2020年2月22日、土曜日。
東京駅8時40分発、のぞみ159号で新神戸へ向かう。
東京の雨は上がったが、浜松を過ぎるころから雲行きが怪しくなる。名古屋で傘をさす人を見かけ、乗り換えに降り立った新神戸は完全に雨の中であった。
新神戸でさくら553号に乗り換える。
車中、岡山駅から北を見やると、中国山地には雲が低くたなびいている。あの下は霧か雨だろう。その湿っぽい中を津山線や因美線が走っていると思うと、不意に予定を変えて乗りたくなるが、そうはいかない。
今日は福塩線に乗りにきたのである。
さくら553号は定刻通り12時22分、福山駅に着いた。
改札を出るとき、父親の手を振りほどいて元気よく駆け出した小さな女の子が、祖母らしき女性に抱きつくのを見る。そんな光景を見るにつけ、両親に孫のひとりももたらさず、ひとり旅ばかりをしている自分が情けなくなる。
だが、もし僕に嫁や子どもがいたら、ここまでたくさんの旅はできなかったと思う。それを考えると、今の人生はそれほど不幸ではないとも思い直す。どちらにしろ、白髪がちらちら見える歳になっても結婚していないのは、僕が旅ばかりを志向し、人並みに家庭を築いたり社会生活を営む能力が欠損したポンコツであるからに違いない。ここまで来ると、もう僕に残されたものは旅しかない。ポンコツはポンコツなりに道を歩むだけである。無論、歩むのは鉄の道である。
福塩線は広島県第2の都市、福山から北西に向かい、三次市の塩町駅までの78.0kmを結ぶ路線である。その沿線に大きな観光地や景勝地はなく、地元の人以外にはなじみのない、どちらかというと地味な路線である。
僕が福塩線に乗るのは20年ぶりである。前回は1999年の12月であった。路線名のせいではないが、いくらなんでも長く塩漬けしすぎたと思う。20年も音沙汰を欠いた路線に乗ると思うと、その無礼を詫びる気持ちになって、思わず襟を正したくなる。
ただ、実際に襟を正すと暑い。車内は暖房が効いていて汗ばむ。内陸の冷え込みを考えて薄手のダウンジャケットを羽織ってきてたが、それが仇となってしまった。
12時53分発の福塩線府中行きは、2両編成のカラシ色の電車であった。ホームで待つ人はまばらだったが、発車の頃には高校生や地元の人で座席が埋まった。
電車は福山城の石垣を横目に高架を駆け下りると、山陽新幹線や山陽本線と別れて右に巻いていく。一つ目の備後本庄から横尾までは、芦田川と丘陵に挟まれた狭いところを走るので、カーブが多く速度は出ない。
神辺からは湯田村、道上、万能倉と、住宅地の中を淡々と走る。この辺りは芦田川の作った沖積平野で広々としているが、今度は駅間が短く、やはり速度は出せない。駅の造りも質素なものが多い。少し走っては停まるを繰り返す。まるでどこかの地方私鉄に乗っているように錯覚するが、それもそのはずで、福塩線の福山から府中の間は両備鉄道という私鉄が造った路線であった。
途中に駅家(えきや)という駅がある。路面電車の「○○駅前」の類は例外として、駅名に「駅」が付くのは日本広しといえどもこの駅家だけである。駅家駅と書くと回文になるのがおもしろい。回文になる地名というと鹿児島県の「志布志」が有名だが、あちらの駅は「志布志駅」なので回文にならない。逆に駅家は「駅」を入れてあげないと回文になれない。何にせよ、こういう個性的な駅名は愉快である。
近田から丘陵の裾を巻くように走り始め、だんだんと沖積平野が狭まっていくのがわかる。それでも沿線は家並みが途切れることなく続き、各駅のまわりには家や商店やアパートがごちゃごちゃ建っている。福山で乗った客は各駅でどんどん降りていくが、代わりに乗ってくる客はわずかであった。
終点の府中に着くころには、2両編成の客は僕を入れて10名ほどだった。次の列車まで1時間半ほど時間があるので、僕もその10名の一員として駅を出てみる。
