2018年2月26日月曜日

旅の情感と交感と(2015年6月 札沼線)

 沿線の人たちには大変失礼な話であるが、札沼線は地味な路線だ。
 札幌都市圏の通勤通学の重責を担っており、それがゆえに学園都市線なる別名を与えられてはいるが、それとて途中の駅までの話であって、その先には学園もなければ都市もなく、いわんや観光地などありもしない。
 僕個人の感覚としては、学園都市線という名前はどうにも違和感を禁じえないので、ここではあえて札沼線と呼ばせてもらう。
 その札沼線は、どちらかというと、地元の人が、自分の用事のために使う路線である。本来であれば、旅人の訪問は似つかわしくない路線であるが、あえてそこに僕はお邪魔してみることにした。

 「はまなす」から札幌駅のホームに降り立った僕が、あえて札沼線を選んだ理由。それはふたつある。
 ひとつは、14年ぶりに札沼線に乗りたいという単純な欲望。もうひとつは、札沼線の1日3本の貴重な列車を捕まえるのに好適な時間帯にいるという地の利を生かすためであった。欲望について述べたところで仕方がないので、後者について少し述べることにする。

 札沼線は、札幌のひとつ小樽寄り、函館本線の桑園という駅から石狩川沿いを北上し、新十津川という駅へと至る76.5kmの路線である。途中の石狩当別までは札幌の都市圏に組み込まれており、昼間でも札幌駅直通の電車が20分から40分に1本の割合で走っている。
 ところが、石狩当別から先、終点の新十津川までは、1日あたり数本の列車が行き来するだけの、超をつけてもバチが当たらないほどの閑散路線なのである。途中止まりの列車は何本かあるが、終点の新十津川まで行く列車はわずか3本のみで、これを捕まえるのは容易ではない。
 だが、「はまなす」から札沼線に乗り継いでいくと、その貴重な1本を捉えることができるのである。これ幸いにと、僕は札沼線を北上することにした。

 2015年6月14日、日曜日。
 札幌までの切符を渡しつつ、乗車記念に「はまなす」の急行・寝台券をもらって改札を出た僕は、その足で新しいきっぷを買って再び札幌駅のホームに向かった。
 僕を迎えたのは、札幌6時40分発の石狩当別行き533Mだった。雪除けの屋根に覆われて薄暗い札幌駅のホームに、6両編成の通勤電車が、眠たそうに銀色の身を横たえている。
 日曜早朝の下り電車は、どこか独特な空気を持っているように思う。
 それは夜遊びや夜勤のあとのけだるい朝帰りだったり、休日に似つかわしくない早起きの外出であったり、とにもかくにも非日常の空気を豊満に湛えている感じがする。それはこの札沼線でも同じだった。
 車内で乗り合わせた人々は一様にまなこをこすっている。乗客の疲弊と希望とが混濁する中、僕はロングシートから腰や首をひねって久しぶりに札沼線の車窓を堪能する。

 車窓を堪能するとは言ったものの、桑園からあいの里公園までは完全に住宅地である。
 桑園を出て、右に札幌競馬場を見ながらぐるりと北に進路を取ってしまうと、しばらく見るべきものは特にない。ひたすらに札幌のベッドタウンたる家並みとマンションが続く。駅ごとに、眠い目の人々がひとり、またひとりと降りてゆく。

 家並みに飽きてきたころ、電車は突然大きな鉄橋を渡る。石狩川橋梁である。
 全長1kmあまり、北海道内で一番長い鉄道橋であるが、前に札沼線に乗ったときと比べて、橋の形が変わっているような気がする。あとで調べたら、橋を架け替えたようだ。

 石狩川を渡ると、うんざりするほど続いていた宅地やマンションがきれいさっぱりなくなり、あたりは一面の農地になる。
 6両編成の乗客も、いつのまにかほとんどいなくなった。連結部から前後の車両を見る限りでは僕しか乗っていない。
 田畑のど真ん中ににょきにょきと群生したポプラの林を見つけて、やっと北海道らしい風景に出会えたと少しうれしく思う。
 そののちすぐに電車は石狩当別の駅に滑り込んだ。ここで新十津川行きの列車に乗り換える。

 列車と言っても、先ほどまでの6両編成の通勤電車から、たった1両のディーゼルカーになってしまうのだから、その凋落ぶりは甚だしい。何も知らぬ人ならば、この両者が同じ線の列車だと言われても目を疑うだろう。石狩当別で札沼線に接続している、何か別のローカル線の列車のように見えなくもない。
 だが、列車の見てくれはさみしくなっても、線路は同じ札沼線なのである。

