木次線を乗り終えた僕は、松江で一畑電車に寄り道をして、出雲市から山陰本線のディーゼル鈍行で米子駅にやってきた。
列車から降りた僕を、「4番のりば」と書かれた古めかしいアンドン看板が迎えてくれる。時刻は18時。日の落ちかけた米子駅のホームは、思ったよりも寒い。
米子の駅に降り立つのは何年ぶりだろうか。しばし記憶を省みて、24年ぶりだと気づく。
中学2年の春休みに挙行した、生まれて初めての山陰旅で降りてから、爾来、僕はこの駅を列車で通るだけで、改札を通るどころか、乗り換えでプラットホームに降り立つことすらなかった。ローカル線の小駅ならまだしも、これだけの大きな駅でありながら、これほどまでに降りる機会がない駅も珍しい。
無論、長らくの間この駅に来なかったのはわざとではなく、たまたま降り立つ用事がなかっただけであるが、24年もご無沙汰している駅に降り立つのはさすがに感慨深いものがある。他の乗客が足早に改札口や乗り継ぎの列車へと急ぐ中、僕は4番のりばから改札へとつながる跨線橋を、ここに来た余韻を味わうように、一歩一歩じっくりと踏みしめながら渡る。
旅では、ずっと忘却していた記憶が、何かの拍子に急に思い出されることがある。
跨線橋を踏みながら、24年前、駅近くのそば屋で、ひどくまずいそばを食べたことを思い出した。あの時僕は親父と一緒に山陰の旅をしていて、親父も僕も飯には頓着しない性格だから、夜、米子に着くなり目についたそば屋に入った。そんな親子ですら、店を出た後に口をそろえて「まずかった」というぐらい、ひどい代物だった。親父と昔の旅の話をすると、いまだにその話が出るぐらい、お互いの記憶にこびりついている。人間、うまいものは忘れやすいが、まずいものはいつまでも覚えている。
ホテルに荷物を置くと、僕はそのそば屋を探しに米子の街に繰り出した。24年ぶりに不出来なそばを食べたいわけではなく、ただその店がどうなったのかを純粋に知りたいと思ったのである。今度親父に会ったら、例の店の現状を報告したいとも思う。
だが、残念ながら、それらしき店は見つからなかった。廃業したのか、はたまた移転したのかは定かではない。24年という月日が、物事を変えてしまうには十分に長い時間であるのは、概念としては理解しているが、そば屋という具象を通すと、それが実感として胸に迫る。
この24年間、僕はいったい何をしてきたのか…。昨日の福塩線でも僕の胸をついた「時の流れ」が、昨日と同じように僕をさいなむ。
過去というものは、考えたところで、あるいは振り返ったところでどうにかなるものではない。それでも思わざるを得ないのは僕の弱さのせいのような気がして、僕はそれから逃れるように飲み屋を探し当て、扉を開けた。地元の人しかいないような立ち飲み屋であるが、衰弱した僕には人の気配がありがたかった。
昔、この街でそばを食った鉄道好きの中学生が、鉄道好きのまま汚らしいおっさんになり果てて、今度は飲み屋のすみっこで小さくなって酒を呑んでいる。そんな不思議な巡り合わせに思いをはせているうちに酔いが回ってきた。
気持ちと記憶の整理がつかぬまま、僕は帰りしなのスーパーで缶ビールを買ってホテルに戻り、また呑んだ。ひとりは寂しいが、そばと違って缶ビールはいつどこで呑んでも同じ味なのが、唯一の救いであった。
明くる朝の2020年2月24日月曜日、僕は米子駅の0番乗り場に向かった。お目当ては8時31分発の境線・境港行きである。米子で降りたのも24年ぶりとなれば、無論この境線に乗るのも24年ぶりとなる。
境線は、米子を起点に、山陰屈指の良港を擁する境港までの17.9kmを結ぶ路線で、今でこそ日常や観光の足として利用されているが、そもそもは山陰本線建設のために境港に陸揚げされる鉄道資材を、米子や松江に運ぶために建設された山陰最古の鉄道である。
その完成は1902年であるから、かれこれ120年近く経っている。120年の歴史を持つ路線に、僕は24年ぶりに乗る。つまり境線の長い歴史のうち、5分の1ぐらいを僕は境線との付き合いなしに過ごしたと思うと、再会の感激もひとしおである。
そば屋は見つけられなかったが、境線は24年前と変わらずに、0番乗り場で僕を待っていた。
ただ、車両の様子が前とだいぶ違う。記憶の中の境線は白い車体に青い帯のディーゼルカーであったが、今回は車体にいろいろとキャラクターが描いてある。
よく見ると「ゲゲゲの鬼太郎」の砂かけ婆が、車両の前面からこちらを真っ赤な目で睥睨していてギョっとする。もう1両を見ると、こっちはこっちで車体のあちこちに子泣き爺が居座っている。
