2019年12月29日日曜日

南の島に僕の黎明を見る(2018年12月 沖縄・東陽バス)

 僕は長年てつおたをやっている。
 物心ついたときには既に電車や機関車が好きだった。そのうち列車に乗ることに喜びを覚えるようになり、大人になってからは、日本に存在する鉄道路線の全てにも乗った。

 しかし、僕の人生における黎明のみぎりを顧みると、間違いなく鉄道よりも車が好きだった。家にあった玩具のほとんどは車であったし、たまに玩具を買ってもらえると聞けば、プラレールではなくトミカの売り場に一目散に向かうような子どもであった。

手前より三菱・スタリオンとランサー

 僕が幼少期を過ごした1980年代は、悪人顔の車しかいない今と違って、個性的でカッコいい車が多かったのも、僕の関心を車に向かわせた要因の一つかもしれない。日産・フェアレディZ、三菱・スタリオン、いすゞ・ピアッツァ、ホンダ・プレリュード、マツダ・サバンナRX-7、スバル・アルシオーネ…。今でも当時の車名を諳んじることができる。

マツダ・サバンナ

 それに当時は、1970年代の車も少数であるがまだ現役であった。初代マツダ・サバンナや三菱・ギャランΣなど、丸目4灯で押しの強いフロントグリルを持つ車が大好きだったことを思い出す。

 僕の家の近所には神奈川中央交通の車庫があり、黄色と赤のバスが頻繁に通っていた。僕は車と一緒にバスを眺めていた。そして親に連れられてバスに乗ると、運転席の横の席に座ることを所望して、床板の木の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、運転手の一挙一動を観察するのが好きだった。
 出発の指差喚呼から始まり、僚車との離合時には挙手あいさつをしながら、ハンドルやシフトノブを巧みに操る運転手たちの姿に魅了された僕は、やがて乗用車ではなく、路線バスに興味の対象を収斂させていった。
 「あの大きなハンドルと、床から生えている長いシフトノブを操ってみたい」と願うようになった僕は、幼稚園の卒園文集に、将来の夢として「バスの運転手になりたい」とつづった。

神奈川中央交通バス

 結果としてその夢は、のちの僕の人生においてほとんど思い出されることもなく闇に葬られ、バスとは全く関係のない仕事を転々とすることになるのだが、それでもバスは僕の興味の対象であり続けた。
 高校時代は鉄道と並んで都営バスを乗りつぶすことに情熱を燃やした。旅先の地方都市で古いバスに出会うと、行先も確かめず思わず飛び乗ったこともあった。
 バスは、メーカーやバス会社ごとに特徴があり、それを見比べたり乗り比べるのが楽しみであった。
 しかしバスも年を追うごとに、乗用車と同じように没個性の時代に突入していく。UDこと旧・日産ディーゼルはバスの製造販売から撤退し、いすゞと日野は共同でバス製造会社を作り、両社のバスのデザインはほぼ共通化された。三菱ふそうだけが独自路線で残ったが、これとて純正車体の製造工場を2つから1つに統一した。


 かように、1台1台のバスの違いを愉しむことを志向するには厳しい時代となった。
 ではこれからバスを愛でるには、いったいどうすればよいか。
 ひとつは、個性のないと言われる今のバスに個性や魅力を見出す。もうひとつは、懐古趣味のきらいはあるが、残り少なくなった古いバスたちを探して会いに行く。
 前者は東京にいてもできるが、いかんせん面白みが少ない。趣味としては圧倒的に後者のほうが魅力的である。だが古いバスは、排ガス規制や交通バリアフリー化の関係で、もう東京には残っていない。
 1990年代製のバスなら関東でも都心から少し離れた街に行けばいるが、それより古い、すなわち僕がバスの運転手を志望したころに走っていたバスたちは、今では北海道と松山と熊本と沖縄にしかに残っていないという。
 北海道、松山、熊本であれば鉄道で行きたいところであるが、今回はモノレール以外の鉄道がない沖縄に行くことにした。たまたま沖縄に行くという友人たちがいたので、僕は渡りに船ならぬ渡りに飛行機とばかりに一緒に沖縄へ飛んだのである。


 2018年11月30日、金曜日。
 バス目当ての旅とあって、東京から成田までは優雅に新型2階建てバスで移動したはよいが、そこから物置のような第3ターミナルを経由し、バニラエアの窮屈な座席に押し込められること約3時間。僕は疲弊した身体を引きずって那覇空港に降り立った。
 ひとり旅であればLCCは絶対に選択しないが、今回は友人たちのバカンスに金魚のフンとして随伴してきた身である。わがままは言えない。
 それにしても2011年10月に沖縄都市モノレールに乗りに来て以来、7年ぶりの沖縄である。


