2024年8月12日月曜日

旅する無職 6日目 宮崎~志布志

 長旅で疲れているので、ゆっくり寝たいと思って床に就いたが、働いていた頃の嫌な雰囲気の夢にうなされて、朝の4時ぐらいに目が覚めてしまう。
 月曜の夜から一週間近くも遮二無二列車に乗ってきたので、たまにはゆっくりしたいと思うものの、これがなかなかうまくいかない。そういえば今日は日曜である。無職にも休みは必要だと自分に言い聞かせ、二度寝をする。


 8時に起きて、ホテルの食堂へ降りる。最近牛乳を飲んでいないなと思って、コップにして3杯も飲む。満腹して部屋のベッドでごろごろするうちに、チェックアウトの時間が近づいてきた。
 9時45分にホテルを出て、宮崎駅に向かう。折からの雨に、駅前のフェニックスの樹も濡れている。宮崎は日向という旧称から、晴れが多いのだと思っていたが、濡れたフェニックスを見て「宮崎にも雨は降るのだな」と、当たり前のことに意味もなく感心してしまう。

 駅のホームに上がると、真っ赤な電車が客を待っている。国鉄時代に造られた古い電車であるが、JR九州のコーポレートカラーである赤で車体を塗りつぶしてある。
 財務面やら何やらの諸事情で新車を入れることはできないが、せめて国鉄の匂いを消さんとしてそうしたのであろう。
 車内は車内で、青や緑や赤に塗りつぶされていて落ち着かないし、電車の風体は古いままなので、かえって哀れに見える。
 この赤い電車で宮崎空港駅へ向かう。宮崎空港駅は16年前に行ったことがあるが、どんな駅だったか、まったく記憶にない。とりあえず宮崎空港まで行ってみることとする。


 宮崎から日豊本線の上を走った電車は、大淀川の鉄橋を渡って南宮崎に着く。ここから日南線という路線に入り、ひとつめの田吉という駅から、今度は宮崎空港線に入る。3つの駅を過ぎる間に路線名も3回変わるのはなかなかに目まぐるしい。
 田吉から左にカーブして高架に登ると、数分で宮崎空港駅に着く。
 駅は行き止まりになっていて、線路は駅の端っこで途絶えている。電車はここまでしか進めないが、人は突きあたりの改札を出て階段を降りると、空港ターミナルの前に出るようになっている。



 改札を抜けても、16年前の記憶はよみがえらなかった。
 眼の前でお父さんと息子さんがどうしてヒコーキは飛ぶのかと問答をしていて、このやりとりは16年前にはなかったことだけはわかったが、他の事物について何にも思い出せない。これでは初めて来たのと変わらない。初めて来たようなふりをして土産物屋やら飛行機やらを見物しているうちに、折り返しの電車が出発してしまった。
 今日は旅程の都合で、このあと一旦宮崎駅まで戻らなければならない。搭乗も、出迎えも、見送りもしないのに空港にいるのは、実に退屈である。さっさと宮崎駅まで戻ろうとバス乗り場に行くが、こちらも頃合いのよい便がない。仕方なく、空港の喫茶店でアイスコーヒーを飲んで時間を潰す。

 宮崎空港駅11時26分発の特急にちりんで宮崎駅に戻る。空港から宮崎駅までの間は特急代が不要なのがうれしい。二駅乗って宮崎に戻り、階段を下りて駅弁屋で豚丼を買い、またホームに戻る。
 12時17分発の快速『日南マリーン』号、志布志行きは1両の白いディーゼルカーで、折からの雨の中、運転席のワイパーをかっくんかっくん動かしながら、長いホームの真ん中ぐらいにぼんやりと停まっている。
 ディーゼルカーは雨を衝くように、エンジンをぐわんと吹かして時刻通りに宮崎駅を出発した。車内を見回すと旅装やら普段着の人やらがぱらぱらと乗っているが、次の南宮崎でたくさん乗ってきて席が半分ぐらい埋まる。僕が座ったボックス席にも紳士が相席となる。
 そのうちに、紳士を含む周りの客の多くが、申し合わせたように駅弁やら持参の弁当などを食べはじめる。僕もご相伴にあずかって、「ブったまげた旨さ!」と豚のイラストがのたまっている豚丼の包みを開く。この豚丼が旨いと知っているということは、この豚は豚を食ったことになる。恐ろしいことである。


 これから歩む日南線は、日向灘沿いを南下して大隅半島の付け根に開けた志布志まで至る、全長約89kmのローカル線である。途中には海幸彦・山幸彦のいわれを持つ青島神社やプロ野球のキャンプ地で有名な日南市がある。
 僕にとって日南線は、16年ぶりの乗車となる。いや、正確には南宮崎からひとつめの田吉までは、先ほど空港に行くときに乗ったので2時間ぶりであるが、とにもかくにも田吉から先は16年ぶりで、例のごとく車窓の記憶がほとんどない。
 田吉の先で宮崎空港線が左に分かれていくと、いよいよ今日の本番となる。豚丼を膝に抱えながら、車窓に目を向ける。16年前に見た記憶がある日向灘を、久しぶりに見たいと思ったからである。


