2015年7月19日、月曜日。3連休の最終日である。
北海道に限らず、3連休を使った旅といっても、遠出をする以上は、初日の前半と最終日の後半は旅先と家との往復に費やさねばならない。
初日は、新幹線や飛行機から降りたらそのまま目的地に向かうだけなので、時間を持て余すことはない。だが、最終日は、帰りの新幹線なり飛行機の時間というリミットがあり、それまでの限られた時間でどこまで行けるかをあらかじめ計算して行動する必要がある。
だが、僕はこの旅の最終日、どこに行くかを決めていなかった。迷っていたのである。
余市にあるニッカウイスキーの工場を見学してもいい。どちらかというと試飲が目当てである。僕のことであるから試飲で済まない予感がするが、酒好きならば一度は行ってみたい。あるいは学生時代に訪れて以来15年ほどご無沙汰している室蘭のチキウ岬で、弧を描く水平線を見たくもある。幌内線という廃線の駅を利用して、古い鉄道車両が保存されている三笠のクロフォード公園にも食指が伸びるし、その近くの幾春別という風情ある名前の街も訪ねてみたい。石炭産業の遺構なども見てみたい。
広い北海道である。1日で行けるところは限られるのだが、それでもいろいろと誘惑は多い。あそこもよい、ここもよいなどと考えてみたが、結局は列車に乗りたくなって、手近な夕張まで行ってみることにした。残念ながら、僕はてつおたであった。
札幌駅近くの宿を辞した僕は、地下鉄で新さっぽろまで向かうことにした。久しぶりにじっくりと札幌の地下鉄に乗りたくなったからである。札幌の地下鉄は鉄の車輪ではなくゴムタイヤで走る。東京のゆりかもめや、大阪のニュートラムのような、いわゆる新交通システムと言われる乗り物が増えた今、タイヤで走る電車はそう珍しいものではないが、札幌市営地下鉄はそれら新交通システムのご先祖様のようなものである。
大通で南北線から東西線に乗り換える。札幌の地下鉄はクーラーがないので、そこら中の窓が開いている。走り出すと、窓から風がごうごうと入ってきて中づり広告が一斉に揺れる。クーラーが完備された東京の地下鉄ではもう味わえない懐かしい感覚に、不意に小さい頃に乗った地下鉄のことを思い出す。昔の東京の地下鉄には、トンネルの中にクーラーがあって、窓を開けろとしきりに車内放送をしていた覚えがある。
10時前に新さっぽろ着。10時4分発の千歳線で千歳着10時24分。ここから新夕張行きに乗り換える。
10時31分発の石勝線直通2633Dは、ワンマン運転のディーゼルカーである。1駅だけ千歳線の上を走ってから南千歳を出ると、そこから先は石勝線の上を走る。
石勝線はその名の通り石狩と十勝を結ぶ大幹線であり、数多くの特急列車と貨物列車とが我が物顔で行き交う路線である。鈍行は1日に数えるほどしか走っておらず、それも新夕張から新得の間には乗り入れない。鈍行は夕張地区への輸送に特化している。
だが、石勝線の歴史をひも解くと、今から約120年前の1892年、夕張で産出される石炭を室蘭や小樽まで運ぶために造られた路線に行きつく。もともとは夕張のために造られた路線なのである。それは元の路線名が「夕張線」であったことからも容易に窺い知ることができる。それが石炭輸送の衰退とともに、道央と道東を結ぶ幹線の一部として、開業から約90年後の1981年に、千歳から追分と、新夕張から新得までの区間が新規に造られ、石勝線に改められた。新夕張から夕張までの間は枝線として残されたが、夕張そのものの衰退と、札幌の中心地まで直行する高速バスの二重苦にさいなまれているという。
南千歳を出ると、立体交差で千歳線を乗り越す。時刻表を見ると、ディーゼルカーは次の追分という駅まで延々25分ほど走ることになっている。途中に駅を設けるほどの人口が沿線にないのであろう。とはいえ、列車のすれ違いのための信号所が2つあって、特急が猛スピードでこちらの傍らを通り抜けていく。対向列車を待つ間、開け放った窓から牛糞の臭いが容赦なく入り込む。空調が完備された特急では味わえない「特権」であるが、あまりうれしいものではない。