境線の終点である境港は「ゲゲゲの鬼太郎」の原作者である水木しげる先生の出身地で、その縁で境線の列車にも「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが描かれていて、米子駅の番線案内も0番乗り場ではなく「霊番」乗り場と称している。途中の各駅にも妖怪がいるという設定で、本当の駅名の他に妖怪の名前がつけられている。米子は「ねずみ男駅」で、終点の境港は「鬼太郎駅」という具合である。
何よりも妖怪が描いてある車両自体が40年選手の古いもので、車両もそのうち妖怪扱いされそうである。10年ぐらい前までは日本中で走っていたタイプの車両であるが、ここのところ徐々に数を減らしているようで、旅先で出会う機会も少なくなってきた。
砂かけ婆と迷った挙句、僕は子泣き爺のほうに乗ることにした。
僕が選んだボックスシートの背もたれも、一部が破けて子泣き爺がこちらを見ている演出がなされている。もとい、演出ではなく彼はここにもともと「いた」のである。僕が勝手に彼のナワバリに入っただけで、いつ抱き着かれて石にされるかわからない。僕はかつて3回も結石で苦しんだことがあるので、石はできればお断りしたい。
かように石持ちを震え上がらせる子泣き爺であるが、実は大の酒好きで、いつも腰に酒の壺を下げているところを見ると、実は僕と気が合うのではないかとも思う。僕もかくありたいと思うし、背負っているリュックサックにもスキットルが入っているが、酒を補充する機会を逸していたのであいにくカラのままにしている。子泣き爺の酒壺から、酒を少し分けてはくれまいかと思っているうちに発車時刻となった。
駅の発車案内や車内放送ではしきりにワンマン列車と案内されていたのに、なぜか後ろの運転席に車掌が乗っていて、その笛の音とともに列車は米子を出る。24年前は、夜に乗ったので車窓がほとんど見えなかった。今回は朝なのでじっくりと外を見ることにする。
列車は、エンジンをふかして山陰本線と少しだけ並んで走ったかと思うと、プイと曲がって弓ヶ浜半島に進路を取る。その分岐の様子が富山県を走る氷見線の高岡駅にそっくりだなと思っているうちに、最初の停車駅である博労町(ばくろうまち)に着く。この間わずか1kmで、都会の地下鉄のような駅間距離である。そこからちょこちょこ走った富士見町では2人乗ってくる。3分も走らず次の後藤に着いて、ここでは6人降りていく。
JRの地方路線というと、ともすると長い駅間をゆったりと走って、車内の乗客の様子も鷹揚としていることが多いが、この境線は短い駅間をせせこましく走り、客も大都市の私鉄電車や路面電車のように数駅だけ乗って降りるという使い方をしている。
これはおもしろいと車内や車窓を観察していると、はたして次の三本松口という駅のそばの踏切ではたくさんのクルマたちが待っていた。こちらはそれにお構いなしに客を乗せたり降ろしたりしてからのろのろと駅を出発するものだから、クルマたちを相当にイライラさせている。これは完全に私鉄電車の風情である。
山陰の鉄道は旅情にあふれたものだとばかり思い込んでいたが、境線においては旅情よりも日常のほうが色濃くにじみ出ている。山陰最古の鉄路がこのような使い方をされているのはかえって味わい深いとも思う。
その代わり、車窓は米子市郊外の住宅地で、面白いものは見当たらない。河崎口の目の前の学校では少年野球をやっているので少し眺める。こちらは高校生が3人降りるので少し停まっているが、球がピッチャーとキャッチャーの間を3往復するかしないかのうちに出発する。
弓ヶ浜という駅で反対列車とすれ違う。向こうの列車を待たせていたが、こちらも出発の信号機が赤なので駅の手前で自動列車停止装置、いわゆるATSの警報が運転席から聞こえる。この警報は、JRの地方路線に乗るとよく聞く音で、擬音語で表せば「ジリジリ」と「キンコン」となるだろうか。
ATSについて、僕は不確かな知識しか持ち合わせていないのだが、一口にATSと言ってもいろいろ種類があって、この音を出すのはATSの中でもS型と呼ばれるものだと記憶している。
「ジリジリ」は簡単に言えば「赤信号が近づいていますよ」というお知らせで、警報だけあって昔の目覚まし時計のような、かなり耳障りな音である。それに運転士が「わかったよ」とブレーキ操作とスイッチで応えると「キンコン」に変わるという仕組みになっている。キンコンは電子音のように聞こえるが、実は鉄琴を叩いて物理的に音を出していると聞いたことがある。だが僕は、あいにくその機械を実見したことがないのでよくわからない。
詳しい仕組みはともかくとして、このジリジリキンコンは日本全国どこでも聞くことができる。北海道の雄大な原野を走る列車でも、東北や山陰の海沿いをのんびりたどる列車でも、関東平野のど真ん中で空っ風に震えながら走る列車でも、四国や九州の急峻な山中をあえぎながら行く列車でも、ATSだけはみな同じ音がする。あまりにも津々浦々で聞くので、もはやこの音は旅の風情の一部にすら思えてくる。
