2020年5月6日水曜日

僕と列車が落ち合うとき(2020年2月 木次線)

 2020年2月23日、日曜日。スマートフォンのアラームで5時20分に目を覚ます。
 ホテルの部屋から窓の外を見る。三次の空はまだ暗く、灰色の雲が垂れこめているが、雲の密度は薄い。どうやら雨は降らなそうである。
 今日は木次(きすき)線に乗ろうと思う。昨日の福塩線は20年も空いてしまったが、木次線は6年ぶりの訪問である。

 チェックアウトのためフロントに下りていくと、くじ引きが置いてある。係の人に言われるがままに引いてみる。6等とのこと。イチゴ味のあめ玉がもらえる。ありがたくもらっておく。
 子どものようにポケットにあめ玉を忍ばせて、今日は木次線に乗れるのだと少しく愉快に思いながら三次駅まで歩く。時間にして10分ほどの距離だが、盆地だからか、底冷えして寒い。昨日は邪魔でしかなかったダウンジャケットの前ファスナーを思わず締め、持参したマフラーも巻く。


 駅に着くと、赤いディーゼルカーが5両もつながっていて、その地方路線離れした列車の長さに瞠目する。6時39分発の芸備線広島行きである。これは広島着8時25分なので、平日であればちょうど広島都市圏の朝のラッシュの真っただ中に入っていくわけだが、ラッシュのない日曜日に5両もつなげてどうするのかと思う。
 だが、長い列車は風格があってよいとも思う。ことに最近の地方路線の列車は短い編成が多く、3両もつながっていれば御の字である。短い列車は、どうもせせこましく感じる。列車としての風格や迫力がない。そんな僕であるから、旅先の地方路線で出会った列車に、4両や5両もつながれているとうれしく思う。

 6時39分、定刻通り広島行きが出ていく。5両のエンジンが一斉に轟音を立て、排煙を残して去っていくのをホームの端で見てみる。数えてみると、5両で3人しか乗っていない。
 空いている列車を見ると乗りたくなってしまうが、僕が乗るべき列車は広島とは逆方向の備後落合行きである。同じ芸備線なのに、こちらは銀色1両のディーゼルカーで、6時55分の発車を静かに待っている。バスのような折り戸を手で開けて車内に乗り込む。


 三次を出て、塩町を過ぎたあたりで、昨日通った吉備高原が右手に見えてくる。ちょうど、その真っ黒な山塊の向こう側から朝日が昇ってくる。
 まず、後光を受けた稜線の木々のシルエットが、1本1本が識別できるぐらいにありありと浮かんでくる。そのうちに雲間から四方八方に光の帯が伸びていくのが見え、やがて雲のちょうど欠けた部分に真っ白な太陽が姿を現し、こちらを照らし始める。それにあわせて、さっきまで薄暗かった田んぼやあぜ道がだんだんと明るくなっていく。
 日の出や夕暮れなど、毎日のように見ている光景のはずなのに、旅先で見るとその神々しさに陶然とすることが多い。

 備後庄原から線路は西城川に沿って山あいに入っていく。並んで流れる西城川の流れがとても速い。
 西城川は三次で江の川と合流し、最後は日本海に流れ出る。駅名でも明らかなように、このあたりは「備後」であり、まぎれもなく山陽のはずなのだが、水系は日本海、すなわち山陰を志向している。
 そのせいか、車窓がだんだんと「山陰」に変わっていくような感じがする。それまで黒一色だった家の屋根瓦に、石州瓦の赤茶色が混ざりはじめた。
 だが、備後西城の手前の築堤から見下ろす街並みの屋根は真っ黒であった。あたかもここが山陽最後の関所であるかのように、黒い瓦の家並みが盆地に広がっているのは圧巻である。
 比婆山の先で線路脇にわずかな残雪を見て、8時16分、備後落合着。駅に着く直前、左後方から今日乗る木次線の赤茶けた線路が亡霊のように現れて、さあ木次線だぞと気分が高まる。