追分11時1分着。しばらくすると苫小牧から岩見沢に向かう室蘭本線の列車がやってきて、こちらと接続を取る。あとからやってきた帯広行きの特急もこちらと接続を取ると、エンジンを轟々と唸らせて先に出発していく。「追分」の名にふさわしい列車たちの邂逅である。
追分からは山の中に分け入っていき、東追分、川端、滝ノ上、十三里と乗り降りもなく過ぎていく。列車からは人家もあまり見られない。これでは鈍行列車が少ないのも首肯できる。列車の数を増やしたところで、乗る人間がいない。
滝ノ上では再び対向の特急を待つ。こちらの列車の運転士が、所在なさげにホームでその通過を待っている。情景はローカル線のそれであるが、日本の非電化路線でこれほどの数の特急が行き交う路線は、この石勝線をおいて他にないと思われるぐらい、特急がよく走っている。我が鈍行は特急のご相伴に預かって、同じ線路を走らせてもらっているような感じがする。
新夕張11時50分着。6分接続で夕張行き2635Dがある。新夕張から夕張の間のことを、地元の人は今でも夕張線と呼ぶという。石勝線の由来はまだ生きているのだとうれしくなる。
僕を入れて乗り込んだのは9名。衰退著しい枝線の乗客としては多い方ではないかと思う。発車してすぐに帯広へ向かう線路と別れて左に折れ、夕張川と直角に交わる。一方、帯広に向かうほうは、旧線と新線の違いをまざまざと見せつけるように、角度に無頓着なまま夕張川を斜めに跨ぎ越していく。真っ白なコンクリートのそれは、まるで新幹線の橋に見える。こちらは夕張川の谷に沿ってゆっくりと坂を登っていく。夕張までは片こう配の登り坂である。蒸気機関車の時代はさぞ苦労したことだろう。途中の沼ノ沢で正午を迎え、昼のサイレンが気だるく流れる。
かつて北海道にあまたあった運炭鉄道は、その性格上、炭鉱で行き止まりの「盲腸線」が多く、そのほとんどは炭鉱の衰退とともに消えていった。僕が産まれた頃には、それら運炭鉄道のほとんどは廃止されるか、近いうちに廃止されることが決定していたので、その現役時代に僕が訪ねることは叶わなかった。冒頭に述べた幾春別にも、幌内線という運炭路線が通じていたが、1987年に廃止になっている。歴史のかなたに失われた運炭鉄道の姿を今に残すのは、もはやこの夕張線のみであろうと思われる。乗ることが叶わなかった数々の運炭鉄道の面影を夕張線に重ね合わせてみると、夕張までの30分がとても愛おしいものに思えてきた。じっくり車窓を見てやろうと、改めて気合いを入れ直す。
その車窓を眺めていると、僕が乗った列車が入るトンネルの横にもう一つ、口を開けているトンネルが見える。それはかつてここは複線であり、石炭輸送に従事する貨車が昼夜を分かたず行き来していた証拠である。1日数本の鈍行のみが走る路線にも、かつて複線にするほどの需要があったことを、そのトンネルは僕に伝えてくれる。現役のトンネルも、蒸気機関車の煙で煤けたレンガが積まれた古い造りのままで、120年の歴史を感じさせる。これが運炭鉄道だと、実感をもってこちらに語りかけてくるトンネルである。
12時23分、夕張駅着。
言わずもがな、この駅はこの界隈から産出される石炭の輸送のため設置された駅である。とはいえ石炭産業の衰退もあり、駅の位置は120年前の開業から2回ほど変わり、現在の位置に至っている。以前は石炭の積み出しの便がよい街の中にあったが、今は町はずれにあって、巨大なリゾートホテルに見下ろされるばかりである。それはまるで、夕張の産業の中心が、炭鉱から観光に遷移した経緯を見るようである。その観光も、あまりうまく行っていないと聞く。僕もゆっくり炭鉱の跡などを見てみたいが、今日は7分後の列車で折り返さねばならない。観光案内センターを兼ねた駅舎で土産物を見て、すぐに折り返す。次こそはじっくり立ち寄りたいと思う。
乗ってきた列車に再び乗り込み、今度は軽快に坂を下っていく。13時33分、追分着。