客からの使われ方は私鉄風な境線であるが、この音を聞くとやはりJRの路線なのだなと思わされる。
なぜか出発の時にもジリジリが鳴ったが、何事もなく列車は弓ヶ浜を出発する。ここから列車は少しスピードを上げて走り、和田浜、大篠津町と進んでいく。車窓は生コンプラント、鉄くず置き場、いろいろな業種の工場、田畑、宅地、学校と何でもあるが、相変わらず見るべきものもない。わずかに遠景の松林だけが目をなぐさめる。この松林は海風をしのぐために植えられた人工の林である。弓ヶ浜半島は全長約17km、幅約4kmの細長い形をしているが、境線はその真ん中を走っているので、車窓から中海や日本海を臨むことはできない。
つまらなく走り続けていた列車は、おもむろに右へカーブして米子空港の滑走路をかすめる。24年前に来た時は、暗闇の中にぼんやりと、しかし整然と並んだ自衛隊の飛行機が見えたのを覚えている。滑走路と線路は並行であったように記憶していたが、それは僕の勘違いだったらしく、今見ると滑走路と線路の位置関係は直角であった。この米子空港も僕がしばらく来ない間に「米子鬼太郎空港」と改名されていて、この界隈の「ゲゲゲの鬼太郎」への傾倒ぶりに目を見張る。
その米子鬼太郎空港のそばに米子空港駅がある。空港接続駅とはいえ、ホームが1つあるだけの質素な造りで駅舎もなく、駅員がいる気配はない。駅名に「空港」と付く駅で、ここまで簡易な造りのものは他に思い当たらない。
もとより空港接続駅に降り立つ客の大多数は空港に用があり、駅に用事があるわけではないので、大きな駅舎はいらないし、駅員もいなくてよい。
この米子空港駅、副駅名としてべとべとさん駅と名乗っていて、駅名標にもその不気味な姿が描かれている。べとべとさんは夜道を歩いていると不気味な足音を立ててこちらの後をついてくる妖怪で、姿は見せず悪さをするわけでもないが、「お先にどうぞ」と言うとその足音は消えるという。
飛行機にべとべとさんを連れて乗ってしまったら、あの狭い通路でどうやってべとべとさんを先に行かせればよいのか悩んでしまうし、譲られたべとべとさんも先に行けなくて困惑することだろう。
この米子空港駅であるが、ここはもともと大篠津駅と名乗っていた。
米子鬼太郎空港の滑走路の延長に伴い、2008年に線路が移設され、それを機に大篠津駅は米子空港駅に改名したが、それだけ聞くと、改名までは先ほど通った大篠津町と大篠津という駅が並んでいて紛らわしかったのではと思う。気になったので調べてみると、大篠津町はもともと御崎口と名乗っており、大篠津が米子空港に改名される際、地元から「大篠津」の名前を残してほしいと要望があり、御崎口を大篠津町に改めたという。
何とも紛らわしい話だが、僕の関心は駅名の変遷よりも線路の移設にあった。
2008年に線路が移設されたということは、僕が24年前の1996年に通過した線路と、今日通過している線路は別のところに敷かれていることになる。滑走路を迂回するため、距離にして800メートルほど延びているが、JRとしてはこの800メートルを新線として認定せず、境線のキロ程にも加算しないと判断した。
つまり「1996年と2008年の境線を比較すると、実距離は延びているけど路線の戸籍上の長さは変更しません」というのがJRの公式見解になるわけである。
だが、これは運賃計算やきっぷのルール上の問題であって、「乗れる路線は徹底的に乗る」という僕の志向とは相いれないものがある。ましてや僕の完乗達成前に経路が変更されているとなると、戸籍上は全国の全線に完乗したのに、実は800メートルだけ乗っていない区間があったことになる。完乗の達成を宣言してしまったから、それを取り返すこともできないと思うと実に気持ち悪い。
2008年の線路移設から、2014年の10月に僕が全線完乗を果たすまでの6年間で、一度でも境線に乗っておけばこの不快感にも整理がついたのであるが、今では後の祭りである。
整理しがたい感情を抱いている僕を尻目に、列車は中浜、高松町、余子(あまりこ)、上道(あがりみち)、馬場崎町と進んでいく。
中浜は浜というが海は遠い。ATSの警報が聞こえるが、すれ違う列車もなく出発する。少し走って高松町で、駅の目の前に小さな神社が建っているのが見えるが、他には特に何もない。3人降りていく。余子の副駅名は僕が乗っている車両の絵柄である子泣き爺であった。
上道の駅名標を見ながら、僕は山陽本線の上道(じょうとう)という駅の存在を思い出す。アガリミチからジョウトウまでのきっぷを買ったらどのような券面表記になるのだろうと気になるし、同じ名前の駅同士を発着地とする旅も面白そうだと思っているうちに、列車は馬場崎町を出て境線最後の一区間に歩みを進める。