府中は家具の街で、ここで作られる上質な桐タンスなどは、いわゆる嫁入り道具として重宝されたという。確かに材木屋や家具の工房がいたるところにある。今でも家具作りは盛んなようである。
駅の近くにあった「道の駅 びんご府中」で昼食をとって、腹ごなしに街を歩いていると、古びたアパートから突然、歌声が聞こえてきてたじろぐ。見ると一部がカラオケ屋になっている。カラオケ屋となっている間口の壁だけピンクや緑色に塗ってあって、元の壁の色と思われる黄土色で残された残りの部分との対比が、かえって建物の古臭さを際立たせて哀愁を感じさせる。
太陽は見えているのに、嫌がらせのような小雨が降り始めたので、あわてて駅に戻る。
駅舎内の掲示板を見ていたら、駅の記念スタンプが2月いっぱいで廃止になると書いてある。駅員さんにお願いしてスタンプを出してもらう。この旅が1か月遅かったら、スタンプを貰いそびれるところであった。スタンプにも「首無地蔵菩薩と日本一の府中婚礼家具」とあった。
福塩線の終点は塩町だが、府中から北側は電化されておらず、電車が入ることはできない。ここからはディーゼルカーになる。それに、地元の人には申し訳ないが、塩町はとりたてて何もないところなので、列車はすべて芸備線の三次(みよし)まで直通するダイヤが組まれている。
よって、次に僕が乗る列車も三次行である。1両でエンジンをガラガラ鳴らして停まっているのが改札越しに見える。どこでもそうだが、ディーゼルカーを見ると、「旅に出たんだな」とうれしくなる。
それにしてもこの列車、ずいぶん前からホームに横付けされていた気がするが、それが三次行であるとの案内はなかった。しばらくほったらかしていたら、他の客が何食わぬ顔で改札を抜けて乗り込んでいくので、僕も後を追いかける。
15時5分発の三次行きはガランとしたまま発車した。僕を含めて8人しか乗っていない。府中駅を境に需要が急減するがゆえ、ここから先は電化もされないのであろう。
沖積平野は府中で終わりで、ここからは芦田川に沿って走る。線路は川をさかのぼるように、その谷に沿って敷かれている。山と川に挟まれたところを走るので、倒木や落石を警戒してか「制限25km/h」となっていて、列車はとてものろい。
景色を眺めるにはちょうどよいが、芦田川はきらきらと陽光を反射してまぶしいし、車内は暖房と日差しとで暖かい。川のまぶしさについ目を閉じると、そのままウトウトしそうになる。途中駅での乗り降りもなく、列車は淡々と走るものだから、僕はいつの間にか寝ていた。
ふと気がついて薄目を開けると、右側の車窓にはなだらかな段々畑と、その背景に立派な入母屋造りの家並みや学校が見える。河佐であった。広々とした盆地に、「山陽とはこのことか」と思わせるぐらいに日差しが降り注いでいて、暖かそうなところである。1人降りていくが、誰も乗ってこない。
ここから線路は芦田川をいったん外れ、長いトンネルに入る。全長6,123メートルの八田原トンネルで、20年前にここを通った時は、エンジンの音がやたらと車内で共振して頭が痛くなった覚えがある。残念ながら今回も同じで、トンネルの真ん中で気分が悪くなってきた。「早く抜けてほしい」と思うが、さすがに6kmは長い。息も絶え絶えに、やっとの思いでトンネルを抜ける。
備後三川からは芦田川の支流に沿ってさかのぼっていく。谷がだんだん狭くなってきて、分水嶺が近いことを思わせる。谷といっても屹立した山ではなく、こんもりとした丘陵の間を列車は走る。このあたりは吉備高原である。相変わらず日差しは刺すように強く、車内は暖かい。車窓にも特段見るものがないので、再びウトウトする。
人の動きを感じて目を覚ます。上下(じょうげ)という駅で、ここは府中以来、久しぶりの大きな駅である。数少ない客がさらに降りて、車内は4人になる。文字通りここで上下の列車がすれ違うが、向こうの列車には3人しか乗っていなかった。さびしいものであるが、これが福塩線の日常なのだろう。
