2019年4月2日火曜日

旅とは発見と思惟の積み重ねである(2015年7月 札幌~旭川~網走)

 2015年7月18日、土曜日。
 たった1か月前に来たばかりというのに、僕は新千歳空港の到着ロビーに立っていた。


 前回の旅はサイコロの指し示すままに旅しただけであるが、今回は毎年恒例となった、海の日の3連休を使った北海道旅である。
 今回は3日間かけて、旭川、網走、釧路、帯広を巡ってみる計画を立てた。だが、広い北海道であちこちに行くと欲張った結果、ただひたすら列車に乗り続けるだけの旅程が出来上がった。やはり北海道は広すぎると思う。休暇が短い日本人の手には、北海道の広さはちょっと持て余すような感じすらある。

 手荷物受取所の外では、ツアー客が列をなしてコンダクターたちの後ろに並んでいる。
 旅とは、自分でおぜん立てをして、自分の意志と足で目的地にたどり着くことで、はじめて充実感が得られると思う。すべてがおんぶにだっこでお仕着せばかりのツアー旅行の何が楽しいのかと思う。もっとも、僕が今までやってきて、今日もやろうとしている「列車に乗るだけ」という行為も、はたして旅と言えるのか甚だ疑問だが。

 それにしても天気が悪い。外を見やると雨がじとじとと降っている。雨の具合を確かめに、空港の玄関から外に出てみると、北海道とは思えないほど蒸し暑い。
 本州のいとわしい湿気から逃れてきたというのに、これでは北海道に来た意義が薄れてしまうと思うが、振り返るに北海道で雨に降られた記憶はない。これはこれで風情があるかもしれないと思い直す。


 札幌駅で、新千歳空港発の快速エアポートから、旭川行きの特急スーパーカムイ17号に乗り継ぐ。これは新千歳空港から直通してくるので、すでにたくさん乗っている。乗車率で言えば90%ぐらいだろうか。あらかじめ指定券を買っておいたので、僕は難なく座ることができたが、車内アナウンスは「自由席が混みあいまして」などとやっている。それもそうだ。雨とはいえ7月半ば、この季節に北海道を旅しないのはもったいないと誰もが思うことだろう。僕だってそう思うから、こうして旅をしにきた。

 それにしてもスーパーカムイ、何ともとらえどころのない名前である。僕は特急の名前の頭に「スーパー」などと付けるのが気に入らない性質である。何がスーパーなのかわからないし、特別急行の安売りかとも思う。
 カムイとは「霊的なもの」を指すアイヌ語である。北海道らしい響きなので、スーパーなどと安易につけてしまうのはもったいないようにも思うし、「霊的なもの」とやらへの侮辱でもあるような気がする。


 その車内で、札幌駅で買い求めた「活ホタテとホッキガイのバター焼き弁当」なる、尿酸値の高止まりを指摘する主治医が聞いたら激怒しそうな駅弁を食べて一服しているうちに外の雨はやんだが、空はどんよりと曇っていて相変わらず北海道らしくない。
 カムイの名の由来のひとつである神居古潭を長いトンネルでぶち抜いて、スーパーカムイ17号は定刻14時29分、旭川着。

 旭川は函館本線の終点であるとともに、稚内に向かう宗谷本線、ラベンダーで有名な美瑛を通る富良野線、そして今日僕がこれから乗る石北本線とのジャンクションである。3路線ともスーパーカムイ17号から好適な時間で乗り継げる列車が設定されているので、90%のうちどれほどが3線に乗り継ぐかとホームの端っこで見ていたが、意外にもそのほとんどは改札口へとつながる階段へ消えていった。


 旭川15時5分発の石北本線北見行き特別快速、その名も「きたみ」は、特別快速の名とは裏腹に、銀色のディーゼルカーが1両でやってきた。列車の入線とともに、改札に向かったはずの乗客たちも少しだけ戻ってきたようで、瞬く間に1両の座席がほぼ埋まった。
 席を確保して、もう一度列車、といっても1両だが―を眺めにホームに出る。

 僕が知っている特別快速は、電車を10両やら15両も連ねて、複々線の上を満員の客を詰め込んで走るものである。だが、今、僕の眼前に停まっている最北の特別快速は、たったの1両である。車掌も乗っていなければ、クーラーもない。「ご乗車になりましたら今一歩中にお詰め下さい」のアナウンスなんて絶対ありっこない。こんなにも素朴な特別快速があっていいのだろうかと少し戸惑うとともに、1両なのに特別快速を名乗っているのが何とも愛おしく感じる。