 前回は10月に来て暑かったが、今回も11月末とはいえ暑い。沖縄の気候区分が亜熱帯であることを差し置いても異常に暑い。そのうちに誰かが「これは関東の気候に従って厚着をしてきたからだ」と気がついて上着を脱衣する。調べると気温は20度ぐらいであった。
 ホテルに投宿して、休憩もそこそこに国際通りへ酒を飲みに繰り出す。せっかくなので僕はモノレール全線に乗りたかったが、友人たちはそんなものには関心はないので、ここもわがままをぐっとこらえる。それでも旭橋から牧志までの間は乗ることができた。本当は全部乗りたいところであるが…。
 飲み会では友人たちとの久しぶりの再会に思わずオリオンビールや泡盛が数多く飛び交い、満座が度を越して大酩酊したが、タクシーになだれ込んで何とか宿にたどり着いた。

 2日目は友人たちがレンタカーを手配していた。車種はホンダ・ヴェゼルである。
 車の運転は社畜時代に散々していてもう御免こうむりたいのと、何よりも酒が抜けていなかったので、運転は友人たちに任せて、僕は助手席や後部座席でふんぞり返ることにした。
 社畜時代のいろいろな嫌な出来事のせいで、車の運転は人生において最もむなしい行為のひとつだとすら思う。車好きだった幼年期の僕の面影はもうない。だがバスはいまだに好きである。自己矛盾であるが、バスは自分では運転できないからいまだに憧憬を抱いているのだと思う。


 連れられるがままに、アメリカンスタイルのハンバーガーショップであるA&W、嘉手納の国道58号のヤシ並木、名護の海中展望台などを巡る。その道中の車窓から見る沖縄の街並みが、どこかで見たような気がして首をかしげていたが、やがて台湾のそれに似ているのだと気がついた。屋上に水タンクを乗せた四角い建物が多いのと、店の看板が軒先にデカデカと飾られているのは台湾にそっくりだ。建物の造りはその土地の気候を表す。沖縄は亜熱帯であることを改めて思い知らされる。
 そんな異国情緒あふれる街並みを見ながら、「この島に鉄の軌条の上を走る乗り物があればどんなに素敵なことか」と思う。それこそ日本離れした光景が見られたに違いない。沖縄の鉄道は沖縄戦で徹底的に破壊されてしまい、痕跡はほとんど残っていない。
 あわせて、道行くアメリカ軍人たちの旧車率の高いことにも驚いた。20年以上前のトヨタ・セリカや、マイケル・J・フォックスがCMをしていた、いわゆる「カッコインテグラ」などが国道58号線を元気に走っていて、友人ともども指呼しながら目を見張る。やはり車は運転するよりも眺める方がよい。

 明くる2018年12月2日、日曜日。
 この日のために僕は沖縄に来たとあって、朝からひとり興奮していた。友人たちには沖縄に来る前にあらかじめ事情を説明し、別行動の許可を得ている。
 古いバスが走るのは日曜日と祝日だけであると、沖縄に来る前に調べてあった。それに加えて念のため、沖縄に到着した当日に、バスの営業所に電話を入れておいた。
 てつおたとしての経験上、事業者に非公開の車両運用を聞くのはご法度だと思っていたが、古いバスを運行している『東陽バス』のホームページを確認すると、「確実に乗車したい場合は事前に営業所にご確認ください」とあったので、遠慮なく電話をしたのである。
 「今度の日曜、古いバスは走りますか?」と聞く。受話器越しに沖縄独特の抑揚で「走るよ」との回答。ついでに「どこから乗るの?」と聞かれたので「し、しろま…?」と答えると「グスクマね」と即座に訂正され、おまけに運行予定時刻を教えてくれる。
 グスクマは漢字で「城間」と書き、国道58号線、浦添市にあるバス停である。沖縄では「城」を「グスク」と読むことを失念していた。


 宿からレンタカーで城間の交差点まで連れて行ってもらい、そこで降ろしてもらう。外は暑いので、近くのショッピングセンターでブルーシールアイスを食ってからバス停に向かう。
 先日の電話では、古いバスは城間11時46分発の191番系統・馬天営業所行きに充当されるという話であった。電話の様子だと、191番で走るのは固定されているが、どの時刻のバスに充当されるかまでは決まっていないらしい。


 発車予定時刻より早めにバス停に向かい、何台か「今時の」バスをやり過ごすと、バス停近くの交差点から古いバスが何気なく現れて目の前に停まった。
 動態保存の古い鉄道車両と違って、古いバスは何の前触れもなく現れるものだから、こちらも一瞬拍子抜けする。あまりにも日常に溶け込みすぎている。だが、その姿はまぎれもなく僕がバスの運転手になりたいと思った頃に走っていた、とても懐かしい形のバスであった。特別なものにありがちな仰々しさがないところもうれしい。

 この古いバスの素性は、1978年に日野自動車で作られたもので、型式を「RE101」という。東陽バスでは型式ではなく「ナナサンマル車」と呼んでいるようである。「ナナサンマル」の由来は、沖縄の道路が右側通行から左側通行に変わったのが1978年7月30日に由来する。つまりこのバスは、沖縄の道路の通行形態が変わるのに合わせて作られ、それから40年が過ぎた今日まで走り続けてきたのである。
 調べると、今から15年ぐらい前までは同世代の「ナナサンマル車」がたくさんいたが、老朽化でそのほとんどが廃車になり、今ではこのRE101と沖縄バスの三菱ふそう製の1台、あわせて2台しか残っていないという。