甲奴(こうぬ)では、ホームに母親らしき女性と3人兄妹が立っている。親子での列車見物かと思ったが、そのうちの小学校低学年ぐらいの男の子だけが列車に乗ってきて、残った母親と兄妹がホームから手を振っている。男の子は口を真一文字に結んでその見送りに手を振り返す。風体からしてそんなに遠くにいくようには見えないが、それでも男の子にとっては大いなる旅路なのであろう。
振り返れば、小学生の頃、ひとりで電車に乗るのは一大イベントだった。知らない電車や土地への期待と不安が入り混じったあの頃の胸のときめきは、もうどこかに消え失せてしまった。それでも旅を続けているのは、いまだにあのときめきを取り返そうと、年甲斐もなく悪あがきをしているからに他ならない。
もっとも、歳をとったからこそ知ったこともある。その最たるものは、「車窓はおもしろい」ということである。若い頃は電車に乗っていればそれだけで満足で、車窓など二の次であった。あの頃は新幹線や特急などに乗りたくても乗れるだけの金がなかったので、仕方なく鈍行に乗っていたが、今はあえて鈍行に乗って、車窓をじっくりと見るのが好きでたまらない。我ながら枯淡の境地だと思う。
列車は、自らの影を車窓の友に、吉備高原をのんびりと進んでいく。車窓から見えた家の大広間に、大きなひな壇が設えられているのが一瞬だけ見える。春が近いことを改めて思う。備後安田の駅には「ユキワリイチゲ」と書かれた看板が出ている。ユキワリイチゲは漢字で雪割一華と書き、雪を割って一輪の花を咲かせることから、春の到来を知らせる花であるという。
その備後安田から、列車はブナや樫の森に囲まれた小さな峠を何度も上り下りする。いつの間にか分水嶺を越えたようで、吉舎(きさ)の先で寄り添ってきた川は、列車と同じ方向に流れていく。
福塩線最後の駅である三良坂で2人乗ってきて、もったいぶったように列車はゆっくりと走る。見上げるほどの高い位置に場内信号機が立っているのを見る間もなく、右手から芸備線の線路がそっと寄ってきて、列車は16時38分、福塩線の終点である塩町に着く。
終点であるが、誰も降りない。先にも述べたが、この塩町駅は福塩線の終点であるが、列車は三次まで行く。傾き始めた太陽を受けながら2分停まる。その間に部活帰りらしき高校生たちが6人、にぎやかに乗り込んでくる。
僕が20年前に福塩線に乗った時、彼らはまだこの世に生まれていなかった。そもそも僕自身が高校生であった。そう思うと20年は長い。
世間様のようにまっとうな人生を送れる能力が、この僕にも備わっていたのであれば、福山の改札口で見かけた女の子、あるいは甲奴で乗ってきた男の子のような年齢の子どもが、自分にいてもおかしくない年月である。だが、その20年を、僕はその無能と無欲と無神経がゆえに、無為に過ごした。過ぎ去った年月は戻らない。
かといって、これからの20年を展望してみても、20年も経てば僕は初老の域に入る。すでにポンコツとなり果てたこの身体のことである。20年後には、この肉体がこの世に存在しているかどうかもわからない。実はすでに人生の折り返し地点を過ぎたかもしれないと思うと、仕事などさっさと投げ出して、少しでも早いうちに、できるだけいろいろなところへ旅をしなければという焦燥感だけがつのる。長らく塩漬けにしている路線にも乗りにいかねばならない。焦っても仕方がないが、時間は待ってくれないことは、この20年でよくわかった。
そんな僕であるが、一つだけ断言できることがある。
どこまでも、いつまでも列車に乗っていたいという気持ちだけは、20年前も、今も変わらない。そしておそらくは、20年後も不変であるということだ。
僕が20年という月日に思いを巡らせているうちに、列車は2分間の停車時間を終えて、エンジンを震わせて三次へと動き出した。
東京駅8時40分発、のぞみ159号で新神戸へ向かう。