ここで13時40分発の苫小牧行き1468Dに乗り換える。運炭鉄道の面影は夕張線にしか残っていないと思ったが、よくよく考えると岩見沢から苫小牧までの室蘭本線にもその殷賑を偲ばせる「ある物」が残っていることを思い出し、それを見にいこうと思ったのである。
苫小牧行きは2両でそこそこ乗っている。追分からひとつ目の安平という駅で降りる。扁平な屋根の白い駅舎を通ったのは、僕ひとりであった。駅前は道が1本伸びているが、商店などはほとんど見当たらず、観るべきところもないように思われる。
だが、僕が見たいのは駅の外ではなく、駅の中にある。駅舎の写真を撮った僕は、構内に戻ってホームをつなぐ跨線橋を登る。
眼下の線路には架線がない。だが、線路は2本並んで敷かれている。それも駅の中だけでなく、駅を出ても延々と並んでいる。よくあるローカル線ならば、駅の構内は複線でも、駅を出た先の分岐器で合流して単線になってしまうが、ここはそうではない。
実はこの区間、非電化ながら複線なのである。
この区間は、今でこそ2時間に1本、鈍行が通るだけのローカル線になっている。無論、2時間に1本しか列車が走らないのに複線は過剰設備である。だがこの室蘭本線も、もともとは夕張からの石炭を運ぶ路線であった。だとすれば、複線を要する多大な輸送需要があったことは想像に難くない。そして夕張線では廃されてしまった複線が、この室蘭本線には残されている。かつてこの線路の上を、蒸気機関車に引かれた黒い石炭車が長い編成を連ねてすれ違っていた思うと、胸に熱い何かがこみ上げてくるものがある。
かつて石炭は黒いダイヤと呼ばれ、もてはやされていた。時代は下り、石炭は石油に代わり、蒸気機関車はディーゼルに代わった。運ぶものがなくなり、行き交う列車は少なくなったが、複線だけは残されたのである。運炭鉄道の面影は、ここにも見事に残っていた。
その跨線橋から、過去の栄華を偲ばせる線路に目をやると、かげろうに揺らめく複線の上を、遠くからヘッドライトを輝かせ、岩見沢行きのディーゼルカーがのそのそとやってくるのが見えた。
北海道に限らず、3連休を使った旅といっても、遠出をする以上は、初日の前半と最終日の後半は旅先と家との往復に費やさねばならない。
初日は、新幹線や飛行機から降りたらそのまま目的地に向かうだけなので、時間を持て余すことはない。だが、最終日は、帰りの新幹線なり飛行機の時間というリミットがあり、それまでの限られた時間でどこまで行けるかをあらかじめ計算して行動する必要がある。
だが、僕はこの旅の最終日、どこに行くかを決めていなかった。迷っていたのである。
余市にあるニッカウイスキーの工場を見学してもいい。どちらかというと試飲が目当てである。僕のことであるから試飲で済まない予感がするが、酒好きならば一度は行ってみたい。あるいは学生時代に訪れて以来15年ほどご無沙汰している室蘭のチキウ岬で、弧を描く水平線を見たくもある。幌内線という廃線の駅を利用して、古い鉄道車両が保存されている三笠のクロフォード公園にも食指が伸びるし、その近くの幾春別という風情ある名前の街も訪ねてみたい。石炭産業の遺構なども見てみたい。
広い北海道である。1日で行けるところは限られるのだが、それでもいろいろと誘惑は多い。あそこもよい、ここもよいなどと考えてみたが、結局は列車に乗りたくなって、手近な夕張まで行ってみることにした。残念ながら、僕はてつおたであった。
札幌駅近くの宿を辞した僕は、地下鉄で新さっぽろまで向かうことにした。久しぶりにじっくりと札幌の地下鉄に乗りたくなったからである。札幌の地下鉄は鉄の車輪ではなくゴムタイヤで走る。東京のゆりかもめや、大阪のニュートラムのような、いわゆる新交通システムと言われる乗り物が増えた今、タイヤで走る電車はそう珍しいものではないが、札幌市営地下鉄はそれら新交通システムのご先祖様のようなものである。
大通で南北線から東西線に乗り換える。札幌の地下鉄はクーラーがないので、そこら中の窓が開いている。走り出すと、窓から風がごうごうと入ってきて中づり広告が一斉に揺れる。クーラーが完備された東京の地下鉄ではもう味わえない懐かしい感覚に、不意に小さい頃に乗った地下鉄のことを思い出す。昔の東京の地下鉄には、トンネルの中にクーラーがあって、窓を開けろとしきりに車内放送をしていた覚えがある。