 だが走り出せば、特別快速の名前は伊達ではないようで、なかなかの俊足で走る。80km/hは出ていると思われる。クーラーがないがゆえ、いたるところで開け放たれた窓からの風とレールの継ぎ目の音が心地よく、旅の実感を一層盛り立てる。乗り合わせたカップルなどは、風に吹かれながら一生懸命に小さな時刻表とスマートフォンとを見比べて列車の時刻を調べている。どっちかにすればいいのにと思うが、当人たちからすれば大きなお世話であろう。


 当麻という駅に入る直前の製材所で、積み上げた材木にスプリンクラーでしきりに水を散布しているのが見える。材木は乾燥させるのが正道だとばかり思っていたのだが、どうも違うらしい。あとで人に聞くと、乾燥による割れを防ぐためではないかという。乾燥させるよりは湿らせるほうが簡単なのは、なるほど確かに自然の道理である。
 壁にかかった駅名票を見ると、「とうま」の「と」が、カタカナの「ヌ」をひっくり返したような字になっている。「と」をひっくり返すと「ヌ」になることに、恥ずかしながら生まれて初めて気がついた。

 上川への途中で、右手に大雪山らしき山並みが雲間にちらと見える。頂きには白いものが残っている。万年雪だろう。あれが大雪山かと手元の地図を見るが、大雪山という山はどこにもない。これも初めて知ったのだが、大雪山とは一つの山ではなく山群の総称なのである。たとえるならば八ヶ岳のようなものだ。八ヶ岳の個々の名前も知らない人間が、大雪山の峰々の名前など知る由もない。


 上川はホームの屋根を支える柱が半円形になっていて、ちょうど地下鉄のそれのように見える。その柱の反対側には旭川行き鈍行が、やはり1両で出発を待っている。開いた窓から、これから旭川に遊びに行くらしい若者たちが乗っているのが見える。我が特別快速きたみは、それを置き去りにして上川を去る。

 やがて住宅や農地は消え、あたりは鬱蒼とした原生林になる。
 見るものが木しかないので、じっくりと観察してみる。白っぽいのは白樺だとわかるが、他の木がよくわからない。エゾマツかと思うがカラマツのような気もするし、トドマツの可能性もある。ブナに見える木もあるが、はたしてブナはこんな寒冷地でも育つのだろうかと思う。木に飽きて線路脇を見やると、群生する熊笹が列車に吹かれ、ぐわんぐわんと頭を揺すって緑の大合唱である。

 学校では、材木を保管するときは乾燥させるのではなく湿らすとか、「と」と「ヌ」はリバーシブルであるとか、山と名乗っていても一つの山であるとは限らないとか、松の木の見分け方は教えてくれない。旅に出ると、僕は何もわかっちゃいないし、人生とは常に勉強であるといつも思わされる。だからこそ旅は何度しても面白いのであるが。

 濃淡様々な緑の車窓を見ながら、答えのない自問自答をするうちにエンジン音がけたたましくなる。どうやら北見峠にかかったらしい。原生林の中を、ディーゼルカーは先ほどまでの特別快速の面影もなく苦しそうに登っていく。
 先ほど通った上川の駅から、次の上白滝という駅までは34キロも離れている。この間で北見峠を越えるのであるが、東京でいうと、大崎を出た山手線の次の停車駅が大崎になる、つまり山手線一周ぐらいの距離がある。そんな調子だから、ここは在来線としては日本で最も駅間距離が長い区間になっている。
 昔はこの34キロの間にいくつか駅があったが、そのどれもが乗客が皆無なために廃止されている。車窓の原生林を見ていると、こんなところに駅があったことが信じられないが、それでも駅の跡は列車がすれ違う信号所になっていたり、駅舎だったと思われる小屋は、今でも業務に使われている風である。


 峠の長いトンネルを抜けるとエンジンが静かになって、列車は急に速度を増していく。ディーゼルカーに乗っていると、線路の登り下りが音ですぐに分かるから愉快である。
 白滝という駅のそばの消火栓には、人の胸ぐらいまではあろうかという巨大な赤いとんがり帽子がかぶせてあって、この辺りの雪の深さを思い知る。下白滝で上り鈍行と交換し、久しぶりに街の気配を感じると丸瀬布。ここには、駅から少し離れているが、かつて森林鉄道で使われていた蒸気機関車が走る公園がある。一度行ってみたいと思うものの、今回はその余裕がない。

