2022年3月20日日曜日

旅する無職 3日目 博多~八代~人吉~隼人~鹿児島

 明け方見た夢が「実家に置いてある古い時刻表が、いつの間にか勝手に古本屋に売り出される」という内容で、まったくもって寝た気がしない一夜であった。

 宿から窓の外を見れば、昨日からの雨が、いつの間にかその勢いを増している。風も強く、道行く人が傘を斜めにして歩いている。春の嵐というべきだろうが、これはまるで台風のようだ。テレビをつけると、天気予報のお姉さんがしきりに強雨強風への警戒を伝えている。
 宿泊したのが博多駅前のホテルとはいえ、駅に向かうのが嫌になる天気であるが、旅程は停滞を許さない。テレビから流れてくるお姉さんの警句を聞きながら、旅も3日続ければこんな天気の日もあるし、雨の九州は僕に何を見せてくれるかと逆に期待をするよう自分に言い聞かせて宿を出る。

 2016年4月7日、朝8時30分。
 ごうごうと風が鳴る中を、僕は通勤客の流れに逆らいながら博多駅へと向かった。駅に着くと、構内放送がしきりにダイヤ乱れの説明とお詫びを繰り返している。雨はともかく、この風では列車の遅れもやむを得ない。
 僕が乗る8時41分発の快速も、5分ぐらい遅れてやってきて、小倉方面からの客をどっと吐き出す。
 平日朝の下り快速の客はまばらであるが、時節柄か、真新しい制服に身を包んだ高校生が散見される。僕の高校の入学式も、曇りのような雨のような、とにかくあまり良い天気ではなかったことを思い出す。母親らしき人と一緒に、彼らの多くが大野城で降りていった。

 今日の旅程は、博多から鹿児島本線をひたすら南下して八代へ至り、そこから肥薩線という路線に乗り換えて鹿児島の隼人というところに出て、あとは鹿児島に向かうことになっている。
 九州新幹線が出来た今、博多から八代までを直通する在来線の列車はないので、今乗っている快速を鳥栖で降り、そこで八代行きの鈍行に乗り換える手筈になっている。
 手筈はそうなっているが、列車の遅れでどうにもそれがあやうい気配になってきた。
 風と雨のせいで、列車は速度を落として走っている。車窓を見るには好都合であるが、それでも旅程へ影響を及ぼしはしないかと、気をもませるようなスピードである。
 定刻通りで行けば、この快速の鳥栖着は9時13分。八代行きの鳥栖発車は9時23分発なので、乗り換えには10分の猶予があるが、この遅れでは10分程度は軽く食いつぶされるかもしれない。
 もっとも、この快速は大牟田行きで、大牟田には9時49分に着く。一方、鳥栖で乗り換える予定の鈍行は大牟田に10時12分に着く。
 つまり、鳥栖で乗り換えようが大牟田で乗り換えようが、結果としては同じ八代行きに乗り換えられるのだが、八代行きは鳥栖が始発であるので、僕は鳥栖で乗り換えて確実に座れるようにしたいと思っていた。
 だが、このダイヤ乱れである。乗る予定の八代行きもまともに走ると思えない。下手に降りて運休でもされたら、それこそ今日の旅程は破綻する。
 僕はとりあえずこの快速で大牟田まで行き、そこで状況を確認して旅程を再構成することにした。


 改めて車内外を見まわす。列車は9両編成であるが、車両前後の扉ごしに見える限り、僕のほかに客がいる気配がしない。長い列車にひとりで乗っていると、幽霊列車か何かに乗っているような心持ちになってくる。
 窓を見ると、お天気お姉さんの警句の通り、こんな日に外に出るのはどうかしていると僕に戒めるかのように雨が横殴りに叩きつけている。
 分厚い雨雲のせいで、まだ朝の10時も回っていないのに外は夕方のように暗く、遠くの街並みもかすんでいて、空の暗さのせいか消灯の時期を逸した街灯がぽつぽつとついている。
 そんな情景を前にして心細く思うが、たまに流れる車掌のアナウンスが僕の心を落ち着かせる。