線路の両脇に家が建て込んできて、今度は氷見線の氷見の手前のような景色になったなと思う間もなく、列車は終点の境港駅に着いた。時間は9時15分、米子から約45分の小さな旅であった。
灯台を模した駅舎には見覚えがあったが、前回は夜で真っ暗だったこともあり、駅を一瞥するなりすぐに米子へ戻った覚えがある。今回は明るい時間に来たので、帰りの列車までの約1時間で街を歩いてみることにした。
駅に隣接した、というよりも駅の数倍も大きく、どちらかというと駅が付随しているようにも見える建物に入ってみると、階段の案内ひとつとっても不気味な感じの書体が使われていて、ここまでやるかと思わず目を見張る。
この建物は隠岐汽船のターミナルにもなっていて、「ご乗船のお客様は必ず乗船申込書をご記入下さい」などとある。さすがにこの看板は普通の書体で書かれていたが、離島への航路に思わず旅心をくすぐられる。隠岐に行くのであれば、あと3日は休みが欲しいところである。無職だった頃に来るべきだったとも思う。
駅から街の中心部へ向かう道は水木しげるロードと名付けられていて、妖怪の銅像が路傍にたくさん立っている。観光客も多く、鬼太郎や目玉のおやじ、ねこ娘、ねずみ男など人気のある面々のところでは観光客が入れ代わり立ち代わり記念撮影をしている。人が多いので、盲腸線の終着駅にありがちな陰鬱さがあまり感じられない。旅情はないが街としては人が多い方がよいに決まっている。
それにしても銅像が多い。これの全部をじっくり見ていては、とても1時間で街を回れなさそうなので、僕は水木しげる記念館の前庭にある「のんのんばあ」の銅像だけはしっかりと見ておこうと思った。
というのも、今から30年ぐらい前、NHKで「のんのんばあとオレ」という水木先生の少年時代を描いた自叙伝的なドラマが放送されており、劇中の水木先生と同世代だった当時の僕は、だいぶ感情移入してそれを観ていたのを思い出したからである。
のんのんばあの銅像を見て、観光客のいない道ばかりを選びつつ15分ほど適当に歩き回るうちに、境港の岸壁に出た。
天皇誕生日の振替休日だからか、それとも漁はとっくに終わったのか、大小さまざまな漁船が舫い綱につながれて休んでいる。漁港に来たからにはうまい魚を食べたいと思うが、時間はまだ9時半で、食堂はどこも開いていない。歩き回って疲れたのでコーヒーでも飲みながら休める喫茶店でもないかと探したが、結局こちらもすぐには見つけられなかった。駅に戻る途中、喫茶店を1軒見つけたが、ここでコーヒーを飲んでしまったら予定の列車に遅れてしまいそうなので断念した。時間に追い立てられることなくゆっくりと旅がしたいが、雇われ人の宿命で明日からは仕事である。今日中に東京に戻らなければならない。
駅に戻り、10時34分発の米子行きを待つ。あとはこれで米子に11時15分に着き、10分の接続でやってくる11時25分発のやくも14号に乗り継いで、岡山から新幹線で東京に帰るだけである。
旅が終わってしまう過程は、何度体験しても嫌なものである。できることならずっと旅をしていたい。ずっと旅をしている妖怪はいないものかとスマートフォンで調べてみたが、特にいないようであった。
そんなくだらないことを考えながらやってきた列車に乗り込むと、僕が座ったボックスシートには、鬼太郎が待っていた。その表情が何とも不思議なもので、こちらを見下ろすようにして、僕にもう帰ってしまうのか、もっと旅をしないのかと言っているような気がしてならない。
妖怪の世界には会社も仕事もないと聞く。
だとすれば、旅に生きるには妖怪になるのが一番よい方法のように思える。旅を続ける妖怪になれるのであれば、僕は妖怪に魂を売ってもいいと思う。だがあいにく、僕の魂を買ってくれたり、あちらの世界へといざなってくれる妖怪の知り合いが、僕にはいない。
帰りの境線の車中で、妖怪になるにはどうすればいいのかと、だいぶ真面目に考えたが、これといった方法は思いつかなかった。水木先生が描いた妖怪たちを見ていると、多くの妖怪がひたすらに同じいたずらを繰り返している。それは彼らの執念なのか怨念なのかわからないが、もしかしたら同じことを繰り返すことが、妖怪になる手段の一つなのかもしれない。
僕が繰り返しやっていることといえば列車に乗ることであるが、日本全国の鉄道全部に一度乗ったぐらいでは妖怪にはなれないらしい。もしかしたら、完乗を自称しながらも実は乗り残してしまった米子空港駅界隈の線路の怨念のせいかと思う。
僕は常に旅をしたいと思っていて、いつか自由に旅ができる身分になってやるんだと息巻いてはいるものの、残念ながら妖怪タビシタイは、まだしばらくの間は半妖のまま、娑婆という地獄で会社や仕事に刻苦しなければいけないらしい。
