2021年1月2日土曜日

旅する無職 1日目 東京~萩~小倉

 曲線を描く窓ガラスに雨粒が流れ、街のネオンがにじんでいる。そのぼやけた視界の中を、名古屋行きのひかり539号がゆっくりと横切ってゆく。


 2016年4月4日、22時2分。僕は東京発出雲市行きのサンライズ出雲のA個室寝台から、その風景を見ていた。
 ひかり539号は東京駅を22時ちょうどに出て、名古屋に23時49分に着く。これは東京から名古屋へ向かう最終列車でもあり、このあとは22時10分発の静岡行きこだまと22時47分発の三島行きこだまの2本しかない。
 ひるがえって我がサンライズ出雲はというと、こちらも同じく東京を22時ちょうどに出発する。
 東京を仲良く一緒に出発したひかり539号が名古屋に着くころ、こちらはまだ沼津の先ぐらいを走っているはずである。普段は新幹線を志向するが、今回の旅は急ぐ必要がないのでこれでよい。
 なぜなら、僕は会社を辞め、自由に旅をできる身分になったからである。すべてが自分の思いのままにできる時間を手中に収めた僕は、ひとまず九州を旅することにした。
 九州に行くのに、なぜ出雲へ向かう夜行列車に乗っているのかというと、九州に新幹線で直行してしまうのはあまりにもつまらないので、山陰を経由していこうと思ったからである。


 サンライズ出雲は一部の寝台を除いて個室になっている。個室なので、当然、室内灯のオンオフは利用者に一任されている。
 室内灯がついていると外がよく見えないので、部屋を真っ暗にして、ベッドにあぐらをかいてじっと外を見る。夜でも外を眺めたいのは電車乗りの本能であるし、誰にも邪魔されず車窓を眺めるという無上の瞬間でもある。
 途中までは沿線の駅や家々の灯りがまぶしく目を射るが、小田原ぐらいで闇に目が慣れてきて漆黒の相模灘が見えるようになる。
 熱海の先で待ち受ける丹那トンネルでは、トンネルの常夜灯の白い灯火が、部屋の中を矢のように過ぎていき、そのたびに部屋に一瞬の陰影を刻む。
 由比から清水の間では、並走する国道1号線のバイパスを往来する深夜のトラックが見える。
漆黒の闇の中、アンドンとマーカーランプの光がすれ違い、荷箱のコルゲーションパネルに書かれた屋号がナトリウムランプに照らされて鈍く光る。
 仕事を辞めた僕であるが、こうして深夜も働いている人たちがいることに、思わず畏敬と感謝をせずにはいられない情景であった。


 明けて4月5日、火曜日。目が覚めると時刻は4時39分。列車は新大阪の直前であった。
 大阪駅を通過する時、大阪環状線のホームに目を凝らすと、4時55分に外回り電車の始発が来るという電光掲示が見えた。大阪の目覚めまであと10分であるが、僕はまだ目覚める必要がない。
 再び横になりながら背中で列車がどこを走っているのかを感じる。
 そろそろ神戸かと思うと三宮で、そこから明けはじめた大阪湾などを見ながらぼんやり過ごすうちに、列車が遅れていることに気がついた。
 姫路は定刻5時25分着のところ、5時56分に着いた。車掌が言うには静岡県の菊川駅で架線に支障があり、当初19分の遅れだったが、その後もいろいろあって30分ほど遅れているという。
 岡山には37分遅れの7時4分に滑り込むものの、車掌が車内放送で「この先も遅れる見込みなので、お急ぎのお客様は特急やくも1号にお乗り換えください」などと言う。
 見れば7時5分に岡山を出るはずのやくも1号が、律儀にもこちらを待っている。この37分の遅れが今日の旅程に大きな打撃を与えることはわかっていたが、僕はこのままサンライズ出雲に乗っていくことにした。
 歯を磨くため、デッキに設えられた洗面所に行く。列車が動く気配は相変わらずない。ホームに出て歯を磨く。火曜日の朝、通勤通学の人並みを横目に歯を磨く自分が、とても異質なものに思える。
 いや、文字通り今の僕は異質なのである。職を辞した今、僕と社会とを結びつけるものは旅しかない。僕に義務はなく、ただ権利だけを行使できる立場になったのだと、歯を磨きながら僕は改めて自分に言い聞かせた。