 筑後川を渡って久留米を過ぎると、久大本線が左に分かれていく。それを見送るともう見たいものはないなと思っていたら、いつの間にか車窓に緑が広がっていることに気づいた。
 緑と言ってもここは筑後平野のど真ん中で、広がるのは森ではなく田畑である。今は4月、米だとしたら時期がおかしいが、麦にしてはやけに緑が濃い。これは何だろうとしばらく考えて、畳の原料となるイ草であることに気がついた。20年以上前、地理の授業でこの辺りがイ草の産地であることを習ったことが、まさかここで役に立つとは思いもしなかった。
 大牟田の直前で、左側の車窓に「年金通り」と書かれた、いかにも「それらしい」横丁を見つけて少し興奮する。歩いてみたいが、今日のこの雨では駅から出歩くことはためらわれるので、訪問を断念する。無職になって時間はいくらでもひねり出せるようになったが、天候は自分の意のままにはならない。

 

 結局のところ、大牟田から先のダイヤはめちゃくちゃになっていた。
 定刻であれば8時59分発の熊本行きが10時15分ぐらいにやってきた。これは小倉と博多の間の福間という駅を6時31分に出て、各駅に停まりながらはるばる熊本まで走り抜く長距離鈍行である。一瞬、これに乗って熊本に行こうかと思ったが、大牟田から先の列車がしばらくなかったらしく、降りる以上にやたらと乗り込んでいくのを見て、思わず乗るのをためらった。
 とはいえ、僕が乗ろうと思っていた10時12分はというと、そもそもやってくる気配すらない。放送もしきりに10時12分発は遅れる見込みだと伝えている。どうしようかと途方に暮れていたら、9時37分に大牟田を出ているはずの八代行きが、55分遅れでやってきた。
 定刻通りでは間に合わない列車に思わず乗れることになったのと、この後の運行状況も読めないので、とりあえず僕はこれに乗ることにした。

 乗り込んだ八代行きの車内はベンチタイプの座席で、アルミで出来た椅子に申し訳程度の座布団が貼り付けてあるだけの代物である。九州の在来線車両は最近これが多く、見た目はおしゃれでよいのだが、いかんせん長時間着座していると尻が痛くなる。これなら洋式便器のほうが座り心地がよいとまで思う。デザインとは外見と機能とを具備して初めてデザインと自称すべきであると、芸術や美術という言葉とは全く縁のない僕でも思う。
 風のせいで玉名まで徐行する旨の放送があり、列車は走っては駅で少し止まるを繰り返している。ベンチシートで外は見えないし尻も痛い。熊本に近づくにつれて混んできて車窓どころではなくなる。こうなるといくら旅とはいえ、はっきりいって愉快な時間ではない。
 車内外に退屈して居眠りするうちに熊本に着き、ほとんどの客が降り、代わりに少し乗ってくる。ここまで来ると風は弱まったが、雨は相変わらずしきりに窓外を叩いている。熊本の次は川尻と思い込んでいたら、不意に西熊本という耳慣れない駅名を聞いて瞠目する。調べたら1週間ほど前に出来たらしい。こざっぱりとした高架駅であった。

 
 八代には12時20分頃に着いた。この列車は定刻だと八代11時4分着のはずなので、1時間20分遅れだったらしい。もっと言うと、僕の予定通りの列車で来ていれば、八代には11時38分に着いていたはずであったが、ここまで来ると影も形もない。
 これから乗る肥薩線人吉行きの列車は12時50分発で、遅れたがゆえにかえって接続がよくなったと思っていたら、12時19分発の人吉行きの快速が5分ほどの遅れで、キイキイとブレーキを鳴かせて僕の前に停まった。
 僕は予期していない2両編成が眼前に出現するのを目にして吃驚し、そして混乱した。すわダイヤ乱れのせいで突発でダイヤに差し込まれた臨時列車か何かと思ったぐらいである。
 だが、時刻表を見るときちんと熊本11時46分発からの八代12時19分発、人吉13時18分着で途中通過運転の快速がある。
 恥ずかしながら、僕は旅程を組んだ時、この列車の存在をなぜか全く見逃していた。時刻表上でも12時50分と同じページに載っているのに、である。

 僕のほうに乗る心構えがなかったので、この快速は見送ることにして、予定通り12時50分の鈍行に乗ることにしたが、12時50分発になるはずの列車も15分ぐらい遅れてやってきた。肥薩線は単線なので、先の快速が遅れたから、この列車もどこかの駅での行き違いでダイヤ遅れのとばっちりを食らったと思われる。
 鈍行は1両で、始業式か何かの帰りと思われる高校生を何人か乗せて出発した。その高校生たちに突然歌を聴かせるおじさんがいて何事かと思ったら、どうやら知り合いだったらしい。西熊本の件といい、快速の件といい、さっきから驚いてばかりいて気が休まらない。