10時前に新さっぽろ着。10時4分発の千歳線で千歳着10時24分。ここから新夕張行きに乗り換える。
10時31分発の石勝線直通2633Dは、ワンマン運転のディーゼルカーである。1駅だけ千歳線の上を走ってから南千歳を出ると、そこから先は石勝線の上を走る。
石勝線はその名の通り石狩と十勝を結ぶ大幹線であり、数多くの特急列車と貨物列車とが我が物顔で行き交う路線である。鈍行は1日に数えるほどしか走っておらず、それも新夕張から新得の間には乗り入れない。鈍行は夕張地区への輸送に特化している。
だが、石勝線の歴史をひも解くと、今から約120年前の1892年、夕張で産出される石炭を室蘭や小樽まで運ぶために造られた路線に行きつく。もともとは夕張のために造られた路線なのである。それは元の路線名が「夕張線」であったことからも容易に窺い知ることができる。それが石炭輸送の衰退とともに、道央と道東を結ぶ幹線の一部として、開業から約90年後の1981年に、千歳から追分と、新夕張から新得までの区間が新規に造られ、石勝線に改められた。新夕張から夕張までの間は枝線として残されたが、夕張そのものの衰退と、札幌の中心地まで直行する高速バスの二重苦にさいなまれているという。
南千歳を出ると、立体交差で千歳線を乗り越す。時刻表を見ると、ディーゼルカーは次の追分という駅まで延々25分ほど走ることになっている。途中に駅を設けるほどの人口が沿線にないのであろう。とはいえ、列車のすれ違いのための信号所が2つあって、特急が猛スピードでこちらの傍らを通り抜けていく。対向列車を待つ間、開け放った窓から牛糞の臭いが容赦なく入り込む。空調が完備された特急では味わえない「特権」であるが、あまりうれしいものではない。
追分11時1分着。しばらくすると苫小牧から岩見沢に向かう室蘭本線の列車がやってきて、こちらと接続を取る。あとからやってきた帯広行きの特急もこちらと接続を取ると、エンジンを轟々と唸らせて先に出発していく。「追分」の名にふさわしい列車たちの邂逅である。
追分からは山の中に分け入っていき、東追分、川端、滝ノ上、十三里と乗り降りもなく過ぎていく。列車からは人家もあまり見られない。これでは鈍行列車が少ないのも首肯できる。列車の数を増やしたところで、乗る人間がいない。
滝ノ上では再び対向の特急を待つ。こちらの列車の運転士が、所在なさげにホームでその通過を待っている。情景はローカル線のそれであるが、日本の非電化路線でこれほどの数の特急が行き交う路線は、この石勝線をおいて他にないと思われるぐらい、特急がよく走っている。我が鈍行は特急のご相伴に預かって、同じ線路を走らせてもらっているような感じがする。
新夕張11時50分着。6分接続で夕張行き2635Dがある。新夕張から夕張の間のことを、地元の人は今でも夕張線と呼ぶという。石勝線の由来はまだ生きているのだとうれしくなる。
僕を入れて乗り込んだのは9名。衰退著しい枝線の乗客としては多い方ではないかと思う。発車してすぐに帯広へ向かう線路と別れて左に折れ、夕張川と直角に交わる。一方、帯広に向かうほうは、旧線と新線の違いをまざまざと見せつけるように、角度に無頓着なまま夕張川を斜めに跨ぎ越していく。真っ白なコンクリートのそれは、まるで新幹線の橋に見える。こちらは夕張川の谷に沿ってゆっくりと坂を登っていく。夕張までは片こう配の登り坂である。蒸気機関車の時代はさぞ苦労したことだろう。途中の沼ノ沢で正午を迎え、昼のサイレンが気だるく流れる。