 それにしても車内の風情の懐かしいこと。乗降口の階段状のステップを登る感覚がすでに懐かしい。
 ドーナツ型の蛍光灯や白いビニールカバーをかぶせた座席といった調度品の数々も、このバスが生まれた時代を如実に物語る。乗用車でいうところのCピラーの前に設けられた三角窓と、テールウィンドウの流れるような傾斜も今のバスでは見られない。

 僕よりも4歳年上のバスは、数えるほどの客を乗せて国道58号線を離れ、沖縄本島南部の丘陵地帯を登り始めた。
 191番は沖縄本島を東西に結ぶ路線で、どちらかというと南北の流動が多い沖縄本島にあってはローカル線のような系統である。それゆえにこのような古いバスでも活躍できる路線ともいえる。
 古い割には走りは力強く、2車線の狭い県道を、自分よりはるかに年下の乗用車たちを制しながら首里の丘へと登っていく。
 
 儀保(ぎぼ)の交差点から、バスの頭上を沖縄都市モノレールの軌道が走る。
 沖縄で一番古い公共交通機関と一番新しい公共交通機関が共演するのは、この儀保から首里駅の近くの鳥堀交差点までの1キロあまりの短い区間だけである。僕は新旧の共演が見たくて頭上にモノレールが現れるのを期待したが、残念ながらその姿はなかった。
 鳥堀からは沖縄の東海岸に向かって急坂を軽快に下っていく。兼城(かねぐすく)の交差点を左に曲がり、左にちらりと少し海が見えたかと思うと、バスは終点の馬天営業所に着く。
 ここは南城市、知念半島のある市であるが、この「城」は「じょう」と読むのでややこしい。「なんじょう」ではなく「ナングスク」のほうが沖縄らしいと思うのだが。



 馬天営業所は南国らしい明るいオレンジ色の事務所が建っていて、表は道路を挟んでサトウキビ畑、裏はバスの車庫になっている。営業所を覗くと日曜・祝日休みとあり、無人であった。
 僕は、僕をここまで連れてきてくれたバスの運転手さんに「車庫で写真を撮らせてもらっていいですか?」と申し出る。しぶられるかと思ったが、「どうぞどうぞ」とあっさり許可される。車庫など普通は気安く入れてもらえるものではない。バスの往来がないことを確かめながら、厚意に甘えて場内にお邪魔する。


 僕を乗せてきたナナサンマルは給油所で燃料を補給している。こちらにお尻を向けているので写真は撮れないなと思っていると、給油を終えて件の運転手さんがバスを移動させ、向きを変えてくれた。変えたというよりも定位置に収めた、といったほうがよいかもしれない。こういう時は、自分が客として遇されていると勘違いしてはいけない。


 ナナサンマルは、後輩のバスたち―後輩とはいえ、彼らとて僕の見立てでは25年選手の大ベテランで、本土ではもうほとんどお目にかかれない古い車種なのだが、それらと並んでしばしの休憩に入っている。
 その様子を僕は前後左右いろいろな角度から眺めたり撮ってみるが、ナナサンマルの白眉はリア回りにあると思う。






 角張った最近のバスには見られないテールウインドウの傾斜。その車歴を誇るかのような旧書体のHinoオーナメントとREの文字。メッキ仕上げのリアバンパ。エンジン回りの吸排気グリルから、リベットが大量に並んだサイドパネルへとつながるボディライン。どこを見ても僕が昔あこがれたバスの姿そのものである。
 無心で写真を撮っているうちにナナサンマルの出発の時間となった。同じバスに乗るのもどうかと思うが、これもせっかくの機会にと、再び僕はナナサンマルの乗降ステップに足をかける。

 帰りも191番である。運転手さんいわく「今日はクーラーの調子が悪い」とのこと。こちらとしては12月なのにクーラーを使うほうが驚きである。
 僕以外に誰も乗らず、車内を独占する。兼城から右折して、さきほど下ってきた首里への丘を今度は息も絶え絶えに登っていくその姿がとてもいじらしい。思わず「頑張れ」と心の中でつぶやく。



 友人たちとは首里の近くで待ち合わせをすることになっている。待ち合わせ場所に近い「赤田」というバス停で降りると、ナナサンマルは苦しそうに坂道発進をして城間へと向かっていった。
 その後ろ姿を見送り、友人たちに合流すると、彼らは首里の近くの食堂に寄る算段をしていた。

 その車中、またもやモノレールの軌道が頭上に現れる。よく見るとコンクリートの桁が真っ白で妙に新しい。それもそのはず、2019年10月に沖縄都市モノレールが首里駅から「てだこ浦西駅」までの4.1キロが延伸開業する予定で、頭上の軌道はその新線区間のものであった。真新しいモノレールのコンクリート桁を見るとバスの余韻もそこそこに、気もそぞろになる。頭上の区間に乗れるのは早くても1年後の話であるが、今から待ち遠しい。
 古いバスを前に、僕は昔抱いた夢を思い起こしたものの、残念ながら僕はやっぱりてつおたであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