 数えるほどのわずかな客を乗せて、7時45分、ディーゼルカーはごうごうと動き出した。
 石狩当別から一駅先の北海道医療大学までは頭上に架線が張ってあり、札幌からの電車も乗り入れてくる。
 これは文字通り、駅前にそびえる大学への便を図っているものであるが、今日のような日曜の早朝に学校へと向かう学生の姿は見当たらない。
 北海道医療大学からは架線も消え、右手には国道を挟んで見渡す限りの広大な麦畑、左には緑豊かな丘陵を見ながら列車は走る。麦畑の片隅に建つ、かまぼこを角ばらせたような屋根を持つ納屋に北海道を感じる。
 石狩金沢、中小屋、本中小屋と、ホームに車掌車の車体が置いてあるだけの、こじんまりとした駅を過ぎてゆくが、乗り降りはない。月ヶ岡という駅にはログハウスのような駅舎があるが、ここでも車内の客に腰を上げる気配はなく、ホームにも人影はない。それでも列車は律儀に汽笛を発して出発する。
 確かにこれでは、もはや石狩当別以北を鉄道として存続させる意義が乏しいように感じる。列車が1日に3本しかないのも首肯できる。JRとしては、誰も乗らない路線のために運転士と駅員を雇い、軽油を燃やして列車を走らせるのは、きわめてばかばかしいと思っているに違いない。JRが行っているのは営利行為であり、慈善行為ではない。僕のように用もないのに列車に乗るような人間の存在が、その無聊のせめてもの慰めになればよいが。

 石狩月形という駅に着く。
 ここで初めて人の乗り降りがあった。数名が改札を出ていく。車内放送を聞くと、列車はここで対向列車を待つため20分ほど停まるというので、僕も列車の外に出る。
 ホームで所在なげに立っている運転士と、どちらからともなく話が始まる。今は6月だが、線路脇に積雪深を測る目盛りを刻んだ棒が立っていたので、何となく雪について聞いてみると、「この辺はひと冬で10メートル分ぐらい雪が積もる。もちろん除雪はするが、人や車の通わぬところには常に2メートルぐらい雪が残っている」と事もなげに言う。内地の人間には想像できない世界である。

 居合わせた駅員に外に出てよいか尋ねてみると、出発まで時間があるので外に出てもよいというので、厚意に甘えて改札の外に出てみる。
 駅前はまっすぐな道が走っていて家も建っているが、人の気配はあまり感じられない。
 構内に戻る。
 改札口の上に掲げられた「石狩月形」の看板の「狩」の編が、ケモノ偏ではなく手偏に見えるが、それは「狩」の字を凝視した場合に感じる違和感であって、「石狩月形」と最初から最後まで通して見れば、勢いもあって存外読めてしまうものである。
 文字はある程度の形をなしていれば、多少の間違いや省略は看過できるものだなどと思っていると、ようやく対向列車がやってきた。

 その列車が着くや否や、駅員が運転席めがけてホームの端へと歩いていく。
 もしや、と思って、ホームを挟んで停まった列車を眺めていたら、到着した列車の運転席から駅員が輪っかを持ち出して、僕の乗る列車の運転士に渡すのが見えた。
 輪っかの正体は、スタフと呼ばれる一種の通行手形である。これを持っていない列車は石狩月形から先、新十津川までの間の線路には入ってはいけないという決まりになっている。
 そして、この区間にスタフはひとつしか存在しないので、これを持っているということは、石狩月形から先への進入を許された唯一の列車となる。きわめて原始的な仕組みではあるが、スタフという物証をもって、列車の正面衝突や追突事故を防ぐこのシステムの信頼性は高いと言われている。
 このスタフをはじめ、物証をもって列車の進路の安全を担保する方式はいくつか種類があり、その多くは鉄道の黎明期より用いられてきた方式であるが、いかんせん物証を管理したり運ぶという人の手を要するため、省力化の波には抗えず、日本ではもうほとんど実用に供されていない。
 だが、どんなに技術が進んでも、鉄道は人の手で動かされているということを、僕はスタフという物証を通じて改めて感じ、そして胸が熱くなるのである。

 列車に戻ると、先ほど改札を出ていった客たちが車内にいる。何のことはない、僕と同じ目的の人々だった。
 だが、いつの間にか僕の座っているボックスシートの右斜め前の区画にご婦人が1名、静かに座っている。どうやら石狩月形で僕がふらふらしている間に乗ったらしい。
 てつおたしかいない列車ではあるが、この婦人だけはカタギな目的で乗っているとみえて、傍らの座席の上に淡いピンクのバッグを置き、その上にこれまたピンクの帽子を侍らせて、外をぼんやり眺めている風である。
 僕の席からだと、そのバッグと帽子しか見えないのだが、その佇まいの絵になることといったらない。
 本人の姿を見えずとも、黙して語らぬバッグと帽子が、「私たちのあるじは今まさに旅をしているのだ」と一瞬で周囲に知らしめる圧倒的なアンビアンスが僕を突き抜けた。
 そこには、僕のような未熟者には到底醸し出せない風情があった。旅人たるもの、こういう情感を伴わなければならないと思うが、僕はそこまで至らない。
 どうやら僕はまだまだ修練が足りないらしい。靴を脱いで、向かいのボックスシートにだらしなく投げ出していた足を思わず正す。

