2020年8月27日木曜日

旅する無職 0日目 ~序文~

 旅は、日常との対比であるからおもしろいのだと思う。
 我が国には、古くからケとハレという概念もあるし、旅の恥は掻き捨てという言葉もある。鬱屈とした日常の刻苦を旅で晴らす。知らない土地を訪ねて、自分の置かれた日常と比較してみて新たな知見を得る。だからこそ旅はおもしろいし、何度出かけても飽きることがない。

 僕は、旅が好きである。旅が好きなあまり、いつかは旅という非日常を、日常にしてみたいという思いを、子どものころから抱いていた。
 終わりなき旅の日々とはどのようなもので、僕に何をもたらすのか。一度でよいから体験してみたいと思っていたが、会社員という職業に身をやつし、会社と雇用関係にある以上、月曜から金曜は会社に捧げなければならない運命で、しょせんそれは叶わぬ夢であった。

 世の中の会社員の多くはそうだと思うが、僕も学校を出てから、嫌々ながら会社員を続けていた。
 嫌だと思うと物事はうまくいかないもので、僕が新卒で入った会社は、僕を営業職として使い、将棋の駒のようにいろいろなところに転勤させた挙句に潰れてしまった。先輩や上司はいい人たちばかりで、仕事も正直言って楽であったが、いかんせん会社自体がよくなかった。社内にいろいろと不採算な事業を抱えていて、僕が入った時には既に泥船のような様相を呈していた。それゆえに、同期入社の奴らや僕より少し年上の連中はさっさと見切りをつけて辞めていった。

 そんな沈みゆく泥船に乗っていた僕に声をかけてくれた会社があって、せっかくなのでそっちへ移籍してみたものの、ここは水が合わず、仕事もうまく行かないことが多かった。そのくせ残業だけは一人前に多く、日付が変わってからの帰宅は当たり前、僕は休む暇もなく年がら年じゅう疲弊の極みにあった。顧みていろいろと計算してみると、毎日だいたい14時間から16時間ぐらい働いていたらしい。

 とにかく、昔の詩人が詠ったように、働けど働けど楽にもならず、うまくもいかず、何の報いもなく、ただただ心身と時間が費やされてゆく不毛の日々が続いていた。
 営業職として、朝の9時に会社を出ると、定期訪問やら打ち合わせやらで客先を回って、遅い時は21時とか22時ぐらいに帰社する。そのまま家に帰れるわけではなく、その後、その日の成果をまとめる作業が待っている。客先との仕様打ち合わせの結果をまとめた見積書や受注書などは、ひとつでも指示を間違えれば客からは叱責され、会社には無用な損害を与えるので、特に神経を使った。

 神経をすり減らすデスクワークを終え、夜中にとぼとぼと家に帰ったら布団に入って寝るだけの生活を繰り返すうちに、僕はひどい虚無感に打ちひしがれ、不眠やイライラがひどくなり、心療内科に通うようになった。休日も寝て過ごすことが多くなり、あれほど好きだった旅に出る気力も全く湧かなくなった。
 医者に言わせると、過重労働のせいでうつ病の気配があるという。睡眠薬を処方されるようになったが、今度はその薬の副作用で眠気がひどく、営業車で外に出ると、居眠り運転をしそうで怖かった。

 そのうちに僕は積極的に客を回るのをやめ、ショッピングモールの立体駐車場の端っこに車を止めてひたすら昼寝をしたり、線路が見える公園や道の駅の駐車場で、行き交う列車をぼんやりと眺めて過ごすことが多くなった。
 「僕は何をしているのだろう」
 背もたれを倒した運転席から営業車の天井を眺めながら自問する。
 その答えは「何もしていない」である。与えられた時間を自分のために活用せず、ただ空費しているだけの日々がとてもはがゆかった。何よりも、自分が重きを置いていない「仕事」というものに、自分の健康と、人生の限りある時間を蚕食されるのは耐えがたいものがあった。

 2015年9月のある日、僕は残業で共に居残っていた上司に、不意に「退職したい」と告げた。
 それからまたたく間に社内外は混乱し、いろいろな人が僕を引き留めにかかってきた。僕は会社を必要としていなかったが、どうやら会社は僕を必要としていたらしく、入社してからこれまで一度も会ったことのないような偉い人たちが、入れ代わり立ち代わり僕の元に来ては、僕の耳元で配属替えの話や慰留の言葉をかけてきた。
 そんなものは馬耳東風でどうでもよかったが、後輩や客先からも残留を懇願されたのには参った。特に客先の「あんただから今までおたくの製品を買ってきたんだ」という言葉にはさすがの僕も堪えたが、客と僕の関係も、しょせん屋号と金で結ばれた縁でしかないと割り切った。「僕の代わりなどいくらでもいる」と思うと、客の言葉にも僕の心が翻ることはなかった。

 さかんに僕に「辞めるな」と言ってきた人々も、僕の決心が固いことを知るにつれ、今度は口々に「どうして辞めるのか?」と聞いてくるようになった。僕は「もうこの仕事を続ける気力がない」とだけ言い続けてはぐらかした。「気力がない」という理由は嘘ではないが、本当の理由でもない。

 仕事をサボる時によく行く線路際の公園があった。毎日同じ時間に同じ場所へ営業車を止めると、当たり前だが毎日同じ行先の列車が目の前を通っていく。それを見ているうちに、僕はだんだんと旅への渇きを覚えるようになってきた。そもそも僕は自分がてつおたで、旅好きであることすら忘れていた。
 「僕が乗るべきなのは、営業車ではなく列車である」
 しまいには、そのような確信すら抱くようになっていた。端的に言うと、昔からの憧れであった「列車でひたすら旅をする日々」を送りたくて、会社を辞めようと思ったのである。これが僕が会社を辞める本当の理由であった。