かつて北海道にあまたあった運炭鉄道は、その性格上、炭鉱で行き止まりの「盲腸線」が多く、そのほとんどは炭鉱の衰退とともに消えていった。僕が産まれた頃には、それら運炭鉄道のほとんどは廃止されるか、近いうちに廃止されることが決定していたので、その現役時代に僕が訪ねることは叶わなかった。冒頭に述べた幾春別にも、幌内線という運炭路線が通じていたが、1987年に廃止になっている。歴史のかなたに失われた運炭鉄道の姿を今に残すのは、もはやこの夕張線のみであろうと思われる。乗ることが叶わなかった数々の運炭鉄道の面影を夕張線に重ね合わせてみると、夕張までの30分がとても愛おしいものに思えてきた。じっくり車窓を見てやろうと、改めて気合いを入れ直す。
その車窓を眺めていると、僕が乗った列車が入るトンネルの横にもう一つ、口を開けているトンネルが見える。それはかつてここは複線であり、石炭輸送に従事する貨車が昼夜を分かたず行き来していた証拠である。1日数本の鈍行のみが走る路線にも、かつて複線にするほどの需要があったことを、そのトンネルは僕に伝えてくれる。現役のトンネルも、蒸気機関車の煙で煤けたレンガが積まれた古い造りのままで、120年の歴史を感じさせる。これが運炭鉄道だと、実感をもってこちらに語りかけてくるトンネルである。
12時23分、夕張駅着。
言わずもがな、この駅はこの界隈から産出される石炭の輸送のため設置された駅である。とはいえ石炭産業の衰退もあり、駅の位置は120年前の開業から2回ほど変わり、現在の位置に至っている。以前は石炭の積み出しの便がよい街の中にあったが、今は町はずれにあって、巨大なリゾートホテルに見下ろされるばかりである。それはまるで、夕張の産業の中心が、炭鉱から観光に遷移した経緯を見るようである。その観光も、あまりうまく行っていないと聞く。僕もゆっくり炭鉱の跡などを見てみたいが、今日は7分後の列車で折り返さねばならない。観光案内センターを兼ねた駅舎で土産物を見て、すぐに折り返す。次こそはじっくり立ち寄りたいと思う。
乗ってきた列車に再び乗り込み、今度は軽快に坂を下っていく。13時33分、追分着。
ここで13時40分発の苫小牧行き1468Dに乗り換える。運炭鉄道の面影は夕張線にしか残っていないと思ったが、よくよく考えると岩見沢から苫小牧までの室蘭本線にもその殷賑を偲ばせる「ある物」が残っていることを思い出し、それを見にいこうと思ったのである。
苫小牧行きは2両でそこそこ乗っている。追分からひとつ目の安平という駅で降りる。扁平な屋根の白い駅舎を通ったのは、僕ひとりであった。駅前は道が1本伸びているが、商店などはほとんど見当たらず、観るべきところもないように思われる。
だが、僕が見たいのは駅の外ではなく、駅の中にある。駅舎の写真を撮った僕は、構内に戻ってホームをつなぐ跨線橋を登る。
眼下の線路には架線がない。だが、線路は2本並んで敷かれている。それも駅の中だけでなく、駅を出ても延々と並んでいる。よくあるローカル線ならば、駅の構内は複線でも、駅を出た先の分岐器で合流して単線になってしまうが、ここはそうではない。
実はこの区間、非電化ながら複線なのである。
この区間は、今でこそ2時間に1本、鈍行が通るだけのローカル線になっている。無論、2時間に1本しか列車が走らないのに複線は過剰設備である。だがこの室蘭本線も、もともとは夕張からの石炭を運ぶ路線であった。だとすれば、複線を要する多大な輸送需要があったことは想像に難くない。そして夕張線では廃されてしまった複線が、この室蘭本線には残されている。かつてこの線路の上を、蒸気機関車に引かれた黒い石炭車が長い編成を連ねてすれ違っていた思うと、胸に熱い何かがこみ上げてくるものがある。
かつて石炭は黒いダイヤと呼ばれ、もてはやされていた。時代は下り、石炭は石油に代わり、蒸気機関車はディーゼルに代わった。運ぶものがなくなり、行き交う列車は少なくなったが、複線だけは残されたのである。運炭鉄道の面影は、ここにも見事に残っていた。
その跨線橋から、過去の栄華を偲ばせる線路に目をやると、かげろうに揺らめく複線の上を、遠くからヘッドライトを輝かせ、岩見沢行きのディーゼルカーがのそのそとやってくるのが見えた。
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