列車から降りた僕を、「4番のりば」と書かれた古めかしいアンドン看板が迎えてくれる。時刻は18時。日の落ちかけた米子駅のホームは、思ったよりも寒い。
米子の駅に降り立つのは何年ぶりだろうか。しばし記憶を省みて、24年ぶりだと気づく。
中学2年の春休みに挙行した、生まれて初めての山陰旅で降りてから、爾来、僕はこの駅を列車で通るだけで、改札を通るどころか、乗り換えでプラットホームに降り立つことすらなかった。ローカル線の小駅ならまだしも、これだけの大きな駅でありながら、これほどまでに降りる機会がない駅も珍しい。
無論、長らくの間この駅に来なかったのはわざとではなく、たまたま降り立つ用事がなかっただけであるが、24年もご無沙汰している駅に降り立つのはさすがに感慨深いものがある。他の乗客が足早に改札口や乗り継ぎの列車へと急ぐ中、僕は4番のりばから改札へとつながる跨線橋を、ここに来た余韻を味わうように、一歩一歩じっくりと踏みしめながら渡る。
旅では、ずっと忘却していた記憶が、何かの拍子に急に思い出されることがある。
跨線橋を踏みながら、24年前、駅近くのそば屋で、ひどくまずいそばを食べたことを思い出した。あの時僕は親父と一緒に山陰の旅をしていて、親父も僕も飯には頓着しない性格だから、夜、米子に着くなり目についたそば屋に入った。そんな親子ですら、店を出た後に口をそろえて「まずかった」というぐらい、ひどい代物だった。親父と昔の旅の話をすると、いまだにその話が出るぐらい、お互いの記憶にこびりついている。人間、うまいものは忘れやすいが、まずいものはいつまでも覚えている。
ホテルに荷物を置くと、僕はそのそば屋を探しに米子の街に繰り出した。24年ぶりに不出来なそばを食べたいわけではなく、ただその店がどうなったのかを純粋に知りたいと思ったのである。今度親父に会ったら、例の店の現状を報告したいとも思う。
だが、残念ながら、それらしき店は見つからなかった。廃業したのか、はたまた移転したのかは定かではない。24年という月日が、物事を変えてしまうには十分に長い時間であるのは、概念としては理解しているが、そば屋という具象を通すと、それが実感として胸に迫る。
この24年間、僕はいったい何をしてきたのか…。昨日の福塩線でも僕の胸をついた「時の流れ」が、昨日と同じように僕をさいなむ。
過去というものは、考えたところで、あるいは振り返ったところでどうにかなるものではない。それでも思わざるを得ないのは僕の弱さのせいのような気がして、僕はそれから逃れるように飲み屋を探し当て、扉を開けた。地元の人しかいないような立ち飲み屋であるが、衰弱した僕には人の気配がありがたかった。
昔、この街でそばを食った鉄道好きの中学生が、鉄道好きのまま汚らしいおっさんになり果てて、今度は飲み屋のすみっこで小さくなって酒を呑んでいる。そんな不思議な巡り合わせに思いをはせているうちに酔いが回ってきた。
気持ちと記憶の整理がつかぬまま、僕は帰りしなのスーパーで缶ビールを買ってホテルに戻り、また呑んだ。ひとりは寂しいが、そばと違って缶ビールはいつどこで呑んでも同じ味なのが、唯一の救いであった。
明くる朝の2020年2月24日月曜日、僕は米子駅の0番乗り場に向かった。お目当ては8時31分発の境線・境港行きである。米子で降りたのも24年ぶりとなれば、無論この境線に乗るのも24年ぶりとなる。
境線は、米子を起点に、山陰屈指の良港を擁する境港までの17.9kmを結ぶ路線で、今でこそ日常や観光の足として利用されているが、そもそもは山陰本線建設のために境港に陸揚げされる鉄道資材を、米子や松江に運ぶために建設された山陰最古の鉄道である。
その完成は1902年であるから、かれこれ120年近く経っている。120年の歴史を持つ路線に、僕は24年ぶりに乗る。つまり境線の長い歴史のうち、5分の1ぐらいを僕は境線との付き合いなしに過ごしたと思うと、再会の感激もひとしおである。
そば屋は見つけられなかったが、境線は24年前と変わらずに、0番乗り場で僕を待っていた。
ただ、車両の様子が前とだいぶ違う。記憶の中の境線は白い車体に青い帯のディーゼルカーであったが、今回は車体にいろいろとキャラクターが描いてある。
よく見ると「ゲゲゲの鬼太郎」の砂かけ婆が、車両の前面からこちらを真っ赤な目で睥睨していてギョっとする。もう1両を見ると、こっちはこっちで車体のあちこちに子泣き爺が居座っている。
境線の終点である境港は「ゲゲゲの鬼太郎」の原作者である水木しげる先生の出身地で、その縁で境線の列車にも「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが描かれていて、米子駅の番線案内も0番乗り場ではなく「霊番」乗り場と称している。途中の各駅にも妖怪がいるという設定で、本当の駅名の他に妖怪の名前がつけられている。米子は「ねずみ男駅」で、終点の境港は「鬼太郎駅」という具合である。