 だが、その理由は、ただの一度も、そして誰にも言わなかった。三十路も後半に差し掛かろうというおじさんが、「自由に旅がしたいので仕事を辞めさせてくれ」とは、さすがに恥ずかしくて、とてもではないが言えなかった。
 そんなことは学生時代にやっておくか、定年退職後の楽しみにしておくものである。旅がしたくて仕事を辞めるなど、自分でもよくやったと思う。
 その代わり、辞めるまでの半年間は、残務整理でこれまで以上にひどく多忙になったので、人生で最も思い出したくない時期のひとつになった。

 人の3倍は仕事をしたのではないかと錯覚するぐらいの多忙で憂鬱な半年の忍従を終えた僕は、晴れて無職になった。時に2016年4月1日である。
 平日なのに、早起きして会社に行かなくてよい。この解放感は、人生においてこれまで経験したことがないぐらい爽快なものであった。僕のような若輩者は推測するしかないのだが、定年退職を迎えた人も、退職日の翌日は同じ気持ちになるのだろう。
 だが、もしそうだとするならば、これは若いうちに経験すべきものだとも思った。
 しっかりと物を見られる目、人の話を聞ける耳、そして何よりも自由にどこへでも歩いて行ける足が健在なうちに、自分の思うがままに生きられるよろこびが、そこにあった。

 その爽快さと引き換えに、僕は定期収入を失ったが、しばらくは貯金で食べていく算段を立てていた。ここ何年もの間、ひたすら仕事に追われていて、貯金をはたくような大きな買い物をする暇もなかった。
 そして、これから必要になるであろう旅費や生活費と、自らの貯金額とを見比べて、無職は長くても1年までと決めた。それ以上の無収入は僕の経済が破綻するし、1年もあれば、どこへでも行けるし何でもできるだろうと考えた。
 次に僕は、1年間の旅の計画を立てることにした。時間があり余ると、かえってどこへも行かないような気がしたからである。
 春は西へ行く。夏は北へ。秋は再び西。そして冬は気が向いたところへ行こう。できれば離島めぐりもしたいし、海外も行きたい。とにかくいろいろなところを歩いてみたい。鉄道にこだわることもない。バスだっていいし、時間があるので長距離フェリーも自由に乗れる。

 考えれば考えるほど野望が広がっていき、これではキリがないので、さっそく最初の旅の算段を立てる。
 「さて、どこへ行くか」と、手元の時刻表を開くやいなや、巻頭の索引地図で僕の手は止まった。索引地図が今までとは違って見えたのである。
 そこに記された路線のどれもが、僕に「乗ってくれ」と訴えるかのように地図の上を東西南北に這っている。その線上にある駅は、まるで星座のように、見慣れたはずの路線図の上で輝いて見える。
 「このすべてに自由に乗っていいのか…」
 そう思うと背中がぞくぞくし、少し置いて変な笑いが出た。それはまるでアニメか映画の悪役のような笑いであった。フィクションの世界ではよくあるシーンだが、自分の望みが叶うと確信した時、人は本当に笑うらしい。
 列車に自由に乗れるとなると、離島などどうでもよくなってくる。バスや船など二の次になるし、街を歩くのもおっくうである。僕はてつおたで、根っからの電車乗りであるから、列車に乗っていれば満足な性分で、旅とはいいながらも、そのほとんどを車中で過ごしているのが常である。本当はそんなものは旅ではなく、単なる「移動」であると常々自嘲と自戒とをしているのであるが、それでもこうして30年以上も鉄道での旅を趣味にしてきたゆえ、なかなかその習性が抜けない。

 そこで僕は、これからの自分がするであろう旅に、次の決まり事を与えることにした。
 1.旅先ではなるべく鈍行に乗る。
 2.旅先ではどこかで必ず1回、街なり何なりを自分の足で歩く。車やバスは不可とする。
 3.旅先では地元の居酒屋に入る。
 4.旅先で出会った知らない人と何かしら言葉を交わす。
 5.旅先で見聞きした出来事や印象をメモに残す。
 どれも簡単なことであるが、今までろくにやってこなかったことでもある。時間はたっぷりある。いくらでもできるだろう。

 再び時刻表に向き直る。
 宗谷本線、五能線、八戸線、北上線、只見線、総武本線、小海線、関西本線、城端線、小浜線、山陽本線、姫新線、因美線、津山線、土讃線、予土線、日豊本線、日田彦山線、吉都線、長崎本線、日南線…。北から順番に乗りたい路線名を思い浮かべるだけで、じんわりと脳内に変な成分が分泌されてきて正常な判断ができなくなる。
 何でもいいからとにかく早く乗りたいと思うが、物事には順序がある。旅程を組み、それを書き留めて、きっぷを買い、宿を取らねばならぬ。
 思案の結果、無職旅の1回目は九州へ行くことにした。だが、九州までの経路をどうするかで僕は呻吟した。四国を通ってもいいが、山陰も捨てがたい。特に10年以上乗っていない路線は輝いて見える。僕は、脳内物質をかく乱する魅惑の路線群から数本を選抜し、何とか西への旅の算段を立てた。それを手近な紙に書き留め、駅のみどりの窓口で切符にしてもらった。
 旅をしたくて仕事を辞めた無職の、旅という非日常を日常にせんとする大いなる企みの日々が始まった。

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