 結局、岡山は50分遅れで出発した。
 列車は倉敷から伯備線に入る。左の車窓には高梁川の濃緑の流れが見えるが、そのうちに列車は退屈な山の中を行くようになる。ベッドに横たわると、間断なく続くレールの継ぎ目の音が身体に心地よく伝わってくる。車窓は緑ときどきトンネルを繰り返す。僕は三度寝をすることにした。
 僕がまどろむうちに列車は新見を出ていた。左に分かれていく芸備線を見送り、伯備線のサミットである谷田峠にかかる。谷田峠は「たんだだわ」と読む。これを越えると鳥取県である。標高446メートル、伯備線で最も標高の高い駅である上石見を越えると、列車は日野川に沿って軽快に下り始める。
 伯耆大山で待望の山陰本線に入り、米子、松江と抜けて、出雲市に着いたのは11時過ぎであった。定刻から1時間10分ほどの遅れである。
 本来、僕は9時58分に出雲市に着いて、10時18分発の山陰本線浜田行き鈍行に乗り継ぐ予定だった。これだけ遅れてしまうと、当然ながら僕が乗ろうとしていた列車はもう行ってしまったあとである。僕は鈍行を諦め、次の特急で益田という駅まで行くことにした。


 出雲市11時36分発の特急スーパーおき3号は、2両編成のこじんまりとした列車であった。列車の長さだけでいったらとても特急とは思えないが、僕が宛がわれた席に着くと、列車は轟然と発車した。
 それにしても、何をそんなに急ぐのかというほど、この列車は飛ばしまくる。床下のエンジンはずっと唸りっぱなしで休む気配がない。
 山陰本線の出雲市から西の車窓には、石州瓦の赤い屋根と青い日本海の対比が続く。それを見ると山陰本線に乗りに来た実感が湧くのであるが、それを噛みしめる暇もなく列車は猛スピードで駆け抜けていく。
 車窓を飛び去っていく小さな岬や漁港などを見ながら、「やはり鈍行に乗りたかった」と思うが、この列車の中で急いでいないのは僕だけであるように思われる。普通の人からすれば、列車に乗っている時間など、短ければ短い方がよいに決まっている。
 早ければよいのは、何も列車の速度に限ったことではない。飲食店の料理の提供時間、通信販売の配達、インターネットや携帯電話の通信…。列車に限らず、今は「速い」ことが正義になってしまった。
 時は金なりというが、急ぐということは、それなりに労力のかかることである。「歩き」と「走り」では身体への負担や疲れ方がまったく違うことは誰もが知っているはずなのに、世の中は走るのが当たり前になっていて、歩くことが許容されにくくなっている。
 これまでの僕の旅を振り返っても、学生時代は金がないがゆえに鈍行やら夜行バスやら船やらにばかり乗って、自分では「歩いて」いたつもりだったのに、社会人になったぐらいの頃から「走り」に変わっていて、平気で特急や新幹線や飛行機を使うようになってしまった。
 もちろん、その多くは望んでそうしたわけではない。社会人になってしまったので、有限である時間を金で買う必要が出てきただけである。土曜と日曜、下手をすれば日帰りなどで無理やり旅をしている以上は、そうする必要があった。
 だが、今の僕にその必要性はない。そう思うと、特急に乗っているのがバカバカしくなってきたが、そのうちに僕は夜行列車の興奮のせいで眠りが浅かったのか、不意に居眠りをしていた。


 居眠りするうちにスーパーおき3号は僕を益田まで連れてきてくれた。このまま漫然と乗っていると、スーパーおきは山陰本線から山口線という路線に入ってしまうので、ここでお別れとなる。
 跨線橋を渡ると、僕が乗るべき益田発13時27分の長門市行き1571Dが、タラコ色の1両で待っていた。車中に旅人の姿はなく、みな地元の人のようである。
 前夜、東京駅を出てから既に約15時間が経っている。サンライズ出雲が遅れたせいで、「旅先では新幹線や特急にはなるべく乗らない」という志向を、旅の最初から打ち砕かれてしまったが、ようやく地元の人が普段使いする列車にありつくことができた。待望の山陰本線鈍行旅の始まりである。
 益田からひとつ目の戸田小浜まで10分以上も走っていく。駅間は長いが、右手には引き続き日本海が見えるので退屈しない。海はきれいだし、列車も空いていて快適である。そして何よりも早すぎも遅すぎもしない速度が景色を眺めるのにちょうどよい。
 車窓を黄色いガードレールが流れていく。これは僕の経験では、山口県でしか見たことない。なぜ山口だけが黄色いのか、その理由を知る術もないが、どこにでもあるガードレールも、色が違うだけでこうも新鮮に見えるものかと、いつもながら目を見張らされる。
 長門大井という駅では、ホームに大きな桜の木が植わっていて、今がちょうど見頃であることを誇るように花を満身に付けている。それを見送ると、まもなく列車は萩の街に差し掛かる。
 この列車に乗っていけば、終点の長門市で下関方面の列車に乗り継いで、下関には17時27分に着く。そのまま下関まで行ってもいいが、僕は萩の街をぶらつくことにした。
 萩といえば長州藩、長州藩といえば倒幕から明治維新の立役者である。僕は幕末の出来事について、特段の関心や興味を持っているわけではない。その舞台である萩についても、どうしても見たいものがあるわけではない。だが、歴史の本や教科書でその名を目にしたことがある萩という街を、僕は一般教養として見ておくのは悪くないと思ったのである。