 丸瀬布からも軽快に走って遠軽。ここでは列車の進行方向が変わるので5分ほど停まる。
 その間にホームを散策していると、軒先からぶら下がった発車案内板に「紋別、名寄方面」とあるのを見つけ、思わず立ち止まる。遠軽は、かつて石北本線と名寄本線を分けるジャンクションだった。
 地図を見ると、旭川からやってきた石北本線は遠軽の駅で行き止まりになっていて、ちょうど「人」の字を描いて網走へと向かっているが、昔は「人」の字のてっぺんに名寄本線という別の路線がつながっていた。その名寄本線の廃止は1989年。今から25年以上前の話で、僕は残念ながら乗ることができなかった。


 乗ることが叶わなかった路線の発車案内板を前に、僕は生まれた時代を誤ったと忸怩たる思いに駆られる。この趣味をしていると、両親には申し訳ないが、あと10年早く産まれていれば…と思うことが多々ある。10年早く産まれていれば、僕が物心つく前に廃線になった路線のいくつかには乗れただろう。「死んだ子の歳を数える」ではないが、僕が乗る前に廃止された路線の痕跡を目の当たりにすると、そんな思いが胸をつく。

 遠軽17時18分発。
 駅を出て、湧別川を渡る直前の左手に「自転車・石油ストーブ 販売整備」と掲げた商店が見える。夏は自転車、冬はストーブを生業にするのだろう。土地柄、どちらも単独では商売にならないものをうまく組み合わせていることに妙に感心する。
 遠軽の市街地を離れると、線路は再び山に分け入っていく。線路沿いに牧場があって、厩舎の中で牛が休んでいるのが見える。たい肥の臭いが鼻を衝く。その臭いが鼻腔から消え去る頃に、列車は生田原という駅を出発する。ここから石北本線は北見峠とならぶ難所、常紋峠を越える。
 その峠の頂上には、「タコ」と呼ばれる強制労働者たちの刻苦と、数多の屍の上に掘りぬかれた常紋トンネルが待っている。タコは形式上は募集という体で集められた挙句、人跡未踏の北辺の地に半ば監禁の形で収容され、ろくな休みも食事も与えられず、ケガなどで働けなくなると容赦なく殺されたという。

 この常紋トンネルでは、過去には修繕工事中に壁から人骨が出てきたことから、建設中に「人柱」が建てられたトンネルとして有名である。人柱といっても、無事故を祈るとか、神に供えるなどという高邁なものではなく、単に病気やケガで使い物にならなくなったタコを生き埋めにしたのではないかとも言われる。
 何も知らなければ、それこそ何ということもないどこにでもあるトンネルであるが、このトンネルは北海道開拓史の闇を背負っている。そして、僕は幸いにしてこの歴史を知っている。
 歴史を知っているからこそ、わずか507mのこのトンネルの闇に思いをはせることができるし、知ることを諦めた瞬間にそういう思惟の機会を失うことになる。鉄道についてのそういった思惟をしなくなって、ただうわべの車両やら何やらにしか興味を持たないようなてつおたには、僕は絶対になりたくない。歴史と風景と人があっての鉄道である。


 定刻18時24分、北見着。ここで6分接続の石北本線4673Dに乗り換えとなる。
 北海道でおなじみの、白い車体が1両でぽつんと待っていて、車内に乗り込むと頭上の扇風機がごりごりと唸りながら回っている。相当に年季が入った車両である。土曜日の夕方、部活や遊びから帰る高校生で多くの席が埋まっていて、2人掛けの狭いボックス席に一度腰を下ろすも、とても窮屈なので思わずロングシートに座り直す。この窮屈さも車両の古さゆえなのかもしれないが、それでもしかし昔ながらの青いボックスシートがずらりと並ぶ様は、何度見ても旅情をかき立ててくれる。
 美幌と女満別でほとんどの高校生が降りてしまい、残されたのは僕を含めたわずかな数の旅人だけである。ロングシートから4人掛けのボックスシートに移り、薄暮の車窓の中にかろうじて網走湖の輝きを確認すると、列車は19時33分、網走に滑り込んだ。


 僕が予約したホテルは網走駅の近くである。
 僕が旅に求めるのは、列車に乗ることと酒を飲むことであるから、列車に乗った後は、ホテルに荷物を置いて飲み屋街にでもと思うのだが、ホテルの夕食を予約しておいたので食堂に行く。
 ホテルの飯など大したことなかろうと侮っていたら、茹でたカニ足が2本に白身の焼き魚、ホタテとサーモンの刺身、カニ足の天ぷら、それに小さな鍋が、これでもかと膳に配されていて、部屋に戻る頃には飲み屋の誘惑などどこかに消えていた。

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