東京の雨は上がったが、浜松を過ぎるころから雲行きが怪しくなる。名古屋で傘をさす人を見かけ、乗り換えに降り立った新神戸は完全に雨の中であった。
新神戸でさくら553号に乗り換える。
車中、岡山駅から北を見やると、中国山地には雲が低くたなびいている。あの下は霧か雨だろう。その湿っぽい中を津山線や因美線が走っていると思うと、不意に予定を変えて乗りたくなるが、そうはいかない。
今日は福塩線に乗りにきたのである。
さくら553号は定刻通り12時22分、福山駅に着いた。
改札を出るとき、父親の手を振りほどいて元気よく駆け出した小さな女の子が、祖母らしき女性に抱きつくのを見る。そんな光景を見るにつけ、両親に孫のひとりももたらさず、ひとり旅ばかりをしている自分が情けなくなる。
だが、もし僕に嫁や子どもがいたら、ここまでたくさんの旅はできなかったと思う。それを考えると、今の人生はそれほど不幸ではないとも思い直す。どちらにしろ、白髪がちらちら見える歳になっても結婚していないのは、僕が旅ばかりを志向し、人並みに家庭を築いたり社会生活を営む能力が欠損したポンコツであるからに違いない。ここまで来ると、もう僕に残されたものは旅しかない。ポンコツはポンコツなりに道を歩むだけである。無論、歩むのは鉄の道である。
福塩線は広島県第2の都市、福山から北西に向かい、三次市の塩町駅までの78.0kmを結ぶ路線である。その沿線に大きな観光地や景勝地はなく、地元の人以外にはなじみのない、どちらかというと地味な路線である。
僕が福塩線に乗るのは20年ぶりである。前回は1999年の12月であった。路線名のせいではないが、いくらなんでも長く塩漬けしすぎたと思う。20年も音沙汰を欠いた路線に乗ると思うと、その無礼を詫びる気持ちになって、思わず襟を正したくなる。
ただ、実際に襟を正すと暑い。車内は暖房が効いていて汗ばむ。内陸の冷え込みを考えて薄手のダウンジャケットを羽織ってきてたが、それが仇となってしまった。
12時53分発の福塩線府中行きは、2両編成のカラシ色の電車であった。ホームで待つ人はまばらだったが、発車の頃には高校生や地元の人で座席が埋まった。
電車は福山城の石垣を横目に高架を駆け下りると、山陽新幹線や山陽本線と別れて右に巻いていく。一つ目の備後本庄から横尾までは、芦田川と丘陵に挟まれた狭いところを走るので、カーブが多く速度は出ない。
神辺からは湯田村、道上、万能倉と、住宅地の中を淡々と走る。この辺りは芦田川の作った沖積平野で広々としているが、今度は駅間が短く、やはり速度は出せない。駅の造りも質素なものが多い。少し走っては停まるを繰り返す。まるでどこかの地方私鉄に乗っているように錯覚するが、それもそのはずで、福塩線の福山から府中の間は両備鉄道という私鉄が造った路線であった。
途中に駅家(えきや)という駅がある。路面電車の「○○駅前」の類は例外として、駅名に「駅」が付くのは日本広しといえどもこの駅家だけである。駅家駅と書くと回文になるのがおもしろい。回文になる地名というと鹿児島県の「志布志」が有名だが、あちらの駅は「志布志駅」なので回文にならない。逆に駅家は「駅」を入れてあげないと回文になれない。何にせよ、こういう個性的な駅名は愉快である。
近田から丘陵の裾を巻くように走り始め、だんだんと沖積平野が狭まっていくのがわかる。それでも沿線は家並みが途切れることなく続き、各駅のまわりには家や商店やアパートがごちゃごちゃ建っている。福山で乗った客は各駅でどんどん降りていくが、代わりに乗ってくる客はわずかであった。
終点の府中に着くころには、2両編成の客は僕を入れて10名ほどだった。次の列車まで1時間半ほど時間があるので、僕もその10名の一員として駅を出てみる。
府中は家具の街で、ここで作られる上質な桐タンスなどは、いわゆる嫁入り道具として重宝されたという。確かに材木屋や家具の工房がいたるところにある。今でも家具作りは盛んなようである。