 山陰本線は萩の市街地の周りを、ちょうどUの字を描くように3/4周している。その3辺それぞれに駅があり、東から東萩、萩、玉江となっている。駅名からすると萩で降りればよいと思うが、街の中心地には東萩が至便である。その証拠に、東萩には駅員がいるが、萩は無人駅となっている。
 萩の街にはちょうど10年前の2006年の7月に、1度だけ来たことがある。その時は確か列車の乗り継ぎの関係で東萩に降りたように思うが、なにぶん真夏の昼下がりで、焼けつくような日差しが、駅舎から出た僕をすぐさま駅の待合室に追い戻したことを思い出す。
 このときの僕は、駅から何とか這いずり出て、近くのファミリーレストランまで汗だくになりながら歩いていった。腹が膨らむと、僕は再び汗をかきながら、来た道を駅に向かって歩いて戻った。
 何のことはない、前回はろくに何も見ず、単に駅とファミリーレストランを往復しただけである。かように僕は萩の街とまともに接したことがないのだが、萩の街は、歩いて廻るには少し広いことぐらいは、10年前の炎熱の経験が教えてくれる。今日のこの天気なら散策にはちょうどよい。10年前に果たせなかったことを取り返しに、僕は東萩のホームに降り立った。


 駅を出て左に建つホテルの1階に、貸し自転車屋がある。店番の女性に自転車を借りたい旨を伝えると、彼女は白い自転車を引っ張り出してきた。図体の大きな僕には少し小さい自転車であるが、移動には差し支えない。荷物も預かってくれるというので、リュックを彼女に託すと、僕はカメラと着ていたパーカーをかごに入れて、自転車をこいで萩の街中へ繰り出した。
 きれいに掃き清められた萩の裏通りを、自転車で右へ左へ気ままに走る。両脇を白壁の古い建物やよく手入れされた生け垣に挟まれた道を行くと、多越神社という小さな社に出会った。
 境内では、桜がこれでもかと咲き誇っていて、思わず自転車を停めてその姿を見上げる。境内には誰もいない。いつもであれば気ぜわしく次の場所へ移動してしまうが、なにぶん今の僕を束縛するものは何もないし、次の列車まで時間はたっぷりあるので、ついじっくり桜を見てしまった。





 再びペダルをこぐ。僕は萩城へ向かった。城といっても明治の廃城令で天守閣は廃却され、今は城跡だけが残っている。明治維新を成し遂げた長州藩のことである。新時代の旗手を自負する長州に、前時代の遺物である城を残しておくという選択肢はなかったのだろう。
 堀を渡る途中で、その天守が載っていたという石垣が見えてくる。三方を海に囲まれ、なおかつ小高い指月山を背負ったその立地は、難攻不落かつ海を睨むことができ、確かに城を築くにはいい場所である。だが、僕の萩城への感想はそれだけだった。
 堀を渡った先には小屋があって、入場料として210円を徴すると書いてある。入場とはいうものの、石垣の上に平らな土地と幾許かの建物があるだけである。金を惜しむわけではないが、かといって金を払ってまで観るべきものがあるようにも思われない。思われないが、今観ておかねば次はいつ来られるかわからない…。

 入るか否かを決めかねた僕は、一度堀から離れ、近くの海水浴場に向かった。
 砂浜に立って、もう一度指月山を眺めてみる。海から浮上してきたようなその頂きを見ながら、僕は金を払って萩城址を観ようが観まいが、それは僕の旅における決断と、それに伴う結果のひとつであって、その是非に拘泥することは無意味であるということに気がついた。
 旅とは、その場その場での出来事と意志決定の積み重ねであり、あとからあの時何をしたとかしなかったなどと考えるのは、無粋なことだと思ったのである。
 ああだこうだと深く考えるのではなく、目の前の事象のひとつひとつを、理由のあるなしにかかわらず、即決で取捨選択していくことにこそ、旅の本懐があるように思う。少なくとも、僕の旅において事前に考えておかねばならないことは、乗るべき列車と泊まる街、この2つだけである。