 肥薩線は八代から球磨川に沿って人吉に至り、そこから峠を越えて鹿児島の吉松、そして隼人へ抜ける全長124kmあまりの路線である。元は鹿児島本線の一部であったが、水俣経由の海沿いの路線が昭和の初めぐらいに出来てからは、肥薩線という名で呼ばれている。
 この肥薩線、古いうちにメインルートから外れたからか、沿線には昔ながらの木造駅舎がたくさん残っている。トンネルなどむやみやたらに掘ることができなかった時代の開業なので、人吉までは球磨川の谷間を上っていく。そんな古い駅舎や球磨川の風景が絵になるので観光路線として売り出していて、週末や休日には蒸気機関車も走っているが、今日は平日であるのでディーゼルカーばかりである。

 列車は球磨川の右岸にとりつくと、川の流れに忠実に沿って右へ左へを繰り返す。優雅な緑色の流れが目の前を過ぎていく。途中の坂本駅では列車行き違いのためしばらく停まるという。小雨をついて外に出てみる。黒い屋根瓦がしっとりと濡れていて、その軒先のベンチで列車を待つ人がいる。こんなローカル線に、といっては失礼だが、ちゃんと普段使いの客がいることに少し安堵する。
 鎌瀬の先で左岸へ渡る。煙霧にかすむ山々のふもとから流れてくる球磨川を飽きることなく眺めていると白石で、ここでも少し停まるというので、先ほどの坂本と同じように車外に出て駅舎の写真を撮る。白石駅には客はいなかった。

 人吉でくま川鉄道という第三セクター鉄道に乗り換える。これはもともと湯前(ゆのまえ)線という国鉄→JRの路線であった。
 この路線の沿線には特に用事はなく、ただここまで来たからには乗っておこうと思っただけである。ちょうど人吉から吉松までの列車が17時過ぎまでないので、その時間を使って往復することにしていた。
 人吉と同じ構内にあるにもかかわらず、くま川鉄道の駅は人吉温泉という。
 そのホームで列車を待っていると、木をふんだんに使ったおしゃれな車両がやってきた。おしゃれであるが、個室や隠れ家をうたう居酒屋のようでどうにも落ち着かない。僕はそういう店が嫌いである。
 僕の座ったボックスシートにはテーブルが備え付けてある。天板が折り畳み式になっているので試しに開閉したら土台に指を挟んでしまい、とても痛い。設計欠陥ではないかと思う。


 僕が指を痛めている間に女子高生がたくさん乗ってきた。濃紺のセーラー服、襟の白い3本線。セーラー服の模範様式のようである。男子のほうはむさくるしい学ランで、何よりもうるさくてかなわないが、こういう地方路線では大事なお客様である。
 高校生を満載してぶるぶるとディーゼルカーは動き出す。車窓は畑と雑木林ばかりで特に見るものはない。見るものがないので、途中のあさぎり駅でタブレットの交換をじっくりと見る。タブレットとは通行手形で、簡単に言うと、これを持っていない列車はその駅を出発してはいけない決まりになっている。

 終点の湯前ですぐに折り返しの列車に乗る。
 高校生の流動はどちらにもあるようで、人吉行きにも高校生が乗っている。
 あさぎり駅で再びタブレット交換を見る。こちらの運転士から受け取ったタブレットの輪っかを肩にかけ、ビニール傘をさして構内踏切を渡る駅員の姿は、僕が幼いころにはいろいろな路線で見られた風景であるが、今となってはもう数えるほどの路線でしか見られない。


 人吉に戻り、駅前の「やまぐち」という駅弁屋にて栗めしを買う。栗の形をしたプラスチックの弁当箱に栗が5つ載ったご飯と煮物、卵焼きの素朴な駅弁である。
 駅に戻ると吉松からの観光列車「しんぺい」が入ってくる。あかがね色の2両編成で、平日にも関わずそこそこ客が乗っている。ひるがえって僕が乗る吉松行きは赤い1両編成で、客は僕だけであった。
 栗めしを食べながら、何もかもが濡れている車窓を見る。列車は33.3パーミルの急こう配をゆっくり登っていく。
 大畑(おこば)駅にはスイッチバックがある。運転席から出てきた運転士が、僕に会釈しながら後ろの運転席に移動する。いったん逆に走ると、再度運転士がやってきて向きが戻る。2回目も会釈してくれるのがうれしい。僕ひとりのためにこの列車が走っていて、この運転士は僕のために行ったり来たりしてくれていると思うと、申し訳なさとうれしさが心の中で交錯する。
 スイッチバックを後にすると、線路は左に巻きながらどんどん登っていく。少し登った先で左手に今過ぎてきた大畑の駅が小さく見える。ここはループ線で、先ほど通ってきた線路が眼下に一瞬だけ見える。
 誰もいない矢岳駅を過ぎたあたりは、日本三大車窓のひとつと言われる名所であるが、あいにくの雨と雲でよく見えない。真幸(まさき)駅でも、列車と運転士は僕のためにだけ再び行ったり来たりする。