 備後落合では9時20分発の木次線木次行きを待つことになる。
 この駅には5回ほど来たことがあるが、静かな山あいのジャンクションという感じがして好ましい。初めて訪れたのは2012年の9月、それも夜であったが、その時は暗闇の中、列車のエンジンの音と虫の声だけが辺りを包んでいて、銀河鉄道か何かの世界に紛れ込んだような気持ちになった。
 それ以来、僕はこの駅が好きになった。僕は備後落合に一目惚れをしたことになる。
 今日も列車のエンジンの音しか聞こえない。ホームの柱には「通票よいか」「信号よいか」「旅客よいか」と標語が書いてある。通票とは列車の衝突防止に使う通行手形のようなものであり、システムの近代化とともに既に使われなくなって久しい。
 それに無人駅となった今では、この標語を見る駅員もいない。見る人間がいないのであれば、書いていないのと同義である。消す手間をかける必要もないのであろう。時間が止まったような駅である。


 備後落合駅は芸備線と木次線の分岐駅として設けられた。駅名の「落合」も、地名からではなく、芸備線と木次線が「落ち合う」から名付けられたという。
 新幹線や特急が今ほど走ってなかった時代、広島と松江や出雲を結ぶ最短ルートの要衝として、かつて100人以上の鉄道員が働いていたというだけあって、その構内は広く、たくさんの蒸気機関車や客貨車がたむろしていたことは何となく想像できる。
 その代わり、街ではなく鉄道自体が必要として作り出した駅であるため、駅の周りには特に見るものはない。さて、1時間をどう潰すか、と思案する。ここにいるだけで満足であるが、さすがに1時間も駅のホームをうろうろするのはバカバカしいし、単なる挙動不審者である。どこかに監視カメラがあって通報されるかもしれない。
 かといって駅の周りでも歩いてみるかと思うが、駅備え付けの温度計は5度を指している。さすがに寒く、出歩くのはためらわれる。ここには駅ノートが置いてあったはずだと思い返して、それを見るために待合室に入る。


 ドアを開けると、駅ノートはもとより、備後落合駅の歴史の紹介や昔の写真がたくさん飾ってあった。これは以前に来たときはなかった。ホテルでもらったあめ玉をなめながら展示物を眺めていると、どこからともなくおじさんがやってきて、あいさつもそこそに電気ストーブをつけてくれた。
 話を聞くと、この方こそが駅にいろいろな展示を施した仕掛け人で、元は国鉄で蒸気機関車の機関士をしていたという。近くに住んでいるので、列車の時間に合わせて駅に来て、僕のような訪問者に、かつての備後落合駅の殷賑ぶりや除雪などの苦労話、鉄道員たちの生活の様子などをボランティアでガイドしているともいう。
 写真について説明を受けたり、いくつか質疑応答すると、おじさんがボランティアを始めた理由を語ってくれた。
 「ほら、三江線が廃止になったでしょ。あれの二の舞になってはいかんと思って…ガイドを始めました」
 おじさんは「思って…」のところに少し間を取った。僕は思わず「ああ…」とうなった。

 三江線とは、僕が泊まっていた三次から、江の川沿いを日本海に下る路線であるが、残念ながら2018年の3月に廃止となっている。僕も1度だけ乗ったことがあって、車窓のほどんどに江の川が見えるものだから、ひたすら川下りをしているような気分になる路線であった。
 言い方を変えればそれは風光明媚ともいうが、乗り合わせた客に地元の人はほとんどおらず、僕のようなよそ者ばかりであったと記憶している。僕が垣間見たかぎりでは、三江線は鉄道としての社会的な使命をほぼ喪失していたように思う。
 三江線は沿線での存続運動も起きたが、それでも結果として廃止されてしまった。それを考えると、芸備線や木次線も、いつ廃止といわれてもおかしくない、そんな危機感がおじさんを突き動かしたという。