何よりも妖怪が描いてある車両自体が40年選手の古いもので、車両もそのうち妖怪扱いされそうである。10年ぐらい前までは日本中で走っていたタイプの車両であるが、ここのところ徐々に数を減らしているようで、旅先で出会う機会も少なくなってきた。
砂かけ婆と迷った挙句、僕は子泣き爺のほうに乗ることにした。
僕が選んだボックスシートの背もたれも、一部が破けて子泣き爺がこちらを見ている演出がなされている。もとい、演出ではなく彼はここにもともと「いた」のである。僕が勝手に彼のナワバリに入っただけで、いつ抱き着かれて石にされるかわからない。僕はかつて3回も結石で苦しんだことがあるので、石はできればお断りしたい。
かように石持ちを震え上がらせる子泣き爺であるが、実は大の酒好きで、いつも腰に酒の壺を下げているところを見ると、実は僕と気が合うのではないかとも思う。僕もかくありたいと思うし、背負っているリュックサックにもスキットルが入っているが、酒を補充する機会を逸していたのであいにくカラのままにしている。子泣き爺の酒壺から、酒を少し分けてはくれまいかと思っているうちに発車時刻となった。
駅の発車案内や車内放送ではしきりにワンマン列車と案内されていたのに、なぜか後ろの運転席に車掌が乗っていて、その笛の音とともに列車は米子を出る。24年前は、夜に乗ったので車窓がほとんど見えなかった。今回は朝なのでじっくりと外を見ることにする。
列車は、エンジンをふかして山陰本線と少しだけ並んで走ったかと思うと、プイと曲がって弓ヶ浜半島に進路を取る。その分岐の様子が富山県を走る氷見線の高岡駅にそっくりだなと思っているうちに、最初の停車駅である博労町(ばくろうまち)に着く。この間わずか1kmで、都会の地下鉄のような駅間距離である。そこからちょこちょこ走った富士見町では2人乗ってくる。3分も走らず次の後藤に着いて、ここでは6人降りていく。
JRの地方路線というと、ともすると長い駅間をゆったりと走って、車内の乗客の様子も鷹揚としていることが多いが、この境線は短い駅間をせせこましく走り、客も大都市の私鉄電車や路面電車のように数駅だけ乗って降りるという使い方をしている。
これはおもしろいと車内や車窓を観察していると、はたして次の三本松口という駅のそばの踏切ではたくさんのクルマたちが待っていた。こちらはそれにお構いなしに客を乗せたり降ろしたりしてからのろのろと駅を出発するものだから、クルマたちを相当にイライラさせている。これは完全に私鉄電車の風情である。
山陰の鉄道は旅情にあふれたものだとばかり思い込んでいたが、境線においては旅情よりも日常のほうが色濃くにじみ出ている。山陰最古の鉄路がこのような使い方をされているのはかえって味わい深いとも思う。
その代わり、車窓は米子市郊外の住宅地で、面白いものは見当たらない。河崎口の目の前の学校では少年野球をやっているので少し眺める。こちらは高校生が3人降りるので少し停まっているが、球がピッチャーとキャッチャーの間を3往復するかしないかのうちに出発する。
弓ヶ浜という駅で反対列車とすれ違う。向こうの列車を待たせていたが、こちらも出発の信号機が赤なので駅の手前で自動列車停止装置、いわゆるATSの警報が運転席から聞こえる。この警報は、JRの地方路線に乗るとよく聞く音で、擬音語で表せば「ジリジリ」と「キンコン」となるだろうか。
ATSについて、僕は不確かな知識しか持ち合わせていないのだが、一口にATSと言ってもいろいろ種類があって、この音を出すのはATSの中でもS型と呼ばれるものだと記憶している。
「ジリジリ」は簡単に言えば「赤信号が近づいていますよ」というお知らせで、警報だけあって昔の目覚まし時計のような、かなり耳障りな音である。それに運転士が「わかったよ」とブレーキ操作とスイッチで応えると「キンコン」に変わるという仕組みになっている。キンコンは電子音のように聞こえるが、実は鉄琴を叩いて物理的に音を出していると聞いたことがある。だが僕は、あいにくその機械を実見したことがないのでよくわからない。
詳しい仕組みはともかくとして、このジリジリキンコンは日本全国どこでも聞くことができる。北海道の雄大な原野を走る列車でも、東北や山陰の海沿いをのんびりたどる列車でも、関東平野のど真ん中で空っ風に震えながら走る列車でも、四国や九州の急峻な山中をあえぎながら行く列車でも、ATSだけはみな同じ音がする。あまりにも津々浦々で聞くので、もはやこの音は旅の風情の一部にすら思えてくる。