 僕は「萩城址は観ない」という決断を下した。何もない城跡を観るぐらいなら、この古くとも気持ちのいい街ともう少し付き合っておきたいと思ったのである。
 付き合うといっても、自転車で適当に流しただけであるが、大きなビルがほとんどない街を見ていると、この街が幕藩体制の頃からほとんどその姿を変えずに今に至っているのではないかと思わざるを得ない。その頃から変わったことといえば、電気が通い、道路が舗装され、自動車が走るようになっただけなのではないかとさえ思う。
 350年以上に及んだ幕藩政治に終止符を打ち、文明開化への道筋を切り開いた長州藩の本拠だった街が、中世日本の街並みを色濃く、それこそ日本の中で一番だと言えるぐらい色濃く残しているのは、歴史の不思議な巡り合わせだと思わずにはいられない、そんな萩でのひとときであった。


 自転車を返し、リュックを回収した僕は、16時24分発の普通列車を待った。
 東萩駅で列車を待つ間、ホームから線路を見下ろすと、まくらぎに573k6と書かれていた。東萩は山陰本線の起点である京都から572.0km地点にあるので、たぶんこの573k6というのは「京都から573kmと600m」の意味であろう。
 山陰本線の終点である幡生(はたぶ)は下関のひとつ手前の駅で、京都から673.8kmの距離がある。つまり東萩から下関までは100kmちょっとなのだが、列車がぶつ切りになっているので2回も乗り換えることになる。
 やってきた銀色の1両編成は、時折右手に海を見せながら、トコトコと西へ走る。この列車は長門市止まりで、長門市には17時1分に着く。折よく3分の接続で、今度は滝部という駅まで行く列車がある。
 今度はタラコ色の古い車両である。17時過ぎ、高校生がたくさん乗るかと思ったが、それほどでもない。
 人丸という駅を過ぎると、右手にまた海が見えてくる。まだ日没には至らないが、白くかすんだ水平線へ、太陽が徐々に沈んでいく。そのうちに列車は内陸に入る。
 その途中、特牛という駅がある。トクギュウではない。これはコットイと読む。
 いわゆる難読と言われる名前がついている駅はたくさんある。例えば、仙台と山形を結ぶ仙山線には愛子(あやし)があるし、長野と愛知を結ぶ飯田線には大嵐(おおぞれ)という駅もある。何もそんな一部の人しか知らない駅を挙げるまでもなく、たとえば山手線の高田馬場などは、あれは「の」が入るとあらかじめ知っているから読めるのであって、何も知らなければ「たかだばば」と読むだろう。日暮里だって何も知らなければ「ひぐれさと」である。変わった駅名はどこにでもある。
 このように全国各地に居並んでいる変な駅名の中でも、このコットイの偏屈さは一番なのではないだろうか。僕もいまだにトッコイとコットイのどちらかを失念することがあり、しばしば読み方を調べては知識を修補している。その度に、「特」を「コッ」と読ませるのは反則だろうと思いながら憮然とする僕がいる。


 滝部では27分の接続待ちがある。時間つぶしに乗ってきたタラコ色の車両を眺めていると、しばらくして僕が乗るべき列車が下関からやってきた。こちらもタラコ色の古い型で、この滝部で折り返して再び下関に行く。
 仲良く並んだ2両を見比べてみると、今まで乗ってきた車のほうが車体にツヤがある。今の鉄道車両の多くはステンレスやアルミで出来ていて、色が塗られていない。ステンレスはサビにくいし、アルミはサビないので塗る必要がないのである。山手線などの帯は塗料ではなくシールである。新幹線には色が塗ってあるが、あれも地肌はアルミであるので、本来は塗る必要がない。
 このタラコ色の車は今から30年以上前に造られた。その当時はまだステンレスやアルミのボディは一般的ではなかったので、車体は鉄でできている。鉄はサビるのでペンキを塗らなければならない。一昔前は東京でもペンキで塗られた電車がたくさん走っていたが、今はあまり見かけることがない。
 ツヤを出すのは塗装屋さんの腕の見せ所である。だが、僕はあとからやってきた下関行きの車に親近感を覚えた。こちらはツヤがなく、屋根にはディーゼルの煤がこびりついている。その面構えから、いかにも長い時間と距離を走り込んできたことがありありと想起される。自身が排出する煙にすすけたその佇まいが、昔、旅先でよく世話になった車両たちの質感そのものであったのが、何だかとてもうれしく思えてならなかった。