駅の近くにあった「道の駅 びんご府中」で昼食をとって、腹ごなしに街を歩いていると、古びたアパートから突然、歌声が聞こえてきてたじろぐ。見ると一部がカラオケ屋になっている。カラオケ屋となっている間口の壁だけピンクや緑色に塗ってあって、元の壁の色と思われる黄土色で残された残りの部分との対比が、かえって建物の古臭さを際立たせて哀愁を感じさせる。
太陽は見えているのに、嫌がらせのような小雨が降り始めたので、あわてて駅に戻る。
駅舎内の掲示板を見ていたら、駅の記念スタンプが2月いっぱいで廃止になると書いてある。駅員さんにお願いしてスタンプを出してもらう。この旅が1か月遅かったら、スタンプを貰いそびれるところであった。スタンプにも「首無地蔵菩薩と日本一の府中婚礼家具」とあった。
福塩線の終点は塩町だが、府中から北側は電化されておらず、電車が入ることはできない。ここからはディーゼルカーになる。それに、地元の人には申し訳ないが、塩町はとりたてて何もないところなので、列車はすべて芸備線の三次(みよし)まで直通するダイヤが組まれている。
よって、次に僕が乗る列車も三次行である。1両でエンジンをガラガラ鳴らして停まっているのが改札越しに見える。どこでもそうだが、ディーゼルカーを見ると、「旅に出たんだな」とうれしくなる。
それにしてもこの列車、ずいぶん前からホームに横付けされていた気がするが、それが三次行であるとの案内はなかった。しばらくほったらかしていたら、他の客が何食わぬ顔で改札を抜けて乗り込んでいくので、僕も後を追いかける。
15時5分発の三次行きはガランとしたまま発車した。僕を含めて8人しか乗っていない。府中駅を境に需要が急減するがゆえ、ここから先は電化もされないのであろう。
沖積平野は府中で終わりで、ここからは芦田川に沿って走る。線路は川をさかのぼるように、その谷に沿って敷かれている。山と川に挟まれたところを走るので、倒木や落石を警戒してか「制限25km/h」となっていて、列車はとてものろい。
景色を眺めるにはちょうどよいが、芦田川はきらきらと陽光を反射してまぶしいし、車内は暖房と日差しとで暖かい。川のまぶしさについ目を閉じると、そのままウトウトしそうになる。途中駅での乗り降りもなく、列車は淡々と走るものだから、僕はいつの間にか寝ていた。
ふと気がついて薄目を開けると、右側の車窓にはなだらかな段々畑と、その背景に立派な入母屋造りの家並みや学校が見える。河佐であった。広々とした盆地に、「山陽とはこのことか」と思わせるぐらいに日差しが降り注いでいて、暖かそうなところである。1人降りていくが、誰も乗ってこない。
ここから線路は芦田川をいったん外れ、長いトンネルに入る。全長6,123メートルの八田原トンネルで、20年前にここを通った時は、エンジンの音がやたらと車内で共振して頭が痛くなった覚えがある。残念ながら今回も同じで、トンネルの真ん中で気分が悪くなってきた。「早く抜けてほしい」と思うが、さすがに6kmは長い。息も絶え絶えに、やっとの思いでトンネルを抜ける。
備後三川からは芦田川の支流に沿ってさかのぼっていく。谷がだんだん狭くなってきて、分水嶺が近いことを思わせる。谷といっても屹立した山ではなく、こんもりとした丘陵の間を列車は走る。このあたりは吉備高原である。相変わらず日差しは刺すように強く、車内は暖かい。車窓にも特段見るものがないので、再びウトウトする。
人の動きを感じて目を覚ます。上下(じょうげ)という駅で、ここは府中以来、久しぶりの大きな駅である。数少ない客がさらに降りて、車内は4人になる。文字通りここで上下の列車がすれ違うが、向こうの列車には3人しか乗っていなかった。さびしいものであるが、これが福塩線の日常なのだろう。