客からの使われ方は私鉄風な境線であるが、この音を聞くとやはりJRの路線なのだなと思わされる。
なぜか出発の時にもジリジリが鳴ったが、何事もなく列車は弓ヶ浜を出発する。ここから列車は少しスピードを上げて走り、和田浜、大篠津町と進んでいく。車窓は生コンプラント、鉄くず置き場、いろいろな業種の工場、田畑、宅地、学校と何でもあるが、相変わらず見るべきものもない。わずかに遠景の松林だけが目をなぐさめる。この松林は海風をしのぐために植えられた人工の林である。弓ヶ浜半島は全長約17km、幅約4kmの細長い形をしているが、境線はその真ん中を走っているので、車窓から中海や日本海を臨むことはできない。
つまらなく走り続けていた列車は、おもむろに右へカーブして米子空港の滑走路をかすめる。24年前に来た時は、暗闇の中にぼんやりと、しかし整然と並んだ自衛隊の飛行機が見えたのを覚えている。滑走路と線路は並行であったように記憶していたが、それは僕の勘違いだったらしく、今見ると滑走路と線路の位置関係は直角であった。この米子空港も僕がしばらく来ない間に「米子鬼太郎空港」と改名されていて、この界隈の「ゲゲゲの鬼太郎」への傾倒ぶりに目を見張る。
その米子鬼太郎空港のそばに米子空港駅がある。空港接続駅とはいえ、ホームが1つあるだけの質素な造りで駅舎もなく、駅員がいる気配はない。駅名に「空港」と付く駅で、ここまで簡易な造りのものは他に思い当たらない。
もとより空港接続駅に降り立つ客の大多数は空港に用があり、駅に用事があるわけではないので、大きな駅舎はいらないし、駅員もいなくてよい。
この米子空港駅、副駅名としてべとべとさん駅と名乗っていて、駅名標にもその不気味な姿が描かれている。べとべとさんは夜道を歩いていると不気味な足音を立ててこちらの後をついてくる妖怪で、姿は見せず悪さをするわけでもないが、「お先にどうぞ」と言うとその足音は消えるという。
飛行機にべとべとさんを連れて乗ってしまったら、あの狭い通路でどうやってべとべとさんを先に行かせればよいのか悩んでしまうし、譲られたべとべとさんも先に行けなくて困惑することだろう。
この米子空港駅であるが、ここはもともと大篠津駅と名乗っていた。
米子鬼太郎空港の滑走路の延長に伴い、2008年に線路が移設され、それを機に大篠津駅は米子空港駅に改名したが、それだけ聞くと、改名までは先ほど通った大篠津町と大篠津という駅が並んでいて紛らわしかったのではと思う。気になったので調べてみると、大篠津町はもともと御崎口と名乗っており、大篠津が米子空港に改名される際、地元から「大篠津」の名前を残してほしいと要望があり、御崎口を大篠津町に改めたという。
何とも紛らわしい話だが、僕の関心は駅名の変遷よりも線路の移設にあった。
2008年に線路が移設されたということは、僕が24年前の1996年に通過した線路と、今日通過している線路は別のところに敷かれていることになる。滑走路を迂回するため、距離にして800メートルほど延びているが、JRとしてはこの800メートルを新線として認定せず、境線のキロ程にも加算しないと判断した。
つまり「1996年と2008年の境線を比較すると、実距離は延びているけど路線の戸籍上の長さは変更しません」というのがJRの公式見解になるわけである。
だが、これは運賃計算やきっぷのルール上の問題であって、「乗れる路線は徹底的に乗る」という僕の志向とは相いれないものがある。ましてや僕の完乗達成前に経路が変更されているとなると、戸籍上は全国の全線に完乗したのに、実は800メートルだけ乗っていない区間があったことになる。完乗の達成を宣言してしまったから、それを取り返すこともできないと思うと実に気持ち悪い。
2008年の線路移設から、2014年の10月に僕が全線完乗を果たすまでの6年間で、一度でも境線に乗っておけばこの不快感にも整理がついたのであるが、今では後の祭りである。
整理しがたい感情を抱いている僕を尻目に、列車は中浜、高松町、余子(あまりこ)、上道(あがりみち)、馬場崎町と進んでいく。
中浜は浜というが海は遠い。ATSの警報が聞こえるが、すれ違う列車もなく出発する。少し走って高松町で、駅の目の前に小さな神社が建っているのが見えるが、他には特に何もない。3人降りていく。余子の副駅名は僕が乗っている車両の絵柄である子泣き爺であった。
上道の駅名標を見ながら、僕は山陽本線の上道(じょうとう)という駅の存在を思い出す。アガリミチからジョウトウまでのきっぷを買ったらどのような券面表記になるのだろうと気になるし、同じ名前の駅同士を発着地とする旅も面白そうだと思っているうちに、列車は馬場崎町を出て境線最後の一区間に歩みを進める。