 赤い列車は定刻通り18時9分、吉松に到着した。
 吉松は肥薩線と吉都(きっと)線が分岐する駅で、この界隈にしては珍しく駅員もいる。かつては機関車の車庫もあり、多くの鉄道マンたちが生活していたともいうだけあって、その構内は広い。
 客も少なく、かつての賑わいはないが、それでも構内には僕が乗ってきた列車、吉都線の都城行き、そしてこれから乗る隼人行きの3本並んでいて、この駅のジャンクションとしての機能は見事に残っていた。
 18時18分に都城行きが出発し、人吉から乗ってきた赤い列車も18時22分に人吉へ戻っていくと、隼人行きだけが残された。去っていった列車たちの排ガスの匂いと、遠くで響く踏切と車輪の音、何よりもしとしとと降る雨が地方路線のジャンクションの寂寥感をより引き立たせ、胸をつかれる。


 2両編成の隼人行きの客は僕を入れて4名だけで、珍しく高校生がいない。高校生がいない車内は寂しいぐらい静かである。
 吉松から隼人までは下り坂なので、列車は軽々と走っていく。
 車窓はもう真っ暗で、地面の黒さと雲の淡い灰色との間にかろうじて残っている境目に、家の灯りや街灯がぽつぽつと見えるだけである。その暗闇の中に現れた植村という無人駅では、バス停のような小さな待合室なのに煌々と電灯がついていて、4月のカレンダーが壁にかかっている。そのカレンダーを見て、こんな小さな駅でも、人知れず誰かが来て、駅を管理していることを実感する。当たり前のことであるが、それが何とも愛おしく思えた。
 途中の嘉例川(かれいがわ)から男子高校生が乗ってくるが、これがまた丁々発止で先ほどまでの寂しさはどこへやら、とてもうるさい。どうにも男子高校生のノリは苦手である。


 隼人までもう間もなくだと思っていたら、隼人のひとつ手前の日当山(ひなたやま)駅の直前で列車が急停車した。車内放送で鹿と衝突したという。見れば前の車両の室内灯が消えている。前に乗っていれば面白かったかと不謹慎にも思うが、列車が動かなくなるのは正直困る。しばらく停まっているが、運転士が点検した結果、室内灯が消えた以外に列車へのダメージはなかったらしく、前の車が真っ暗なまま出発した。運転士が放送で教えてくれたが、ぶつかったはずの鹿はどこかへ行ってしまったという。


 隼人からは日豊本線の鈍行で鹿児島中央駅へ行く。
 ホームで待っていると、昔の常磐線と同じ古い車両がやってきた。
 線路は重富の先で国道10号と並びあって鹿児島湾沿いを通っていく。その真っ暗な水面をあてもなく見る。桜島は影すら見えない。車両のせいか軌道のせいか何だか知らないが、この辺りは異様に列車が揺れて、時折座席から尻が浮く。ひどい揺れで閉口するが、途中の錦江や竜ヶ水といった風情ある駅名は僕をなぐさめる。

 せっかくの鹿児島なのでどこかへ飲みに行きたいが、あいにく僕の背負っているバッグには3.5日分の薄汚れた下着や靴下が詰まっている。旅の日数分の服を持ってくればよいとも思うが、そんな数を持ってきたらバックパックが服だらけになってしまう。服に旅をさせても仕方がないので、長旅をすると時折洗濯をしなければならなくなる。ホテルの洗濯機と乾燥機を回す間、コンビニで買った缶ビールを飲む。
 酒を飲みながら、ジーンズの股の部分が破れてきたことに気がつく。下着や靴下は予備を持ってきているが、ジーンズは一張羅である。
 どうしたものかと思案するうちに、乾燥機が止まる時間になった。

 (この日の経路はこちら。)

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