 折生迫(おりゅうざこ)という駅で、学校らしき建物の敷地の中で桜の木が濡れているのを見る。4月10日、東京ならまだ見ごろであろうが、南国宮崎の桜はすでにたくさんの花びらを地面に散らしていて、枝にはすでに緑の葉っぱがちらちらと見える。
 それにしても、先ほどから内海(うちうみ)という駅に向かっているのに、一向に海が見えてこないのは、一体全体どうしたものだろうか。田吉からずっと、海沿いどころか、畑や山の中ばかりを走っている。おまけに列車名も『日南マリーン』である。マリーンが見えないのにマリーンを名乗られても困る。
 折生迫を出発すると、日南マリーンは「マリーン? この辺りに海なんてありゃしませんよ」といった感じで、山あいの線路をぐいぐいと上り、やがてトンネルに入ってしまう。
 トンネルの先の小内海で辛うじて海が見えるも、再び長いトンネルに入って内陸に入り、トンネルの先では川沿いを走る。どうにも落ち着かない車窓の路線である。


 飫肥、油津と大きな駅に停まるたびに、結構な人数が下りていく。乗降口に消えていく人々の背中を見ながら、このあたりにも一度降りてみたいと思うが、今日はそれを許さない日程を組んでしまった。自由なはずなのに許されないとは何か…。
 今、僕が享受しているのは列車に乗る自由だけであり、何もかもすべてが自由なのではない。ダイヤと線路に縛られた列車という乗り物は、世の中に存在する交通手段の中では最も不自由な乗り物である。本当の自由を希求するのであれば、列車の旅は避けるべきだと思う。だが、残念ながら、僕は列車が好きなのであった。


 油津の先で、ようやく列車は海に沿って走り始めるも、二駅ぐらい進んでまた内陸に入る。よくわからない車窓の展開に、僕はかえって退屈して、腹に格納した豚丼の効能もあり、いつしかボックスシートに身を預けて居眠りしていた。
 目が覚めると、列車は日向大束(ひゅうがおおつか)という駅に着くところであった。ここで対向列車を待つためしばらく停まるというので、背伸びがてらホームに降りてみる。
 背伸びをしながら、日南線はあまり海が見えなかったなと思う。日南線はもっと海沿いを走ると記憶していたが、改めて乗ると、実際は山越えばかりをする路線であった。16年前の記憶の曖昧さと思い込みの怖さに、我ながらあ然とする。


 次の串間でまた客がたくさん降りて、車内が閑散とする。
 これまで日向○○だった駅名が、唐突に福島高松、福島今町となって頭が混乱する。質素な造りの福島高松の駅舎を車内から見ながら、なぜここだけ福島なのか首をかしげていると、駅名看板の次の駅のところには大隅夏井とあって、さらに混乱する。
 志布志は宮崎県だと思っていたが、実は鹿児島県にあるのであった。せっかく大隅の歓迎を受ける機会をもらったのに、この列車は快速で大隅夏井には停まらない。鹿児島に土足で入っていくような心持ちになる。
 大隅夏井をゆっくりと通過すると、最後に海がちらりと見えて、鉄橋を渡る。にわかに速度を落とした列車は、そろりそろりとホームに入り、そして停まった。14時49分、志布志着。


 志布志駅の線路の終端には、列車を通せんぼするための巨大なコンクリートの塊が鎮座していて、その先の駅舎は、線路をふさぐように建っている。こういう造りの駅に来ると、線路の果てに来た実感が湧く。かすかに残る記憶を思い返してみるが、ここは16年前と変わらないように思う。
 駅前広場はがらんとしていて、人の気配があまり感じられない。広い空はどんよりとした雲に覆われていて雨が降っている。交差点を挟んだ反対側に交通公園があり、そこに蒸気機関車が置いてあることは知っているが、雨中を衝いて見に行くほどのものでもない。


 次の予定まで1時間半ぐらいすることがない。雨宿りと暇つぶしを兼ねて、駅舎に併設された観光案内所の戸を開けてみる。中ではご婦人がひとりで番をしていた。僕のほかに客はいない。
「こんにちは」
「こんにちは。どちらからお見えですか?」
「東京です」
「東京?それはそれはようこそ。志布志は初めてですか?」
「16年ぶりに来ました」
「16年!?」
 こんな感じの月並みな会話であるが、ご婦人には1時間ほど雑談の相手をしてもらった。地元の人と話すというのは、僕の旅においてこれまであまりなかったことである。これまでの僕は、列車ばかりに乗っていて、人と話す機会は最低限の事務的な事柄しかなかった。だが、それは旅ではなく移動であるという戒めをもって、これからは旅をしていきたいと改めて思う。

 来訪記念のスタンプを頂くなどしているうちに、次の予定の時間が来た。ご婦人に礼を述べて観光案内所を辞す。駅のホームを見ると、先ほどまで乗ってきた日南マリーンが折り返しとなって停まっているが、僕はそれに乗るのではなく、駅前で所在なさげに停まっていたタクシーをつかまえ、行き先を告げた。

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