 列車は再びエンジンを震わせて石狩月形を出発した。風景は相変わらず右に農地、左に緑であるが、左手の丘陵がいささか山塊らしさを増してきたように思う。
 ピンネシリ。アイヌ語で「男の山」という意味の剛直な山が、その山塊の中にあるはずだが、あいにく列車からその姿は見えない。防雪林にさえぎられて車窓が効かないのである。
 そうしてやきもきしている間に、列車はオソキナイという不思議な響きの駅に停まる。
 駅舎は小さく、元来は鮮やかな青色であっただろうその屋根は白っぽく色あせているが、僕は駅ホームに掲げられた看板に目を奪われた。オソキナイという読みに、「晩生内」という文字を当てているのである。
 アイヌ語に漢字をあてた地名は北海道にごまんとあるが、その中でもこの晩生内は白眉ではないかと思う。晩をオソと読ませているのが何とも風情があってよい。

 この日本にはJR・私鉄を含めて9600か所ぐらいの駅があり、そのひとつひとつに個性があるのは百も承知だが、名前に風情と余韻とを持ち合わせた駅はそう多くない。
 感じ方は人それぞれだし、風情や余韻などというものは主観の最たるものなので、誰かの共感を得られるとは思ってもいないが、それでもこの晩生内だけはどうしても書き留めておきたい。それぐらい僕の中では胸に迫る、風情豊かな駅名である。文字通り夕方に訪れてみたい駅だが、いかんせん列車が少なすぎる。

 ようやく左手にピンネシリをはるかに望んだと思う間もなく、9時28分、列車は終着の新十津川に着く。
 ホームから線路の行く手を見やると、駅のしばらく先でアパートにぶつかるようにして唐突に切れている。
 ホームには白と紫のかわいらしいルピナスが咲き乱れ、北海道の初夏を謳歌している。
 今から40年ほど前の1972年までは、ここから30kmほど北に行った石狩沼田という駅まで線路が伸びていた。札沼線の「沼」は石狩「沼」田に由来しているが、すでにそこまでの線路はない。

 駅に目を転じる。ここには14年ほど前の学生時代に1度来ているはずなのだが、記憶が全くない。
 駅近くからバスで函館本線の滝川に抜けたことしか覚えていないので、記憶を取り返すように駅舎を眺めてみる。
 待合室に駅ノートが置いてあるのでひも解くと、気合の入った絵の多いことに驚嘆する。

 多くの絵の構図は、駅舎や列車と美少女の組み合わせだが、中には駅スタンプを模して丸く描いてあるイラストなどもあり、僕のように絵心を母親の胎内に残置してきた人種からすると、理解に苦しむほど上手な絵が多い。
 それが何ページにもわたって続くので、僕は思わずノートに見入ってしまった。
 無人駅の駅ノートには手の込んだ絵が描いてあるのをよく見かけるが、数ページにもわたって秀逸なイラストがこんなにもたくさん描かれた駅ノートに出会ったのは、芸備線の備後落合以来である。
 そして、そのそれぞれに画風が違うということは、いろんな旅人が代わる代わるやってきては、このノートに絵を描いて去っていったということでもある。そこに思いを致すと、僕と同じように旅を志向する人たちが、絵を以って無言の交感をしているように思えてくる。
 僕もその輪に加わりたいが、あいにく僕には絵の才がない。仕方なく僕は自分が来訪した旨を、ノートの片隅に、画才のなさを恥じるように小さく書き添えてそっとノートを閉じた。

 僕が乗ってきた列車が折り返しとなって、エンジンを震わせて出発していく。
 列車の巻き起こす風にルピナスが揺れる。それを見送ってしまうと、次の上り列車は12時59分までない。
 名残惜しいが、帰りの飛行機の都合もあってあまり長居できないので、僕は函館本線の滝川駅までバスに乗ることにした。1日3本の札沼線と違い、滝川までのバスは1時間に1本程度と、そこそこ頻繁に走っている。

 列車がないのでバスで帰るという、14年前の時と同じことをしようとしているのだが、14年という長い月日の間に、バス停の場所も失念していた僕は、新十津川の街を迷いながら、滝川へのバスの乗り場を少しく探してしまった。
 だが、役場の前にぽつんと立つバス停を見つけた瞬間、ありありと当時の記憶がよみがえってきた。ああ、そういえばここだったと、14年前の自分と文字通り交感しながら、僕は滝川行きのバスの人となった。

 旅は、時に遠い記憶と自分とを結びつけるきっかけになるらしい。

2 件のコメント:

  1. 「駄文」とはご謙遜を。
    今度の旅のいい予習になりました。

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  2. コメントありがとうございます。
    いかんせん2年半前の話ですので、いまはまた状況が違うかもしれません。

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