線路の両脇に家が建て込んできて、今度は氷見線の氷見の手前のような景色になったなと思う間もなく、列車は終点の境港駅に着いた。時間は9時15分、米子から約45分の小さな旅であった。
灯台を模した駅舎には見覚えがあったが、前回は夜で真っ暗だったこともあり、駅を一瞥するなりすぐに米子へ戻った覚えがある。今回は明るい時間に来たので、帰りの列車までの約1時間で街を歩いてみることにした。
駅に隣接した、というよりも駅の数倍も大きく、どちらかというと駅が付随しているようにも見える建物に入ってみると、階段の案内ひとつとっても不気味な感じの書体が使われていて、ここまでやるかと思わず目を見張る。
この建物は隠岐汽船のターミナルにもなっていて、「ご乗船のお客様は必ず乗船申込書をご記入下さい」などとある。さすがにこの看板は普通の書体で書かれていたが、離島への航路に思わず旅心をくすぐられる。隠岐に行くのであれば、あと3日は休みが欲しいところである。無職だった頃に来るべきだったとも思う。
駅から街の中心部へ向かう道は水木しげるロードと名付けられていて、妖怪の銅像が路傍にたくさん立っている。観光客も多く、鬼太郎や目玉のおやじ、ねこ娘、ねずみ男など人気のある面々のところでは観光客が入れ代わり立ち代わり記念撮影をしている。人が多いので、盲腸線の終着駅にありがちな陰鬱さがあまり感じられない。旅情はないが街としては人が多い方がよいに決まっている。
それにしても銅像が多い。これの全部をじっくり見ていては、とても1時間で街を回れなさそうなので、僕は水木しげる記念館の前庭にある「のんのんばあ」の銅像だけはしっかりと見ておこうと思った。
というのも、今から30年ぐらい前、NHKで「のんのんばあとオレ」という水木先生の少年時代を描いた自叙伝的なドラマが放送されており、劇中の水木先生と同世代だった当時の僕は、だいぶ感情移入してそれを観ていたのを思い出したからである。
のんのんばあの銅像を見て、観光客のいない道ばかりを選びつつ15分ほど適当に歩き回るうちに、境港の岸壁に出た。
天皇誕生日の振替休日だからか、それとも漁はとっくに終わったのか、大小さまざまな漁船が舫い綱につながれて休んでいる。漁港に来たからにはうまい魚を食べたいと思うが、時間はまだ9時半で、食堂はどこも開いていない。歩き回って疲れたのでコーヒーでも飲みながら休める喫茶店でもないかと探したが、結局こちらもすぐには見つけられなかった。駅に戻る途中、喫茶店を1軒見つけたが、ここでコーヒーを飲んでしまったら予定の列車に遅れてしまいそうなので断念した。時間に追い立てられることなくゆっくりと旅がしたいが、雇われ人の宿命で明日からは仕事である。今日中に東京に戻らなければならない。
駅に戻り、10時34分発の米子行きを待つ。あとはこれで米子に11時15分に着き、10分の接続でやってくる11時25分発のやくも14号に乗り継いで、岡山から新幹線で東京に帰るだけである。
旅が終わってしまう過程は、何度体験しても嫌なものである。できることならずっと旅をしていたい。ずっと旅をしている妖怪はいないものかとスマートフォンで調べてみたが、特にいないようであった。
そんなくだらないことを考えながらやってきた列車に乗り込むと、僕が座ったボックスシートには、鬼太郎が待っていた。その表情が何とも不思議なもので、こちらを見下ろすようにして、僕にもう帰ってしまうのか、もっと旅をしないのかと言っているような気がしてならない。
妖怪の世界には会社も仕事もないと聞く。
だとすれば、旅に生きるには妖怪になるのが一番よい方法のように思える。旅を続ける妖怪になれるのであれば、僕は妖怪に魂を売ってもいいと思う。だがあいにく、僕の魂を買ってくれたり、あちらの世界へといざなってくれる妖怪の知り合いが、僕にはいない。
帰りの境線の車中で、妖怪になるにはどうすればいいのかと、だいぶ真面目に考えたが、これといった方法は思いつかなかった。水木先生が描いた妖怪たちを見ていると、多くの妖怪がひたすらに同じいたずらを繰り返している。それは彼らの執念なのか怨念なのかわからないが、もしかしたら同じことを繰り返すことが、妖怪になる手段の一つなのかもしれない。
僕が繰り返しやっていることといえば列車に乗ることであるが、日本全国の鉄道全部に一度乗ったぐらいでは妖怪にはなれないらしい。もしかしたら、完乗を自称しながらも実は乗り残してしまった米子空港駅界隈の線路の怨念のせいかと思う。
僕は常に旅をしたいと思っていて、いつか自由に旅ができる身分になってやるんだと息巻いてはいるものの、残念ながら妖怪タビシタイは、まだしばらくの間は半妖のまま、娑婆という地獄で会社や仕事に刻苦しなければいけないらしい。
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