甲奴(こうぬ)では、ホームに母親らしき女性と3人兄妹が立っている。親子での列車見物かと思ったが、そのうちの小学校低学年ぐらいの男の子だけが列車に乗ってきて、残った母親と兄妹がホームから手を振っている。男の子は口を真一文字に結んでその見送りに手を振り返す。風体からしてそんなに遠くにいくようには見えないが、それでも男の子にとっては大いなる旅路なのであろう。
振り返れば、小学生の頃、ひとりで電車に乗るのは一大イベントだった。知らない電車や土地への期待と不安が入り混じったあの頃の胸のときめきは、もうどこかに消え失せてしまった。それでも旅を続けているのは、いまだにあのときめきを取り返そうと、年甲斐もなく悪あがきをしているからに他ならない。
もっとも、歳をとったからこそ知ったこともある。その最たるものは、「車窓はおもしろい」ということである。若い頃は電車に乗っていればそれだけで満足で、車窓など二の次であった。あの頃は新幹線や特急などに乗りたくても乗れるだけの金がなかったので、仕方なく鈍行に乗っていたが、今はあえて鈍行に乗って、車窓をじっくりと見るのが好きでたまらない。我ながら枯淡の境地だと思う。
列車は、自らの影を車窓の友に、吉備高原をのんびりと進んでいく。車窓から見えた家の大広間に、大きなひな壇が設えられているのが一瞬だけ見える。春が近いことを改めて思う。備後安田の駅には「ユキワリイチゲ」と書かれた看板が出ている。ユキワリイチゲは漢字で雪割一華と書き、雪を割って一輪の花を咲かせることから、春の到来を知らせる花であるという。
その備後安田から、列車はブナや樫の森に囲まれた小さな峠を何度も上り下りする。いつの間にか分水嶺を越えたようで、吉舎(きさ)の先で寄り添ってきた川は、列車と同じ方向に流れていく。
福塩線最後の駅である三良坂で2人乗ってきて、もったいぶったように列車はゆっくりと走る。見上げるほどの高い位置に場内信号機が立っているのを見る間もなく、右手から芸備線の線路がそっと寄ってきて、列車は16時38分、福塩線の終点である塩町に着く。
終点であるが、誰も降りない。先にも述べたが、この塩町駅は福塩線の終点であるが、列車は三次まで行く。傾き始めた太陽を受けながら2分停まる。その間に部活帰りらしき高校生たちが6人、にぎやかに乗り込んでくる。
僕が20年前に福塩線に乗った時、彼らはまだこの世に生まれていなかった。そもそも僕自身が高校生であった。そう思うと20年は長い。
世間様のようにまっとうな人生を送れる能力が、この僕にも備わっていたのであれば、福山の改札口で見かけた女の子、あるいは甲奴で乗ってきた男の子のような年齢の子どもが、自分にいてもおかしくない年月である。だが、その20年を、僕はその無能と無欲と無神経がゆえに、無為に過ごした。過ぎ去った年月は戻らない。
かといって、これからの20年を展望してみても、20年も経てば僕は初老の域に入る。すでにポンコツとなり果てたこの身体のことである。20年後には、この肉体がこの世に存在しているかどうかもわからない。実はすでに人生の折り返し地点を過ぎたかもしれないと思うと、仕事などさっさと投げ出して、少しでも早いうちに、できるだけいろいろなところへ旅をしなければという焦燥感だけがつのる。長らく塩漬けにしている路線にも乗りにいかねばならない。焦っても仕方がないが、時間は待ってくれないことは、この20年でよくわかった。
そんな僕であるが、一つだけ断言できることがある。
どこまでも、いつまでも列車に乗っていたいという気持ちだけは、20年前も、今も変わらない。そしておそらくは、20年後も不変であるということだ。
僕が20年という月日に思いを巡らせているうちに、列車は2分間の停車時間を終えて、エンジンを震わせて三次へと動き出した。
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