 だが、暗い話だけではない。時刻表に目をやると、4月から芸備線に臨時列車が走ると書いてある。
 「今度新見からの芸備線が試しに増発されるんですよ。こりゃあいろんな人に乗ってもらって、何としてもモノにせにゃいかん」
 おじさんは増発を知らせるチラシを僕に見せながら、うれしそうに、そして力強く語った。
 新見から備後落合までは1日3往復しか列車がない。それが試験的に4往復になる。もしこの試行列車に乗客が定着すれば、この駅ももう少しにぎわうかもしれない。この山間の寂莫とした駅にとって、そのインパクトの大きさたるや、よそ者の僕には想像しえない。
 おじさんのうれしそうな姿を見て、ただ乗るしか能がない僕は、はたしてここまで鉄道を愛しているかと自問自答させられる。
 愛とは、他者のために発露する感情である。
 ひるがえって僕はというと、鉄道は好きであるが、自己満足のために列車に乗っているだけである。これは愛とは呼べない。よって、自分の行っていることが何かを生み出すとか、誰かを動かすとか、よもや社会を変えるなどとは思ってもいない。
 だが、もしそれが微々たるものでも、乗客減に苦しむ鉄道の救いの足しになればうれしいとは思う。
 僕は備後落合駅と落ち合った時、一目惚れをしたわけだが、それが好意から愛に到達するにはまだまだ思い入れが足りない。

 おじさんは備後落合駅のことだけでなく、木次線についても話をしてくれた。
 「ここ備後落合駅の標高は海抜452メートル。2つ先の三井野原駅は726メートル。三井野原はJR西日本の駅では最高地点で、ここから33‰の急こう配を下っていく」とか「三井野原を出たら、ぜひ左の車窓をごらんなさい。国道のループ橋と、今から降りていく線路が見える」などと教えてくれる。
 いろいろと話しているうちに、その木次線のディーゼルカーが1両でやってきた。
 これが折り返し9時20分発の木次行きとなる。9時台の列車であるが、備後落合駅にとっては木次線の「始発」となる。
 芸備線の本数も少ないが、木次線も負けず劣らずの閑散線で、ことに備後落合発着は1日3往復しかなく、9時20分発を逃すと14時41分までない。今回僕が三次に泊ったのも、この「始発」に乗りたいがためであった。
 旅程を組むにあたり、時刻表とにらめっこしてみたが、14時41分発だと岡山や広島からも当日アクセスができるので混雑するかもしれないと思い、かといって最終の17時41分発だと時間帯が遅すぎて肝心の車窓が見えないので乗りたくない、などと考えた。そうすると必然的にこの9時20分発に狙いが定まるというわけである。
 「列車が来たようですので、ガイドはここらで終わりとします」と、おじさんは僕を送り出す。僕もお礼を述べる。


 ホームで見送るおじさんに手を振りながら、僕は木次行きの客となった。
 車内はロングシートで、僕の他に男性が2人乗っている。どちらも芸備線から乗り継いできた人で、僕と同じように木次線に乗るのが目的のように思われる。備後落合で見ていたら、ひとりはおじさんと顔見知りだったようだ。「常連」なのだろうか。それにしてもこの列車、運転士1名で3名の客を運ぶ。輸送効率としてはタクシー並みである。備後落合のおじさんの危機感もわかる。
 備後落合駅を出て、先ほどまで乗ってきた芸備線が左に分かれていくと、すぐに列車は登りにかかる。
 右側の車窓は見上げるような崖に杉がみっちりと植わっていて、反対側は谷になっている。谷底は西城川で、水は列車と反対方向に流れていく。西城川が蛇行しているところでは対岸に渡って、崖と谷の位置関係が逆になる。
 列車は25km/hぐらいの速度でそろりそろりと走る。昨日の福塩線もそうだったが、JR西日本の山岳線区はおしなべてゆっくり走る。
 それにしても、線路は絶えず右へ左へと取って返して敷かれている。ワインディングとはこういう道を指すのだろう。よくぞこんなところに線路を敷いたと思う。今しも木次線と並走する国道314号をアウディの白いクーペが軽快にこちらを抜いていく。ここは車で走っても、列車で通っても楽しいところだと思う。僕はできれば列車で通りたいが。


 備後落合から一つ目の油木(ゆき)駅に到着するというところで、列車がおもむろに停まった。
 運転士が車内放送で「線路に竹が倒れているので停車しました」という。
 こういうときばかりは、ゆっくり走っていてよかったと思う。いや、こういうことがあるからゆっくり走っているのかもしれない。
 もし、都会の電車のような速度で走っていたら竹は突き飛ばされるだろう。だが、車両だってタダでは済まされまい。ブレーキの配管でも曲げてしまったら列車はそこから動けなくなる。そういうリスクを避けるためには、ゆっくり走るのが一番である。
 それにしても、こんな山奥では竹を撤去するための作業員を呼んだところで、相当な時間待たされるのではないかと、少し心配になる。これが都会の路線だったら、列車の運行を止めるまいと、最寄りの詰所からチェーンソーなりノコギリなりを持った係員がすぐに飛んでくるだろう。
 木次線のこの区間の列車は1日3往復で、当然ながら乗客も数えるほどである。列車が数時間止まっても大勢に影響はないと思われる。何よりも周囲には作業員の詰所どころか、人家もほとんどない。

