止まりであるなら、後の車へ移動しなければならない。


 豊野の先でしなの鉄道北しなの線と名残を惜しむようにしばらく並走して右に分かれると、線路は千曲川の左岸にとりつく。幸い、僕は進行方向右側の席に座れたので、千曲川の流れをじっくりと眺められる。千曲川は長野から新潟を貫流し、新潟県内では信濃川と名前を変える大河である。
 その千曲川に沿い始めて2つ目の駅である上今井の手前に「パーマ踏切」なる不思議な名前の踏切がある。外を眺めていたら踏切の傍らに「パーマ踏切」と書かれた看板が見えたので、何かの見間違えかと、通過の一瞬で二度見したが、やはり「パーマ踏切」とある。近所にパーマ屋でもあるのだろうか。気になるが今の僕には調べる術がない。
 千曲川はその名の通り、長野県内ではくねくねと流れていく。線路はそれに忠実に付き合おうとするが、川のほうが大きく蛇行する場所は、さすがに付き合いきれないといった風に真っ直ぐ進んでいく。
 蓮(はちす)という駅の手前で、千曲川はその流れを直角に曲げるが、線路は川の蛇行に付き合わずそのまま真っ直ぐ行こうとするので、川と列車の関係が直角になる。雲が浮かぶ夏空の下に水量豊富な深緑の流れが広がり、川面には国道の赤い橋が反射している。ここが飯山線の車窓の白眉ではないかと思う。

 それを横目に列車は川沿いを離れ、盆地とも河岸段丘ともつかぬ平地を少し走ると飯山に着く。北陸新幹線との接続駅でもある。
 飯山は、長野と新潟を結ぶ千曲川水運の拠点であったが、鉄道の時代になって信越本線がこの地を通らなかったことが仇となり、その力を失ってしまった。飯山線が敷設されたのも、信越本線が通らなかったというハンディキャップを補うためであった。それから100年、誰がここに新幹線が通ることを予想できただろうか。
 飯山は歴史ある街なので、一度降りて散策してみたいと思うが、今日はそれを許さないスケジュールとなっている。


 飯山でどっと客を降ろし、戸狩野沢温泉では、僕が乗っていた前の車両が越後川口行きとなるというので安堵する。12分停車の間に後ろを切り離し、身軽になった列車は千曲川の河岸段丘を走っていく。川の流れに合わせて崖っぷちを走ったり、逆に広いところを走ったりと忙しい。
 土砂崩れや地滑りが多発する区間であるせいか、時折「制限速度25km/h」だとか「30km/h」などの看板が線路の脇に立っていて、そのたびにディーゼルカーは速度を調節しながら走る。のろのろ走るので川面や風景を眺めるにはちょうどよい。


 森宮野原という駅を過ぎると新潟県である。駅構内に「日本最高積雪地点 積雪7.85m 昭和20年2月12日記録」の白い巨大な柱が建っている。沿線の家並みを見ていると、屋根の角度が長野の家々よりも明らかに急になっていて、この辺りの冬の雪の深さを思い起こさせる。今度は冬に乗りたいと思う。
 時刻は18時。だんだんと日が暮れてきたが、まだ外が見えるのは夏旅のありがたいところである。新潟県に入り、千曲川から信濃川に名を変えた流れであるが、夕空の下で相変わらずあっちへ流れ、こっちへ流れを続けている。ただ、下るにつれて、流れは深さから広さへとその姿を変えていて、浅いところでは川底の石ころに流れが乱され、白い波が起きている。



 越後鹿渡の先で線路は信濃川を渡り、十日町の盆地に入る。もうここからは信濃川は見えない。
 空はいよいよ夕暮れの度合いを深めていく。沿線の杉林の上にあかね色の大きな入道雲が浮いていて、それがあまりにもきれいなので、車窓そっちのけでずっと見とれていた。夕焼け雲は西にあるのより東にあるもののほうが美しいと思う。西にある雲は下から照らされるが、東に浮かぶ雲は上から照らされるので、西のものとは量感が違う。
 十日町18時53分着。ここはほくほく線との乗換駅で14分停まる。2時間半近く乗り通しなので、14分の間にホームに降りて背伸びをする。数名の乗降が済んでしまうと、駅には列車のエンジン音だけが響く。気がつくと空はあかね色から淡い紫に変わっている。上りの戸狩野沢温泉行きが出ていくとこちらも発車である。
 列車が出るとき、ふと駅の待合室を見ると、女子高生がこちらに背を向けて、ふたり並んでぽつんと座っているのが見えた。迎えの車を待っているのか、あるいはほくほく線を待っているのかわからないが、妙に寂莫としていて心に残る光景である。


 19時を過ぎると、もう外は見えない。車内の客の多くも、長い飯山線の旅に疲れたと見えて、一様に眠りこけている。僕も眠い。
 十日町の盆地を抜け、再び信濃川沿いの河岸段丘をしばらく走って、魚野川を渡ると19時35分、終着の越後川口着。
 接続よく4分で上越線の長岡行きがやってくるので、狭い地下道を急いでくぐる。この越後川口という駅も何度か使ったが、いまだに駅の外に出たことがない。いつもせわしなくこの地下道を行ったり来たりするだけだ。今日はこの4分後を逃すと、長岡行きは21時22分までない。夜に外に出ても仕方がないし、2時間近くも待ちたくないので、今回も駅の外に出るのをあきらめる。
 駅裏は崖になっていて、真っ暗闇の中から虫の声がする。それを何となしにプラットホームから眺めていると、白い前照灯も明々と上越線がやってきた。さすがにこの時間帯だけあって、4両編成の車内はぽつぽつと乗っている程度である。
 朝に上越線に乗る夢を見ていたが、こんなところで正夢になってしまった。小千谷、越後滝谷、宮内と停まって長岡に20時2分着。


 このまま乗り換えて新潟まで行こうかとも思うが、疲れたので宿は長岡に取ることにする。
 ところで、今日はここまでほぼ食事をしていない。行き当たりばったりの旅のわりには列車の接続がよく、食事をとる時間がなかった。それに、長岡に行けば赤提灯の一軒ぐらい開いているだろうから、そこでたらふく食べたり飲んだりしようと思っていた。
 だが、降り立った長岡の街は、盆休みとあってか閑散としている。街を一回りするが、「これだ」と思うような店が開いていない。わずかにチェーン展開の居酒屋のみが、帰省とおぼしき若者たちが発する喧騒に包まれているだけである。いくらのんべえであっても、そんなところで酒など飲みたくない。
 僕は赤提灯で酒を飲むことをあきらめて、駅構内の店で食事を済ませてホテルに入った。
 覚悟していた混雑や喧騒はそれなりに避けられた。その代償として朝から晩までいろいろとあきらめてばかりの1日であった。だが、あきらめることによって前途が拓かれた旅でもあった。

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