 滝部18時19分発。ひとつ目の長門二見という駅を過ぎると、また右手に海が見えてくる。先ほどと違って、太陽は今しも水平線の向こう側に沈もうとしていて、雲がかった響灘に、オレンジ色の残照が糸を引くように映っている。そのうちに太陽は茜色に燃えながら下半分を海に沈め、姿を消した。
 僕はそれをタラコ色の列車から眺めていたが、ふと、この列車の色もタラコではなく茜なのではないかと思い直した。思えばタラコ色などという呼び方はあんまりである。




 下関19時25分着。山陰本線の旅は終わったが、僕の旅はもう少し続く。今日のうちに関門海峡を越えて、小倉に宿を取ることにしていたのである。
 とはいえ腹が減ったので、僕は駅前で見つけた三枡という飲み屋に入った。あらかじめここに行こうと決めていたわけではなかったが、その渋い佇まいが僕ののんべえ心にヒットしたのである。
 ひとまず瓶ビールとたこぶつを頼んで、長旅をほぼ終えた自分を慰労する。たこぶつは酢醤油で食べさせてくれたが、これが初めての組み合わせでとてもうまい。次はとメニューを見ると、ふぐのせごしというものもあったので頼んでみる。聞けばふぐの頭と臓物を取っ払ったものをぶつ切りにしたものだという。プリプリした身とこりこりの軟骨の組み合わせが酒を進ませる。これは関東ではまず食せない。最後にサバ刺しを頼んだが、これがまた脂が乗っていて酒のやめ時を見失わせるうまさであった。

 魚をたらふく食べた僕は、ほろ酔い気分で下関駅に戻り、21時11分発の門司行きに乗った。
 下関と小倉の間は15分おきぐらいに直通電車が走っているが、よりにもよって僕が乗った電車は途中の門司止まりであった。門司で3分接続の小倉方面行に接続するものの、門司での乗り換えを少し面倒に思う。
 電車は関門トンネルを5分ほどで走り抜けると、門司の手前で電源切替えの為、車内の電灯が一時的に消える。昔の常磐線と同じだなあと思ってみるが、それもそのはず、古い常磐線と同じ型の電車である。


 門司、昔は大里(だいり)と言ったこの駅は、1942年の関門トンネルの開業とともに九州の玄関口としての役目を与えられた。
 当時の鉄道は蒸気機関車ばかりであったが、換気の悪い関門トンネルには煙を吐く蒸気機関車を通すことができないので、下関から門司の間だけは電気機関車でリレーすることになった。そして、大里改め門司は、機関車付け替えの基地となった。
 関門トンネルができるまでは、下関から門司までの移動は鉄道連絡船が主役で、その九州側の接続点が「門司駅」を名乗っていた。今の「門司港」駅である。
 トンネルが出来た頃は門司港駅の凋落甚だしいと言われていたそうだが、今となっては門司港駅に残された古く立派な駅舎や、その界隈に残る古い倉庫やビルに注目が集まっていて、門司港レトロなどと銘打って観光客を相手に売り出している。その裏で、門司駅の影は薄くなってしまった。
 考えてみれば、船で九州に渡ってくる客には立派な駅舎を、荷物には倉庫を用意して出迎える必要があったが、トンネルで通りすぎてしまう客や荷物にそんな計らいは無用である。門司駅が整備された目的は、機関車の付け替えという輸送上の事由だけであり、ゆえに門司駅にはこれといって見るべき駅舎や設備はないので、観光客は見向きもしないのである。
 それでも昔、機関車を付け替えるために長い編成の急行や貨物列車が停まったことを偲ばせる長大なホームが残っていて、その真ん中あたりに僕を乗せた4両編成の白い電車がちょこんと停まった。

 ホームに降りると、反対側に「二日市」という行先を掲げた銀色の電車が停まっている。これは門司港からやってきた電車で、今日はこれで小倉に行って終わりとなる。
 その車中、列車に乗り続けてさすがに疲れたと思いながら、列車の窓に映る自分の顔を見る。確かに疲れた顔をしていて、列車に乗っているだけなのに、こんなにもぐったりするものかと思う。
 萩と下関での滞在を除けば、昨晩22時発の夜行列車から18時間ぐらい列車に乗り続けていたことになるが、今回の旅はまだ始まったばかりである。なにせ列車で長旅をするのは2015年8月の旅以来8か月ぶりで、旅をするには少しばかり心身が鈍っていた。旅を忘れた身体に旅を思い出させるための、いわば練習のような1日であった。
 疲労の中にも、好きなだけ列車に乗るという、昔からの夢への第一歩が刻めたことをうれしく思いながら、僕は21時26分、小倉駅のホームに降り立った。
(この日の経路はこちら。)

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