 僕の心配をよそに、運転士は、業務用の携帯電話でどこかに状況を報告すると、「これより竹を撤去しますのでしばらくお待ちください」とアナウンスし、カバンから小さなノコギリをひょいと持ち出して、最後に運転台のいろんな装置や鍵を指差し確認してから線路に降りていった。
 どうやら作業員など呼ばず、自分の手で片付けるらしい。ワンマン運転なので、車掌はいない。車内には僕たち乗客3人が取り残された。
 竹となると、ひとりで退けるには骨を折る作業になるだろう。もしかしたら手伝いが必要かもしれない。そう思って、僕も思わず運転席のところまで行って様子を見る。僕につられてか、他の2人も運転席の後ろにやってくる。何だか大捕り物を見ている野次馬のような心持ちになる。
 3人そろってフロントガラス越しに前を見てみると、何のことはなく、運転士は七夕飾りで使う笹のような細く短い竹と格闘している。手伝う必要はなさそうだと安堵するとともに、僕は運転士がノコギリを携帯していることに仰天して、思わず横にいた男性に「ノコギリなんて持ってるんですね」と驚嘆の言葉を漏らしてしまった。男性も同意したようだった。
 切り取った竹を無造作に線路脇の竹やぶに投げると、運転士は再び携帯電話でどこかに連絡し、「お待たせしました。安全確認が取れましたので発車します」と発して列車を動かした。安全確認が取れたことは、乗客全員でその始終を見ていたので分かっていることではあるが、運転士の職務の基本への忠実ぶりと律義さには頭が下がる思いがする。


 列車は油木駅で一休みすると、エンジンを震わせて再び動き出した。なおも倒木などを警戒するかのようにゆっくりと走る。上り勾配もきつい。標高が上がるにつれて、植生が杉から樺と熊笹に変わり、ともすると北海道の路線に乗っているように錯覚する。
 油木から走ること10分、ようやく谷間から抜け出して、あたりが開けると、左にスキー場が見えて三井野原に着く。備後落合駅にておじさんに言われた通り、ここから左の車窓を見る。
 眼下には国道314号がとぐろを巻いている。これは奥出雲おろちループと命名されている。無論、おろちとは日本神話のヤマタノオロチのことである。
 8人娘を持つ老夫婦が、毎年のようにヤマタノオロチにかわいい娘を食べられてしまい、最後の娘だけは食べられまいとスサノオがこれを退治したら、尾っぽから草薙の剣が出てきたというアレである。
 蛇のように長いループ橋と神話のヤマタノオロチと掛けているわけであるが、僕の世代がヤマタノオロチと聞くと、どうしてもドラゴンクエストⅢの中ボスを思い出してしまう。
 ループ橋は、いかにも出雲の伝説にちなんだ名前を付けていますよといった風であるが、娘を食べてしまうあたり、少なくともヤマタノオロチはいい奴ではないだろう。悪役の名前がついた建築物というのも珍しいのではと思う。


 なおも左の車窓を見下ろすと、やがてこじんまりとした駅が遠望できる。これが今から向かう出雲坂根駅で、周囲を圧倒するほどのスケールのループ橋と比較すると、その姿はいじらしくもある。
 列車は慎重に坂を下っていく。やがて左下に別の線路が現れ、こちらの線路と合流して行き止まりとなる。その合流地点となる分岐器の上には雪除けの屋根がついている。
 列車はその行き止まりの線路に入り、一度停まってからバックで出雲坂根駅に着く。
 ここのホームには延命水と呼ばれる湧水があり、本来であれば3分停まるので賞味する時間があるはずだったが、例の竹の処理に時間を食われたためか、すぐに発車時刻になってしまう。
 ホームに『ここは出雲坂根駅です』『三段式スイッチバックの停車場です』『標高564m』と書かれた看板が建っているのを車内から見送る。駅ではなく停車場という表記に風情を感じる。
 駅の奥は行き止まりなので、列車は進行方向を再び変えて動き出す。


 出雲坂根を過ぎてしまえば、あとは木次、そして終点の宍道(しんじ)までひたすら坂を下るだけである。風景は単調な丘陵地帯で、線路はそれを縫うように右へ左へカーブする。列車の揺れや線路の継ぎ目の音が心地よく、車内は暖房も効いている。おまけに今日は早起きとなると、これは寝るなというほうが難しい状況である。不随意に落下してくる瞼を随意でこじ開けて外を見ていると、茶色い屋根瓦が増えてきたことに気づく。ようやく山陰に来た実感が出てくる。
 途中の出雲横田でたくさん乗ってくる。おばさんや小さな女の子を連れたお母さんなど、ほとんどが地元の人のようだ。列車は変わらずのんびり走っていく。


 車窓は木次線の見せ場はすべて終わったというような風に、さっきから同じような風景を飽きることなく繰り返している。出雲三成で下り列車とすれ違ったのを見届けると、僕はついに睡魔に負けて居眠りしてしまった。僕が寝ている間に、列車は木次駅の手前まで進んでいた。
 11時31分、列車は定刻より4分遅れて木次駅に着く。この列車は木次止まりで、次の列車まで45分ほどあるので、駅を出てみる。
 駅前広場から左に曲がると旧街道らしき道がある。おもしろそうなので少し歩く。道すがら、風格のある旅館が残っていて、昔ここを歩いて通った旅人に思いを致す。
 昼時なので飯を食おうと思うも、開いている店がどこにでもありそうな中華料理屋しかなく、あまり気乗りしない。何も食わずに適当に街をぶらついて駅に戻ると、先ほど乗ってきた車両の行先表示が「宍道」に変わっていた。


 木次12時16分発の宍道行きは、座席の半分が埋まるぐらいで出発した。
 車窓に見るべきものは特にないが、途中に「南大東」という駅があり、思わず南大東島を想起する。
 これは駅の所在地のかつての町名である「大東町」にちなんでいるのであるが、神話の国・出雲を走る木次線の中で、はるか南洋に浮かぶ絶海の孤島を思い浮かべるのも何だか不思議な感じがする。出雲大東という駅もある。他に大東と名乗る駅はないはずなのに、なぜか旧国名の「出雲」がついている。
 何で出雲大東には「出雲」がついているんだろうかとか、南大東島もいつか行ってみたいと思ううちに、列車は12時50分、終着の宍道駅に着いた。
 気になったので、後で宍道駅の標高を調べたところ、海抜4メートルであった。三井野原駅から宍道駅までの距離は76.7キロメートルあまり。その間に722メートルを下りてきたことになる。


 前回、木次線に乗ったのは2014年の3月だった。
 その時はまだ鉄道路線の完乗を果たしておらず、この木次線がJR西日本管内で最後の一線であった。それがゆえに木次線を乗り終えた時の感慨は大きなものがあった。
 だが前回は折悪しく青春18きっぷの季節で混雑していて、車窓をまともに見ることがかなわなかった。車内も18きっぷの時期独特の殺伐とした空気が感じられて、居心地の良い空間ではなかったのも後味が悪かった。
 今回はそれほど感慨はないものの、空いている車内からじっくりと木次線の車窓を見れたのは大きな喜びであった。同じ路線でも列車の混雑の度合いや自分自身の心持ちが違うだけで、まったく違う風景が見えることはわかっているつもりだが、木次線は身をもってそれを再認識させてくれたわけである。

 ただ、前回も今回も冬に乗ってしまった。願わくば、次は冬ではない季節に木次線に乗ってみたいと思うが、いつになるかわからない。
 今のように木次線全線を走る列車が1日3往復だけでは、おいそれと乗りに来れない。だが、そう簡単に乗せてくれないところが木次線の魅力でもある。僕のような電車乗りは、本数が少ない路線ほど何とかして乗ってやりたくなる。これは電車乗りとしての本能である。
 芸備線や木次線の気難しい時刻表と再びにらめっこして、1日数本の貴重な列車と落ち合う日を楽しみに、僕は山陰本線の鈍行で宍道駅を後にした。

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